説教「喜びのお告げ」

2015年12月20日、六浦谷間の集会 
「降誕前第1主日」クリスマス礼拝

説教、「喜びのお告げ」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書7章10-14節
    ルカによる福音書2章8-20節
賛美、(説教前)讃美歌21・261「もろびとこぞりて
    (説教後)讃美歌21・264「きよしこの夜」


クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストが世に現れたということでお祝いしているのですが、まだ生まれたばかりの赤ちゃんです。それなのに世界中がお祝いしているのです。それは後に、イエス様が人々をお救いになる十字架にお架りになるからであります。その十字架のお救いにより、人々が喜びを与えられ、希望の信仰をもって歩むようになるのです。この社会には素晴らしい、あるいは偉大な働きをする人々がいます。その人々の存在を喜びますが、生まれた赤ちゃん時代を思い出して、大騒ぎをしてお祝いする存在はありません。仏教の御釈迦さんの誕生日は4月8日とされていますが、一部の人々だけがお祝いしているのです。イエス・キリストが御生まれになったクリスマスは、生まれた喜びもありますが、その後の十字架の救いが中心になっていますから、人々の喜びとなり、お祝いしているのであります。誕生日をお祝いしているのではなく、救いを喜び、感謝するのがクリスマスなのです。従って、クリスマスと十字架は一体となっているのです。世の人々は、その十字架の救いはなく、ただイエス様の御生まれになったことを喜んでいるのです。十字架の信仰があって、真に喜びのクリスマスになるのであります。
昨年の今ごろはスペイン・バルセロナに滞在していました。娘の羊子の結婚でバルセロナに行ったのですが、今回はスペインのクリスマスを体験するために、今年の1月7日まで滞在しました。日本のプロテスタントの教会は、クリスマス礼拝は12月25日の前の日曜日に行います。従って、12月19日にクリスマス礼拝がささげられる場合もあります。25日が日曜日であれば、その日がクリスマス礼拝ですが、多くの場合、今年のように12月20日にクリスマス礼拝となります。24日にはキャンドルサーヴィスを行うのですが、25日は何も行わない教会が多いのです。25日は家庭でクリスマスをお祝いしてください、ということが教会の言い分であります。スペインでは待降節になると、サグラダ・ファミリア教会の周辺には露天商が建ち並びます。クリスマス関係の品物を売る店です。それが23日になると片付けはじめ、24日には露天商の屋台は跡形もなくなります。日本の場合には、むしろ24日、25日こそ売れるので商売をしているのですが、どこにも露天商の屋台はないのです。皆さんは24日、25日は教会のミサに出席するのです。クリスマスのミサ、礼拝はクリスマスの当日に行うのであり、25日に近い日曜日に行うのではありません。従って、12月20日の日曜日は普通のミサ、礼拝なのです。24日の夜はそれぞれの教会のミサに出席しますので、大勢の皆さんが教会に集まるのです。翌日もクリスマスのミサですが、高齢者が多く出席していました。若い人たちは24日のミサに出席します。高齢者は夜のことなので、むしろ25日の昼間のクリスマスのミサに出席するのでした。
バルセロナ滞在中であり、私たちは24日のバロキア教会のミサに出席しました。午後7時からでした。いつもは30名前後の出席ですが、この日は100名も出席していました。翌日の25日は、羊子と親しくしている神父さんの教会に、羊子が奏楽を依頼されており、私達もそちらのクリスマスのミサに出席したのでした。ところが、神父さんは私達の出席を知り、私に一緒にミサを司るように言われるのです。プロテスタントの牧師がカトリック教会のミサを司る、前代未聞ですが、ここは経験のために一緒に司らせていただきました。短い奨励までさせていただいたのです。日本語ですから、羊子がスペイン語に訳して皆さんに理解していただいたのです。
どのようなミサ、礼拝でありましょうとも、クリスマスの喜びのゆえに教会に集う皆さんに、神様はクリスマスのお恵みを与えてくださっているのです。私達も六浦谷間の集会としてのクリスマス礼拝ですが、イエス様の御生まれになられたことと十字架の救いを信じて、クリスマス礼拝をささげているのです。私達も今、少人数でありますが、ここに神様のお約束の成就が与えられているのです。神様のお約束とは、私たちがイエス様のお導きにより、日々喜びを与えられて生きることへと導かれていることです。クリスマスの喜びは少人数の礼拝から世界の隅々へと広まって行ったのであります。その意味でも、この六浦谷間の集会に神様は豊かなお導きを与えてくださっているのです。神様が共におられて小さな群れでありましょうともお導き下さるのです。本日のクリスマス礼拝を基にして新しい歩みを導かれたいと願うのであります。

 「神は我々と共におられる」、すなわちインマヌエルと呼ばれる救い主がお生まれになったことをマタイによる福音書は証しています。それはマタイによる福音書1章23節であります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記されています。この言葉は今朝の旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」と言われています。混乱の状況の中で、今こそ神様が共におられることを示しているのです。
 紀元前738年の時代です。周辺の国々が戦いのさなかにあるような状況であります。その中で、聖書の人々、ユダの人々はどのように生きていくのか、選択をしなければならない状況でありました。今朝の聖書、イザヤ書7章10節、「主は更にアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に』」。ここで、イザヤはユダの王様アハズに決断を求めているのであります。戦いを始めるにあたり、王として神様に勝利のしるしを求めなければならないのですが、そのしるしを何処に求めるか、決断を迫っているのです。「深く陰府の方に」というのは大国アッシリアの援助を求めることであり、人間の力により頼むということであります。あるいは「高く天の方に」というのは神様の約束を信じて、人の力ではなく、神様の導きに委ねて自力で防衛することなのであります。それに対して、王様のアハズは、アッシリアに援助を求めるとも、神様の導きのもとに自力で防衛する決意も示さないのでした。そのような曖昧な態度でありながら、結果においてはアッシリアに助けを求めることになるのです。そのことで周辺の国々に対しては裏切りの行為となり、それがいかに屈辱であるかを示しているのです。「あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」とイザヤははっきりしない王様の姿勢をたしなめているのです。そこで、神様ははっきりとしるしを与えておられることを宣告するのでありました。それがインマヌエル預言です。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」。イザヤ書にはインマヌエルの意味が記されていませんが、マタイがその意味を示しています。「神様が共におられる」という意味であります。神様があなた方と共におられて、この混乱の世の中を、あなたがたの現実を導いておられます、とのメッセージは紀元前700年代に示されたのでした。その後、聖書の人々は大国アッシリアに支配されるようになり、後にバビロンの捕囚、捕われ人になります。その後、解放されるものの、荒廃した都の中で苦しい生活を強いられるのですが、根底にあるのは「神様が共におられる」との信仰でありました。困難な状況に生きるとき、共におられる神様の導きを信じたのでした。
 「神様が共におられる」信仰は聖書の最初の人、アブラハムからすでに始まっていました。まだ見ぬ国に旅立ったときにも、共におられる神様を信じて一歩を踏み出して行ったのです。その子どもイサク、その子どもヤコブ、そして12人の子ども達において、共におられる神様の導きをいただきながら、イスラエルという国が与えられたのでありました。400年の奴隷の時代があったとしても、共におられ神様の導きを信じて歴史が導かれてきたのでありました。奴隷の国から人々を解放したモーセに対してはもちろんですが、その後継者ヨシュアに対しても神様は言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この神様の励ましをいただきながら、若きヨシュアは聖書の人々をカナンの土地へと導きました。そのような歴史を持つ聖書の人々です。改めてインマヌエルの導きを示したのが今朝の旧約聖書イザヤ書の「インマヌエル預言」の示しであります。

旧約聖書のインマヌエル預言を受止めて示しているのはマタイによる福音書であります。しかし、今朝の新約聖書のメッセージはルカによる福音書であります。神様が共におられる現実をルカによる福音書は真実受止め、証ししているのです。マタイによる福音書のクリスマス物語は、イエス様のお生まれになった場所は馬小屋ではありません。むしろ、普通の家のようです。ご降誕を知って駆けつけたのは占星術の学者達であり、黄金・乳香・没薬の宝物をささげたのでありました。もちろん、そこに救いのメッセージが示されているのでありますが、インマヌエル預言を受止めるのは、むしろルカによる福音書なのであります。神様が共におられますとの預言、そして共におられることの喜び、そして喜びが発展していくことを証しているのがルカによる福音書であります。そのことはルカによる福音書1章において、ザカリアとエルサベトにガブリエルが現われ、神様のお告げを示し、「時が来れば実現する神様の言葉」として示されています。マリアにガブリエルが現われて、「あなたから男の子が産まれる」とお告げを示したとき、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したことにも示されているのであります。神様のお告げ、それが喜びへと導かれていくこと、そして発展へと導かれていくのであります。それは神様が共におられ、お導き下さるという信仰なのです。ルカによる福音書イエス・キリストのご降誕の証から示されましょう。
  ルカによる福音書は、お告げを羊飼い達に示したのでありました。野宿する羊飼い達は、家に帰ることができません。羊を養っての人生であり、人々からは忘れられているような存在でありました。暖かい温もりのある生活は望めないような状況でもあります。だからこそ、そこにインマヌエルの福音が示されていることをルカは証ししているのです。あなたは悲哀に生きているのですか、苦しんで日々歩んでいるのですか、孤独にさいなまされているのですか、そのあなたにインマヌエルの福音が与えられているのですよ、とルカによる福音書は、昔から預言されている祝福の喜びを示し、さらに喜びが発展していくことを示しているのです。
 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つはルカによる福音書7章11節以下の「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。ナインの町で、一人息子を亡くした母親が、悲しみつつ棺と共に歩いています。イエス様は哀れに思われ、「もう泣かなくても良いですよ」と言い、息子を生き返らせるのであります。そのとき人々は、「神はその民を心にかけてくださった」と言い、神様を賛美したのでした。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々がお告げを示され、喜びへと導かれることを証言しているのです。
 私の現実に神様のお告げがある。そのお告げは大きな喜びへと導いてくださるのであります。それは旧約聖書以来示されているインマヌエル、神様が私たちと共におられるからであります。神様が私と共におられるのです。インマヌエルにこの身をおきながら歩むことを示されているのであります。

大塚平安教会に赴任する前は宮城県の陸前古川教会に6年半在任しました。その古川から電車でも車でも1時間くらい離れた所が鳴子の町です。その鳴子教会に郄橋萬三郎さんと言う方がおられました。お連れ合いが鳴子教会の牧師で、萬三郎さんは教会が運営する保育園の園長をしていました。青年の頃には全盲となりましたが、この人は園長を担いながら童謡詩人としても知られていました。私はこの人の証として「鳴子こけしの歌」と題して記しています。この証を萬三郎さんの童謡詩集発行記念会の時に出版して皆さんに配布したのでした。その童謡の中に、感銘深い詩がありますので紹介しておきます。
 「天使」、日の照る道を歩くとき/いつもついている影法師/足音もなく声もなく。/月夜の道を通るとき/やはり一緒だ影法師/止まれば止まり行けば行く。/あの影法師みたいにね/誰のそばにいつだって/天使がついているそうな。/天使はすがた見せないし/声も聞かせはしないけど/ほんとにいると思うんだ。/わたくしたちにしあわせが/心いっぱいあるように/天使はそっと祈っている。(詩集「流と風と雲と夢」より)
 インマヌエル、神様が共におられる、まさに萬三郎さんが歌うように、影法師みたいに私たちと密着して共に歩んでくださる神様であり、主イエス・キリストなのであります。この私が現実を神の国に生きるよう、共におられて導いてくださっているのです。その主イエス・キリストが世に現れたことをお祝いすることがクリスマスなのです。神様のお約束の実現、成就であるのです。
 私の現実を悲しむ必要はありません。苦しみが続いていると思う必要はありません。インマヌエルの主が、私の現実におられるからです。
<祈祷>
聖なる神様。クリスマスのお恵みをいただきました。インマヌエルの主と共に新しい歩みを導いてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。