説教「新しい日々の歩み」

2015年9月13日 横須賀上町教会
聖霊降臨節第17主日

説教・「新しい日々の歩み」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記37章3-11節
    ルカによる福音書15章11-24節
賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」
    (説教後)讃美歌21・523「神を畏れつつ」


 今朝は9月の第二日曜日であります。横須賀上町教会は毎月第二日曜日に聖餐式が行われています。多くの教会の場合、聖餐式は第一日曜日に行われています。それぞれの教会の取り組みであり、第一日曜日に聖餐式を行いなさいという日本基督教団の決まりはありません。第三日曜日でも、第四日曜日でも良いのです。第一日曜日に聖餐式を行うのは、やはりその月の最初の礼拝において主の聖餐をいただき、新しく導かれた信仰により歩みたいということであります。聖餐式をいただくということは、イエス・キリストを信じる信仰の原点へと再び導かれるということであります。だから教会によっては毎週聖餐式を執行している教会があります。しかし、あまり聖餐式が多いと、聖餐式のお恵みが薄らいでしまうという人もいますが、聖餐式聖餐式であり、私達の信仰の原点なのです。
 スペイン・バルセロナで娘がピアニストとして滞在していますので、私達も今まで三度滞在しています。それも二ヶ月、三ヶ月滞在するので、現地の生活を良く体験できるのでした。日曜日には私達もカトリック教会に出席し、聖餐式は毎週行われており、私達もカトリック教会のミサで聖餐式に与ったのでした。娘は出席しているカトリック教会のミサの奏楽をしています。15年前からバルセロナに滞在するようになり、スペインはカトリックの国ですから、プロテスタント教会もありますが、ほとんどがカトリック教会です。最初に出席した教会で、プロテスタント教会で洗礼を受けているが、こちらのカトリック教会で聖餐式に与れるか、聞いたのでした。そしたら、その教会の神父さんは、信仰が違うから駄目だと言われたのです。それで、別の教会に行き、やはり聖餐式に与れるか聞きました。そしたら、そのカトリック教会の神父さんは、カトリックプロテスタントも信仰は同じなので、ぜひ聖餐式に与ってもらいたいと言ってくれたのです。それで、その教会に出席するうちに、隅の方に小さなオルガンが置いてあるのを知りました。置いてあるだけで使われてないのです。カトリック教会も讃美歌を歌いますが、奏楽なしで歌っています。讃美歌の本はありますが、歌詞だけ書かれており曲は書かれてないのです。だいたいは神父さんに合わせて歌っていたのです。それで、娘は神父さんに申し出て奏楽奉仕をするようになりました。もう久しく奏楽なしのミサでありました。そのうち、娘は自分のグランドピアノを購入しましたが、自宅には置けないので、教会に置かせていただくようになりました。そして、ミサにおいての奏楽はそのピアノを用いて行っているのです。今では教会の皆さんもピアノによる奏楽が当たり前になっているのです。たまに都合で教会に行かれないと、次のミサの時には説明するのが大変であるというのです。カトリック教会の皆さんは、毎週のミサにおいて聖餐式に与り、新しい姿で一週間を歩んでいると示されたのです。まさに聖餐式に与るということは「新しくされる」原点であります。

 私たちが「新しくされる」ということ、それは私たちが神様の御心に生かされていることを知ることです。今、私が居る状況に神様の御心が与えられていることを知ること、この私が「新しくされて」いることなのです。旧約聖書はヨセフを通して証しています。
 旧約聖書は創世記37章3節から11節まで読まれましたが、本来28節までが今朝の聖書ですが割愛しました。メッセージの中で示されるからです。聖書は最初に神様から選ばれた人としてアブラハムを記します。そして次がイサクであり、ヤコブへと族長時代が続きます。そのヤコブには12人の子供が与えられます。3節に「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」と記されています。イスラエルとはヤコブの別名で、神様から与えられた名前であります。創世記32章23節以下に「ぺヌエルの格闘」が記されています。ヤボクの渡しでヤコブが神の存在と格闘したというくだりです。その時、与えられた名がイスラエルでした。後にヤコブの子供たち、12部族全体をイスラエルと称するようになり、さらにイスラエル国家という名称になっていきます。
 ヤコブには12人の子供たちが居ます。古代のことですから、一人の女性から生まれたのではなく4人の女性から生まれた子供たちです。ヤコブは本来ラケルを愛していましたが、その家のしきたりとして姉のレアと結婚しなければなりませんでした。そして続いて妹のラケルと結婚することになるのです。二人の奥さんが居たわけです。姉のレアは6人の男の子を産みますが、妹のラケルは子供が生まれません。それでラケルは自分の召し使いビルハにより子供を産ませ自分の子供にするのです。ビルハは二人の男の子を産みます。姉のレアはもはや自分には子供ができないと判断し、自分の召し使いジルパから子供を二人産ませるのです。そして、ついにヤコブの愛するラケルからも子供が二人出来ることになります。11番目の子供がラケルの子でヨセフでありました。ヤコブの二人の妻による子供の産み比べにより、12人の子供たちが与えられたのでした。
 今朝の聖書は11番目の子供ヨセフが新しくされていくことを示しているのです。ヤコブは11番目の子供は愛するラケルの子供であり、特別にかわいがりました。聖書にも記されるように他の子供たちは、ヤコブのヨセフへの溺愛を面白くなく、ヨセフを憎むようになるのです。ヨセフも父の愛を受けながら、兄達を見くびっていたのであります。ヨセフは夢をみます。「わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結えていると、いきなりわたしの束が起きあがり、真直ぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」というのでした。これを聞いた兄たちは面白くありません。ますますヨセフを憎むのです。それからまたヨセフは夢を見て、両親や兄弟たちに話します。「太陽と月と11の星がわたしにひれ伏しているのです」というと、父はヨセフを叱るのですが、そのヨセフの夢を心に留めたのでした。ヨセフ自身も夢の意味が分かりません。しかし、次第に自分に注がれている神様の御心に目覚めて行くのです。
 ヨセフは兄弟たちの妬みと憎しみでエジプトに奴隷として売られていきます。そのエジプトで、計らずもエジプトの王様の不思議な夢を解いてあげるのでした。王様はヨセフが与えた夢の解説に満足し、自分の次に位置する大臣に命じます。王様の夢は、7年間の豊作の後に7年間大飢饉、冷害がやってくるので、豊作を大事に貯蔵しなさいということです。そして、まさにその後の大飢饉は大変なものでした。しかし、貯蔵されている穀物によりエジプトは安泰であったのです。飢饉はヤコブの一族が住んでいるカナン地方にもおよび、エジプトには食料があるからと、ヤコブの子供たち、ヨセフの兄弟たちが買い出しにやってくるのです。そこで大臣のヨセフと、ヨセフを奴隷に売り飛ばした兄弟達との対面となります。その時、ヨセフは「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです」と述べたのでした。兄弟たちは、ヨセフが身を明かしたとき、非常に恐れたのでしたが、ヨセフは神様のご計画として、今ここにわたしが居ると示したのでした。今、自分には神様の御心が注がれていることを受け止めているのです。生意気な、憎むべき存在のヨセフでしたが、神様の御心の中にいる存在へと導かれているのです。ヨセフはその神様の現実に与えられる御心を受け止めたのでした。まさに新しくされたのであります。

 この私に神様の御心が注がれていることを受け止めること、それが「新しい日々の歩み」としての生き方なのです。主イエス・キリストも一つのたとえ話を示しながら、神様の御心が注がれていることを知り、新しく生まれ変わった人をお話しています。
 新約聖書ルカによる福音書15章11節以下は、「放蕩息子」のお話です。このイエス様のお話は、悔い改める教えとして、良く知られている聖書です。ここで解説しなくても、この聖書をそのまま読めば、神様の御心が示されて来るのです。もちろん、悔い改めに関して示されるのでありますが、今朝は、神様の御心が注がれていることを知ることで、新しく生きる者へと導かれることの示しなのであります。ルカによる福音書15章は、三つのたとえ話が記されていますが、いずれも失われた存在が戻ってくる喜びとして示されています。1節からは「見失った羊」のたとえ話ですが、迷子の羊を羊飼いがどこまでも探し歩いて、そして見つかったということで喜ぶことが記されています。8節からは、「無くした銀貨」を家中探し、見つかったということで、近所の人たちと喜び会うことが記されています。その喜びは人間の喜びですが、天の喜びであると示しているのです。三つ目のお話は、動物とか銀貨ではなく、人間が戻ってくることでした。
 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」と記しています。彼は遠い国へと行ったようです。なるべく父から離れた所と考えたのでしょう。そこで放蕩三昧に過ごしましたので、お金は瞬く間に無くなります。やむなく豚飼いの仕事をします。聖書の人々は、豚は汚れた動物としていますから、豚飼いの仕事は、まさに惨めな姿であり、どん底まで落ちたということです。そういう中で、彼は空腹のあまり、父のところに帰る決心をするのです。それはパンのためです。食べるものが無いから父のところに戻るのです。これが動機です。そして、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」との言葉を言うつもりで帰ってゆくのです。父親は帰ってきた息子をみると、すぐに抱きしめて喜ぶのです。道々、言うべきことを息子は言うことができませんでした。「雇い人の一人にしてください」との言葉を父親は言わせなかったのでした。息子の父のもとへ戻る動機はパンの故です。しかし、どのような姿勢で戻ってこようとも、父はこの放蕩息子を、愛をもって受け止めたのです。この時、この息子は父の御心を知ることになります。自分がどこに生きても、どのような生き方をしても、自分に御心を注いでいるということを知ったのです。もはや、今ここにいるのはパンの故ではなく、自分に御心が注がれていることを知ったからなのです。父の計り知ることのできない愛が注がれていることを知ったのです。この自分に御心が注がれているということを受け止めた息子は、新しく生きる者へと導かれたのでした。このたとえ話により「悔い改め」として教えられても良いのですが、御心が注がれていることを知ることの喜びは大きいと言えるでしょう。このような自分でありますが、神様が御心を注ぎ、導きを与えてくださっていることを知ったのは旧約聖書のヨセフでした。そして、この放蕩息子なのであります。

 私たちが教会に導かれること、いろいろな動機があります。神様の導きだということになりますが、教会で歌われる讃美歌に心が洗われるようで、それで毎週礼拝に出席するようになるのです。あるいは教会の交わりは楽しいものです。昔はあまり遊ぶ場がありませんでしたが、教会は楽しい遊びの場を提供していました。ゲームやフォークダンス等、健全な遊びをしてくれるので、それが楽しく教会に結びついて行くのです。放蕩息子の父のもとへ帰る動機はパンを食べるためです。その時点では悔い改めは無いのです。そういう動機でよろしいのです。そういう動機で教会に集ううちに、この自分の存在を受け止め、御心を示してくださっている神様を示されるようになるのです。何よりも主イエス・キリストの十字架の贖いへと導かれた時、神様が自分を深く見つめておられ、イエス様により神様が私を導いてくださっていることを信じるのです。そこに新しい姿があります。日々、新しくされていく基を与えられるのです。そのため、教会は聖餐式を執行し、イエス・キリストの御心を示されているのです。聖餐式に与ることは、イエス様が教え、導いておられる「自分を愛するように。隣人を愛しなさい」という生き方へと導かれることなのです。その意味でも聖餐式を基として歩みたいのであります。
 娘はカトリック教会のミサの奏楽奉仕をしていますが、サグラダ・ファミリアのミサでも奏楽をしています。そして、親しくしている他の神父さんのカトリック教会で、クリスマスのミサの奏楽をすることになりました。私達も一緒に出席したのです。そうしましたら、その教会の神父さんが、私も一緒にクリスマスのミサを司るように勧めてくれたのです。驚きましたが、折角のお勧めであり、神父さんの白いガウンをお借りして、一緒にミサを担当しました。なんか牧師ではなく、神父さんになったようで、不思議な思いでした。その時、聖餐式も担当したのです。カトリック教会の聖餐式を担当しながら、教会の皆さんが、本当に喜びつつ聖餐式に与っていることを示されたのでした。毎週、聖餐式に与る喜びを示されたのであります。
聖餐式に与り、新しい日々の歩みが導かれるのです。聖餐式は信仰の原点でありますが、第二日曜日以外は聖餐式はありません。聖餐式が執行されなくても、主の聖餐は礼拝において与えられているのです。聖餐式を受けなくても、イエス様の御心を示されているのです。その意味でも、毎週の礼拝に出席し、新しい日々の歩みを与えられたいのです。
<祈祷>
聖なる御神様。日々、御心を与えてくださり、新しい歩みを感謝致します。御心を行う者へとお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。