説教「御心に従いつつ」

2015年9月6日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第16主日

説教・「御心に従いつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記下18章28節-19章1節
    ガラテヤの信徒への手紙6章14-18節
     ルカによる福音書14章25-35節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・214「北のはてなる」
    (説教後)讃美歌54 年版・515「十字架の血に」


 今年も、早くも9月を迎えました。早くもと言いますが、昨年の10月21日から今年の1月8日までスペイン・バルセロナで過ごしてまいりました。約三ヶ月の滞在でした。1月に帰りましたので、スペインから帰ったばかりだと思っていたのです。ところが、もはや9月となり、10月ともなれば、昨年スペインに行っておりますので、あっと言う間に一年を経てしまいます。月日が過ぎ去るのは誠に早いと思っています。
本日は六浦谷間の集会としての礼拝ですが、前週は三崎教会に招かれました。三崎教会には毎月ではありませんが、隔月くらいにお招きをいただいています。三崎教会には私が最初に伝道者になった青山教会時代にお交わりがあった山田満枝さんが、三崎教会の礼拝に出席しています。2012年8月から三崎教会の礼拝に招かれていますので、それ以来、山田さんとのお交わりが導かれているのです。
 最近は二番目の娘も三崎教会に出席するようになっています。二番目の娘の星子は青山教会時代は1歳でした。その頃、羊子は三歳頃であり、教会に出席していたのです。山田さんも覚えていてくださり、今でも親しくお交わりをしているのです。ところで、8月30日の三崎教会の礼拝にお招きいただきましたが、教会への途中に「ソレイユの丘」という遊園地があります。いつも看板を見ています。その「ソレイユ」が話題になり、その意味は何かということになりました。以前にも調べたことがありましたが、その意味を忘れていました。あらためて調べましたら、「ソレイユ」の意味はフランス語で「太陽」と言う意味であることを知りました。この「ソレイユ」という言葉は、結構使われているようです。大塚平安教会在任時代、近くの交差点付近に家具屋さんがありました。しばらく営業していたと思います。大塚平安教会の家具等も購入しています。しかし、その家具屋さんが閉店してしまいました。その後にマンションが建てられました。その名称が「ソレイユ」でした。その頃、その意味を調べたと思いますが、忘れてしまいました。
 スペインに何回か滞在するうちにも、少しはスペイン語を覚えようとしました。太陽はスペイン語でSolであり、ラテン語も同じです。そして英語ではSunです。ラテン語や英語は簡単なスペルですが、フランス語のソレイユはSoleilであり、感覚的にも修飾されたスペルであり、なんとなく情緒を感じます。そういう意味で、日本語の発音である「ソレイユ」は、その名称が多く使われているのでしょう。映画館、美容院、商店、保養施設等の名称として多く使われています。導入が長くなりましたが、「ソレイユ」は人々の希望のような言葉になっていますが、私達にとって「十字架」とはどのような響きとして示されているのでしょうか。改めて、自分の中にある「十字架」を受け止めたいのであります。今朝の説教題は「御心に従いつつ」であり、御心は「十字架」でありますから、私達の存在における十字架の意味を示されたいのであります。
 私達の日々の歩みは、神の国を生きて行くことですが、神の国に生きるには、いろいろな状況を受け止め、重荷となりますが、私の十字架として背負っていくことです。主の道を生きるということは十字架を背負いつつ生きるということであります。私の十字架は何か、その十字架を共に担ってくださるイエス様に導かれたいのであります。

 旧約聖書ダビデの苦悩を示しつつ、神様の御心に生きることを示しています。サムエル記下18章28節以下が今朝の聖書です。ダビデは名君と言われた王様になりますが、王様に至る道はなかなか困難でした。もともと聖書の人々は王国ではなく、ヤコブの12人の子供たちがそれぞれ部族を形成し、その12部族の宗教連合体をイスラエルと称していたのです。イスラエルとはヤコブの別名であり、神様から与えられた名前です。王国ではないので、なかなか一つになって戦うことは困難でした。それを反省して、一人の王を立て、王国として周辺の国々に対処することにしたのでした。最初の王様はサウルでした。しかし、サウルは、はじめは神様の御心をもって治めていたのですが、次第に自分の腹で支配するようになるのです。それで神様はサウルを見限り、次なる王様としてダビデを選ぶのです。しかし、選ばれても現実にはサウル王が居る訳で、サウルに仕えることになります。ところがダビデは戦いを通して目覚ましい働きをするので、人々はダビデを高く評価するようになります。それを知ったサウル王は面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。サウルから逃れて生きるようになりますが、そのサウルはペリシテ人との戦いで死んでしまいます。それにより、ようやくダビデは王様になるのです。
 今朝の聖書は王様としてのダビデでありますが、人間的な苦悩に生きるダビデの姿です。今朝の聖書では、ダビデが「わたしの息子アブサロムよ。わたしがお前に代わって死ねばよかった」と嘆き悲しんでいるのであります。ここだけ読んだのでは、父親の子どもへの悲しみなのですが、アブサロムは父のダビデ王に対して反旗を翻したのです。従って、父と子が戦うことになったのです。アブサロムが父と戦いをしなければならなくなった状況は、聖書に細かく記されています。ここでは割愛しますが、ダビデはアブサロムが戦いを挑んできたとき、愛する子供との戦は避けており、むしろダビデは逃げて隠れるのでした。そういう状況でしたがアブサロムの軍とダビデの軍が決戦となり、ダビデの軍が勝利をおさめます。アブサロムは逃亡の中で発見され、殺されることになるのです。その知らせを聞いたダビデは身を震わせて泣いたというのです。戦いの相手は自分の息子アブサロムでした。しかし、戦いの相手であっても、愛する息子なのです。それでダビデは悲しみに暮れるのです。
 このダビデの悲しみは、親子であるので当然でありますが、ダビデに従い、反旗を翻したアブサロムの軍と戦ったダビデの家来たちからすれば、自分たちの戦いは何であったのかと言うことになります。ダビデ王様のために、反旗を翻したアブサロムと戦ったのですから、死んだアブサロムの故に嘆き悲しむダビデ王様が分からなくなってしまう訳です。そのため、軍隊の長であるヨアブは、ダビデ王に家来の心境を話すのでした。それでダビデは、極めて人間的にふるまったことを反省し、王としての道を歩むことになるのです。王として生きる責任があります。しかし、王であると共に家族を持つ者として、極めて人間的な姿を持つのです。ダビデは愛する家族のアブサロムでありますが、王としての生き方が求められているのです。

 主イエス・キリストは、キリスト者としての生き方をはっきりと示しています。今朝の新約聖書ルカによる福音書14章25節以下は「弟子の条件」として、イエス様が信仰に生きる姿勢を教えているのです。このことに関しては、前週も「祝福をいただく」との説教でも主イエス・キリストを信じて生きる姿勢を示されています。そこでは「永遠の命」をいただく者としての歩みを示されたのでした。ルカによる福音書18章24節以下で、お弟子さんのペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」とイエス様に尋ねています。その時、イエス様は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と答えています。今朝の聖書は同じような示しでありますが、「十字架を背負う」と言うことで、キリスト者としての生き方を教えているのです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と示しています。18章では「家族を捨てる」と言っていますが、今朝の14章では「家族を憎む」と言っているのです。口語訳聖書はどちらも「捨てる」と言う言葉で訳されています。言葉そのものは違うのですが、聖書全体からして「憎む」より「捨てる」として理解した方が良いと思います。
 イエス様の弟子へと招かれたペトロ、ヤコブヨハネの最初の弟子たちは、漁師でありましたが、イエス様の召しにより、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5章11節)のであります。弟子になるには、まず「捨てる」ことでした。そして、今朝の聖書は「弟子の条件」として、改めて「捨てる」ことを教えているのです。「捨てる」ということで聖書を示されるならば、何よりも神様がイエス様を「捨てる」のであります。イエス様を捨てることにより、人間の真の救いが与えられたのです。十字架は神様がイエス様を捨てた証であり、その証こそ人間の救いとなったということなのであります。
 救いは「捨てる」ことであるということです。この「捨てる」ということ、家族と訣別するというのではなく、家族に中心を置いている自分を捨てるということなのです。自分の生き方は主イエス・キリストの救いを信じて生きることであり、家族を思うあまり信仰が薄らぐことの警告であるのです。旧約聖書ダビデの生き方に示される通りです。王として生きるのか、家族を心に留めながら生きるのかと言うことであります。家族を捨てるという聖書の教えは、信仰を持たない人には誤解を呼び、つまずきともなります。聖書は良い教えが記されているので、一生懸命読んでいるのですが、この部分の「家族を捨てる」ことの教えとなると、ここで聖書を放り出してしまうのです。こんな教えにはついていけないと思うのです。家族は何よりも自分の大切な存在であるからです。これは文字通り「家族を捨てる」と言うことになるのですが、家族を常に中心としている自分を捨てるということなのです。自分の喜び、自分のもの、自分の世界を捨てなさいということであります。そうでなければイエス様が教えた「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という生き方は出来ないのです。隣人を愛するということは自分を捨てることであり、自分の気持ちを超えて相手を受け入れることなのです。
 仏教の言葉ですが、「慈悲喜捨」があります。これは、「人に情け、あわれみをかけるなら、喜んで自分を捨てなさい」と言う意味でもあります。仏教の世界でも自分を捨てることが教えられていますが、私達は主イエス・キリストの教えとして、自分を捨て、共に生きる者へと導かれるのです。
 主イエス・キリストは、自分を捨てるということは、自分の人生のそろばんをはじくようなものだと教えています。二つのたとえをお話しています。一つは、塔を立てる場合、十分な費用があるかどうか計算する。計算もしないで工事を進めているうちに、お金が無くなって工事を進められなくなると言う訳です。さらに、戦いをする場合、相手の軍隊と味方の軍隊とを比較し、戦うことができるかどうか検討する。不利だと分かれば和解するといことです。何事も計算し、もくろみ、それにより歩むわけですが、それと同じように、あなたがたの人生を計算し、もくろみなさい、そろばんをはじきなさいと教えているのです。自分を捨てる、自分の思いを超えて生きる人生が、どんなにか祝福であるか、そろばんをはじけば分かるであろうと教えているのです。その自分を捨てるということが「十字架を背負う」という教えとなるのです。

 最初に「ソレイユ」、太陽について考えてみました。太陽で示されるのは「ひまわり」の花です。大きな花が太陽に向かって咲いています。よく「ひまわり」畑が紹介されますが、畑一面に咲く「ひまわり」が黄色い花を太陽に向けて咲いている風景を示されます。「ひまわり」を示される度に、映画の「ひまわり」を思いだします。イタリアの愛し合う二人が、戦争に駆り出されないためにも、精神の病を演じたりするのですが、結局、演技であることが露見し、戦争に行くことになります。ロシアとの戦いで、寒い地域で戦い、彼は負傷して雪の中に倒れているのです。その彼をロシアの若い女性が助けるのでした。回復した彼は、その後、自分を助けてくれたロシアの女性と結婚するのです。一方、彼の婚約者は、毎日、戦争からの帰還者の中に彼を探し続けます。もう戦争が終わっているのに彼は帰らないのです。それで、ロシアに行き、戦没者墓地を訪ね、お墓を訪ねて探すのです。そのお墓はたくさんの「ひまわり」が植えられていました。そして、婚約者は生きている彼を探し出したのでした。結婚して、子供までいる彼でした。悲しみをもってイタリアに帰ってきた婚約者は、もはや彼を忘れ結婚することになります。その婚約者にロシアにいた彼が訪ねて来ます。もう一度、やり直すことまで言われますが、もはやお互いは家族を持っている状況です。悲しみつつ分かれて行くのでした。「ひまわり」は太陽に向かいつつ咲くのです。どこにいても、どのような境遇になっても、太陽に向きつつ生きてゆく二人を描いているようでした。
 私達にとって、十字架に向きつつ歩む人生が導かれています。十字架は、イエス様が私達に、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教え、導いてくださっているのです。自分の存在の中に十字架がある。十字架の御心に従いつつ歩むこと、そこに豊かな祝福の人生が導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝します。ただ十字架を仰ぎ見つつ歩む人生を導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。