説教「義の太陽」

2015年12月13日、横須賀上町教会 
「降誕前第3主日

説教、「義の太陽」 鈴木伸治牧師
聖書、マラキ書3章19-24節
    ヨハネによる福音書1章19-28節
賛美、(説教前)讃美歌21・231「久しく待ちにし」
    (説教後)讃美歌21・410「昇れよ、義の太陽」


降臨節第三週となり、いよいよクリスマスが近くなりました。今年は次週12月20日がクリスマス礼拝となります。なんとなくまだ早いとの思いもありますが、既にクリスマスとしての集いが開かれているのです。前任の大塚平安教会時代、幼稚園でお母さんのクリスマスを12月の最初の日曜日の夕刻に行っていました。今年で言えば12月6日になりますが、本当にまだ早いとの思いがありました。しかし、クリスマスの近くになりますとお祝いの会がいくつも行われますので、幼稚園は早めに行いましょうとの趣旨でした。実際、10回くらいもクリスマスの集いが開かれるのです。そして、多くの場合、24日の燭火礼拝をもってクリスマスの集いが修了するのですが、この頃になると、不謹慎な言い方をすれば、もはや疲れ果てて迎えるクリスマスにもなっているのです。思わず、「やっと終わった」なんて言うのですから、イエス様に申しわけないと思いました。
いろいろな団体がクリスマスをお祝いします。所属する団体が多ければ多いほど、クリスマスの集いが多くなるということです。それだけ、皆さんはクリスマスに関心があるのです。キリスト教の皆さんばかりではなく、社会全体がクリスマスを喜んでいるのです。賑やかな街はきらびやかなクリスマス飾りであり、街を歩けばクリスマスソングが鳴り響いています。私が住んでいる付近も、大きなイルミネーション飾りをしている家もあります。結構、クリスマス飾りをしている家があるのです。日本の国は本当にクリスマスが大好きなようです。
昨年の今ごろはスペイン・バルセロナに滞在していました。10月21日から今年の1月7日まで二ヶ月半の滞在でした。今回はスペインのクリスマスを体験したかったので、あえて1月6日の顕現祭の頃まで滞在したのでした。スペインはキリスト教の国ですが、特にほとんどはカトリック教会です。待降節が始まると、サグラダ・ファミリアの周辺には露天商が建ち並びます。クリスマス関係の物を売る店です。クリスマス飾りを売っているのですが、クリスマスに関わる人形が多く売られています。馬小屋のイエス様、マリアさん、ヨセフさん、羊飼い、占星術の学者ではありますが、スペインでは王様になっています。牛や馬、羊等、クリスマスに関わる様々な人形が売られているのです。結構な値段ですので、毎年少しずつ買い求める人が多いそうです。それらのクリスマス物語の人形を飾ってクリスマスを待望しているのです。しかし、街を歩いても日本のように華やかな飾りつけは見られません。時にはクリスマスツリーを飾っている店がありますが、あまり見かけません。クリスマスソングも聞こえてはこないのです。しかし、サグラダ・ファミリアが時刻を鐘で知らせていますが、いつもはスペイン民謡を鐘で鳴らしています。この時期になるとクリスマスソングを鐘で知らせるのです。日本の華やかなイルミネーションは見かけませんが、その代わり、道路にはクリスマスの電飾がきれいです。どこの道路もいろいろなクリスマスの電飾を施していますので、それだけでクリスマスの気分が盛り上がって来るのです。それだけです。キリスト教の国でありますが、日本のように大騒ぎしてクリスマス飾りをするということはないのです。やはり人々は、クリスマスはイエス様の御生まれになった喜びでありました。だから、待降節にはイエス様がいないのです。教会にもクリスマス物語が飾られていますが、馬小屋でマリアさんとヨセフさんが飼葉桶を見つめていますが、その飼葉桶にはイエス様はいないのです。12月25日になって、イエス様が飼葉桶に存在することになるのです。だから人々の思いは、早くイエス様が飼葉桶に存在してほしいとの思いなのです。そして、待ちわびたクリスマスのミサには、ミサが終わると神父さんが抱いているお人形のイエス様の足にキスをして帰って行くのでした。まさに信仰のクリスマスであると思いました。御生まれになったイエス様を輝く太陽のように喜びながら新たなる生活が始まっていくのです。
私達もクリスマスを待望していますが、太陽のように輝くイエス様を待望しましょう。

 旧約聖書はマラキ書の示しです。3章20節、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る」と示されています。神様の御心をいただくものは、癒しが与えられ、喜びに溢れると示しているのであります。牛舎の子牛たちは飼い葉桶から食べ物を豊かに与えられ、躍り出て飛び回ると示しています。
 マラキ書は旧約聖書の最後に置かれている聖書です。このマラキ書の背景は神様の存在に対して、懐疑的にとらえる人々が多くなってきた状況です。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで苦しみの生活をすること、約50年と言われます。捕われに生きることを捕囚と称していますが、その捕囚から解放されるのはペルシャの国が強くなり、バビロンはペルシャの前に衰退していくのです。捕囚から解放された人々は都エルサレムに帰り、破壊された神殿を修築いたします。そして、再び神殿が完成するのですが、国民の生活は困難が多く、いったい神様の導き、恵みは何処にあるかと思うようになるのです。そういう社会状況の中で、マラキと言う預言者は、神様の救いを信じて待つように教え導いているのです。そして、神様は昔現れた預言者エリアを再び人々に遣わすと知らせているのであります。
 エリアという人は昔現れた人で、神様の御心を人々に与え、導きました。後の人たちも、エリアの存在を示されていました。エリアが現れて、子ども達が父の教えに向かうことを導くというのであります。父の教えはモーセを通して与えられた「掟と定め」です。すなわち十戒であり、それに伴う神様のお心にある定めなのでした。人間の基本的な生き方を示しているのが十戒なのであります。この社会の貧困と苦しさの中に生きているあなたがたは、だから神様の導き、恵み等はないと言ってはいけないと教え、神様はあなたがたのために力強い導き手である預言者エリアを再び遣わします、と教えているのです。
 預言者マラキは社会が困難な生活であればこそ、神様の示しを見失うことなく、今こそ神様に立ち返って御心に生きることを示したのでした。私たちが現代に生きるとき、どうしても不安を持たざるを得ない状況であります。日本の災害は人々に苦しみを与え続けています。それと共に世界の不安な動きが続いています。無差別に人が殺されて行くような状況が続いているのです。いろいろな社会情勢、人間の恐ろしい行動、社会的行く末、この先どうなっていくのか不安が重なるとき、神様の導きは何処にあるかと懐疑的に思うことは、実にマラキの時代と重なるのであります。マラキはエリアを遣わすと示していますが、そのエリア的存在が新約聖書においてヨハネなのであります。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と自らを紹介したのがヨハネという人でした。ヨハネイエス・キリストより先に現われ、人々に神様のお心を示しながら、後から来られる真の救い主を証したのでありました。
 ヨハネが人々に現われたとき、人々はヨハネが何者なのか戸惑いました。「あなたはどなたですか」と人々は尋ねます。すると、ヨハネははっきりと言いました。「わたしはメシアではない」と言います。人々は「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」とはっきり否定します。「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と人々が尋ねると、ヨハネは「わたしは声だ」と言ったのであります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」とヨハネイザヤ書40章3節の言葉を自分に当てはめて紹介したのでした。荒れ野で叫ぶ、すなわち荒れ野とは現実の社会であります。現実の社会に失望しており、希望もない、そういう状況はまさに荒れ野でした。この社会、荒れ野の社会に救い主が現われることを、声を大にして告げたのがヨハネでありました。
 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアさんとエリサベトさんの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアさんに現われる天使ガブリエルが、「神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられる」と告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトさんもザカリアさんも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアさんは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからです。
 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に証しする声であったのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。荒れ地に道を備えたり、広い道にすることはできません。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道をまっすぐにせよ」と言っていることも同じであります。
 私たちの心の中には様々な思いがあります。自分の生きる支えと思っていること、家族のこと、人間関係のこと等であります。様々な思いは、時には私を喜ばせ、希望にもなります。そして、それらは下火になって別の思いが私を支えるようになるのです。そのような様々な思いがある時、広い道を通せ、主の道をまっすぐにせよと言われるのです。様々な思いを持つ私が広い道を通すことができるのでしょうか。主イエス・キリストは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)と教えておられます。心の中にたくさんの思いがあると、神様に向かうことができなくなるのです。心の中に何もなくなることによって、真に神様のお心を求めるようになるのです。それは、「荒れ野に道を備え、広い道を通す」ことと同じ示しなのであります。
 「あなたはだれだ」とヨハネに問い続けた人々は、「あなたはメシアでも、エリアでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と、むしろ厳しくヨハネを裁いています。それは、彼らの中に固定的な観念があり、豊富な知識がヨハネの声を聞くことができなくしているのでありました。彼らは広い道を通すどころか、狭い道すら通すこともできないほど、心の中にはいろいろな思いが詰まっていたのであります。時の社会の中で、まさに荒れ野の中で、叫び声をあげたヨハネの示しを与えられたいのです。
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 私はクリスマスになると、心に思い浮かべている思い出があります。私は小学校3年生の中頃から日曜学校に出席するようになりました。その経緯については時々お話ししていますが、近くの教会の日曜学校の子供達が、入院している母をお見舞いしてくれたことが機縁となります。その日は「花の日」でありました。その後、母は退院しますと、私をその日曜学校に連れて行き、お見舞いの御礼を述べるとともに、これからは息子が出席しますから、よろしくお願いしますと言っているのです。私の意思に関係なく、それからは日曜日になると教会へと送り出されていたのでした。4年生、5年生、6年生の時は皆勤賞までいただいていました。11月頃になって、小学校の友達が日曜学校に出席するようになりました。彼は頭も良く、ハンサムでみんなの人気者でした。彼が自分も日曜学校に行くと言ったとき、なんとなく不吉な予感がしていました。日曜学校ではクリスマスには劇を演じるので、その準備が始まっていました。そして、劇の配役を先生が発表したのですが、まだ日曜学校に来たばかりの彼がヨセフさんに選ばれたのでした。マリアさんと共に主役でもあるのです。そして、私はと言えば、ヨセフさんは大工であり、その大工仲間の一人であったのです。セリフ等はなく、ただヨセフさんの周りをうろちょろしているのです。この時は本当に悲しかったのです。日曜学校に休むこともなく出席していました。それに対して来たばかりの彼を主役にしたのですから、先生を恨みました。もう、日曜学校には行きたくないと思いました。しかし、私はそれでも、辛い思いがありましたが、日曜学校に出席していたのです。それこそイエス様のお導きがあったと示されているのです。忘れもしないのですが、彼の名前は「福島君」と言うのですが、クリスマスが終わると、もう彼は来なくなりました。なんか、ほっとしたような思いでいました。
 こんな昔のことをお話ししたのですが、今だから思うのですが、悲しみの中にこそイエス様のお導きがあるということです。そこにこそ広い道が与えられているのです。イエス様を太陽として、私の中を歩んでくださっているのです。クリスマスがまいりました。ただ喜びを求めるのではなく、現実の中にイエス様がお出でになることの希望をもってクリスマスを迎えたいのです。現実の私と共に歩んでくださるイエス様なのです。「義の太陽」とは、主イエス・キリストの十字架の救いであります。
<祈祷>
聖なる神様。義の太陽を昇らせ、お導きくださり感謝致します。義の太陽の輝きを多くの人々に示すことができますよう。キリストの御名によりおささげします。アーメン。