説教「賢い人生」

2015年9月20日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第18主日

説教・「賢い人生」、鈴木伸治牧師
聖書・アモス書8章4-7節
    テモテへの手紙<一>6章11-19節
     ルカによる福音書16章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・217「あまつましみず」
    (説教後)讃美歌54年版・495「イエスよ、この身を」


 昨日は連れ合いのスミさんの誕生日であり、子供たちが集まり誕生会をいたしました。私は5月の誕生日であり、共に1939年生まれですから76歳になったわけです。私達は1969年に結婚しましたので、46年間共に歩んでいるのです。それで、これまでの二人を振り返り、「共なる歩み、ダイジェスト版」としての写真集を発行しました。今までの写真をまとめたもので、既に残されている写真です。しかし、ダイジェスト版として見るとき、これまでの歩みが示されますので、良いものだと思っています。結婚して、それが私の牧師としての始まりであり、教会の働きを中心にして歩んでいましたから、二人の記念写真はあまりありません。三人の子供たちが順次生まれ、成長していく中でも、いつも子供たちが中心ですから、二人の記念写真はあまりないのです。そして2010年3月に大塚平安教会を退任しました。その後、夫婦の写真が残されるようになっています。現役退任後は娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、今までにも三度滞在しています。マレーシアにも滞在し、それらの記念写真が多く残されています。従って、写真集「夫婦の共なる歩み、ダイジェスト版」を発行しても、あまり昔の写真はなく、比較的最近の写真ばかりです。大切な記録にもなるでしょう。
 人生において何が喜びなのか、共に歩むものが、互いにいたわりつつ歩むこと、これこそ大きな喜びなのです。お金がたくさんあること、願わないことはありませんが、願ってもかなわないことですから、与えられた生活を受け止めながら歩むことでありましょう。昨年10月21日から今年の1月8日まで、バルセロナで過ごしてまいりました。もうかれこれ一年前になります、約二ヶ月半、毎日の日々が思い出されますが、サラゴサの街の宝くじやさんが思い出されます。マドリットの知人を訪ね、その帰りにサラゴサで宿泊しました。街を見学しているうちにも、街の中を小さな自動車が動き回っています。自動車というより、足の不自由な人が電動車椅子を運転しているのを見かけますが、もう少し大きい電動車椅子で走り回っているのは宝くじ屋さんでした。あっという間に通り過ぎてゆくのですから、あれでは宝くじを買おうとしても買えないと思います。しかし、通り過ぎたと思っても、すぐ後から別の宝くじ屋さんが来るので、声をかければよいのです。今でも、猛烈なスピードで宝くじを売りまわっている姿が思い出されます。
 どこの国にも宝くじ屋さんがあるもので、バルセロナの街でもあちらこちらに宝くじを売る店がありました。こちらでは本当にちいさい小屋みたいな所で売っています。あんなに小さな場所に一日座っていたら、気持ちがおかしくなるのではないかと思ってしまいます。とにかく、どこの国の人々も、くじを当ててたくさんのお金を持つ夢はあるのです。その様な人生と共に、やはり私達は祝福される人生を歩みたいのであります。今朝は祝福の人生とは、賢い人生とはどのように生きるのかを示されています。

 旧約聖書アモスという預言者はいちじくを栽培する農民でした。神様はこのアモスを伝道者に選び、御心を人々に示したのです。聖書のこの時代は北イスラエルと南ユダに分かれていますが、北イスラエルの荒廃ぶりは南ユダに住むアモスの耳にも聞こえていました。紀元前8世紀の時代ですが、北イスラエルはヤロブアム2世が王様の時代でした。宗教的にも社会的にも堕落していたのです。その堕落ぶりは今朝の聖書で示す通りです。
 「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」と叫んでいます。不正な商人たちが「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ」と言っていることを指摘します。「新月祭」は、月の始まる日を新月としてお祝いしていました。この習慣は聖書の人々がカナンに定着する以前からカナン地方でお祝いされていました。聖書の人々もこの習慣を取り入れ、むしろ新月祭は神様の示された日として聖なる日としていました。従って、この日は聖なる日ですから仕事を休んで、聖なる神様を崇めたのであります。「安息日」は土曜日になります。神様が天地を造られたのが日曜日から金曜日までで、土曜日は神様が安息された日であり、神様の創造の御業を仰ぎ見る日でした。そのため一切の労働が禁じられていたのです。商人たちは寸暇惜しまず商売をして金儲けをしたいのです。それも不正な金儲けでした。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」と言いつつ商売をしているのです。升を小さくするということは、同じ値段で少ししか与えないということです。分銅を重くするということは、同じ目盛りでたくさん仕入れるということです。しかも靴の値段で人間を買い取るというのです。くず麦を売るとも言われています。不正を働いてはならないということは、そもそも十戒に示されている掟であります。そのため、レビ記19章35節以下、「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導きだしたあなたたちの神、主である」と教えているのです。
 聖書の掟は人道的なものであり、人が共に生きるための指針であるのです。レビ記19章は人々が「聖なる者となれ」として教えています。時々引用しますが、9節以下に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘みつくしてはならない。ぶどう畑の落ちた実は拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と定めています。貧しい者、寄留者、孤児等、これらの人々も生きて行かなければならないのです。その生きる道を与えてあげるのが、聖なる民としての生き方なのです。
 アモスは北イスラエルの人々が、この基本的人間の生き方を忘れていることに対して、声を大にして叫んでいるのです。あなたがたの不正は、神様が見ておられる、神様はその不正を決して忘れないとしています。神様を信じて生きる者は、人々と共に生きることが原則であると示しているのです。あなたがたは金銭を中心に、そこに生きる価値を置いているが、そうではなく、本当に価値あるものを求めなさいと教えています。本当に価値あるものは、歴史を通して示されてきた十戒を中心とする神様の御心です。神様の御心は他者を見つめ、自分の心に入れ、共に生きることであり、聖なる者になるということです。

 社会に現れたイエス様は、旧約聖書の示しのように、祝福される人生、賢い人生を導いているのです。ルカによる福音書16章は、イエス様が「不正な管理人」のたとえを通して祝福の人生を教えています。前回は「放蕩息子」のたとえを通して、今の自分に神様の御心が注がれていることを知ることでした。15章でお話されている三つのたとえは、徴税人や罪人にお話されていますが、ファリサイ派や律法学者たちにもお話されているのです。そして16章になりますが、「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」として「不正な管理人」のたとえをお話されているのです。「放蕩息子」のお話は、人々に神様が御心を注いでくださっている教えですが、「不正な管理人」のお話はお弟子さん達のためでした。イエス様のお弟子として従うとき、いよいよ祝福の人生を歩むよう教えているのです。
「ある金持ちに一人の管理人がいた」とお話を始めています。この管理人が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言う。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言うのです。そこで、管理人は生き伸びる策を立てます。管理人は主人に借りのある者を一人一人呼びます。最初の人は主人から油百バトス借りています。一バトスは23リットルですから、かなりの量になります。それを百バトスではなく、50バトスに書き直させるのでした。今度は小麦百コロス借りている人には80コロスと書き直させるのでした。一コロスも23リットルです。たくさんの小麦を借りていることになります。こうして出入りの商人に便宜を計ってあげます。ところがこの不正なやり方を見た主人は、管理人の抜け目のないやり方を褒めたのであります。ここまではたとえですが、後のことはイエス様が教えとして言われていることです。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる」と言われているのです。
 この「不正な管理人」の教えをどのように理解されるでしょうか。主人の財産をごまかしているのですから、確かに不正な事をしています。ここで主人と管理人との関係を理解しておかなければなりません。マタイによる福音書25章14節以下で、イエス様は「タラントン」のたとえをお話されています。ある人が旅に出るにあたり、自分の財産を僕たちに預けます。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを委ねました。5タラントン預けられた人も2タラントン預けられた人も、それで商売をして、倍の利益をもたらしたのです。主人の財産を勝手に使って良いものかと思いますが、用いなければならないのです。そのまま持っているのではなく、有効に用いるということです。このタラントンから「タレント」という言葉ができるのですが、人には皆タラントン、賜物、能力、才能が与えられているのであり、それを生かしつつ生きるのが人間であるのです。管理人は主人の財産の管理です。それは財産を十分用いることです。
 管理人は出入りの商人に便宜を計ってあげました。それなのに主人は管理人を褒めているのです。誰かが損をしていることになるのです。もちろん出入りの商人ではありません。主人でもないのです。主人は受けるべき収入があるのです。従って、損をしているのは管理人になるのです。便宜を計り、主人には利益を渡すと、自分の収入がなくなるということです。自分の利益を犠牲にして、出入りの商人を喜ばせてあげたのです。そこでイエス様は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と教えています。ここで「小さな事」と言われていますが、人間関係のことです。毎日の営みの中で、他者の存在をしっかりと受け止めて生きること、小さな事ですが、これこそ「本当に価値あるもの」なのです。忠実に小さな人間関係を生きるとき、「本当に価値あるもの」をいただけるのです。「本当に価値あるもの」とは主イエス・キリストの御心です。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との「本当の価値あるもの」の生き方が導かれて来るのです。
 これは弟子たちにお話されていることです。「本当に価値あるもの」をいただいて生きるために、小事である人と共に生きること、旧約聖書以来示されてきた十戒を基本として生きること、それにより大事である祝福の人生、賢い人生に導かれるのです。

 「祝福をいただく人生」ということで、今朝の聖書の示しをいただいています。「祝福をいただく人生」という言葉では、受け身的な印象になりますが、もう少し積極的に示されるならば、本日の説教題「賢い人生」ということになるのです。このことからO・ヘンリーの短編集「賢者の贈り物」から示されます。貧しい若い夫婦の物語です。クリスマスになり、お互いに贈り物を考えています。妻のデラはクリスマスの贈り物のために、生活費を切り詰めて貯めてきました。しかし、夫のジムの贈り物を買うお金にはなりません、夫のジムは祖父から父親に贈られ、そしてジムに贈られた懐中時計を持っています。しかし、懐中時計は鎖をつけて使うのですが、鎖はなく、皮のひもで使っているのです。皮のひもの時計は人前では、みっともなくて使えないのです。それで、デラはジムのために時計の鎖を贈り物にしたいのです。しかし、お金がありません。デラは生まれつき素晴らしい金髪の持ち主です。それで悲しいことですが、金髪を売ってジムの時計の鎖を買い求めたのでした。そして、クリスマスの日、外出から帰ったジムは、驚いてデラの頭を見つめています。デラはジムの時計の鎖を買うためにやむなく金髪を売ったと言うのでした。そして、苦心して買い求めた時計の鎖をプレゼントとしてジムに渡すのです。ジムは放心したように受け取りますが、もはや時計がないことを告げます。デラの金髪にふさわしい櫛を買うために時計を売ってしまったのです。二人の贈り物はむなしいのでしょうか。
 O・ヘンリーは最後に記しています。「最後に一言…どんな贈物をする人々よりも、この二人こそ最も賢明なものであったということを、現代の最も賢明な人々に向って言わしていただきたい。プレゼントをやりとりする人々の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢明な人である。彼らこそ『賢者』なのだ。」
 デラとジムがなぜ賢者なのでしょうか。それはイエス様のたとえ話に示されています。「不正な管理人」の生き方です。自分を捨てて、一人の存在を大切にすること、その人生こそ「賢い人生」なのです。ジムは最後に言いました、「僕達のクリスマス・プレゼントを片づけて、しばらく、そっと仕舞っておこうよ。今すぐ使うには、あまり勿体なすぎる。」相手の愛をしっかりと受け止めて生きる、積極的な、賢い人生なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。小事に忠実な者へと導いてくださり感謝致します。神様に祝福される人生を歩ませてください。イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。