説教「うれしいお知らせ」

2023年12月24日、大塚平安教会

「降誕前第1主日

                      

説教・「うれしいお知らせ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書7章10~14節

   ルカによる福音書2章8~20節

賛美・(説教前)讃美歌21・441「信仰を持て」

   (説教後)賛美歌「生きて愛して祈りつつ」

 クリスマスおめでとうございます。今年は久しぶりにこちらの教会のクリスマス礼拝の講壇に立たせていただき、感謝し、喜んでおります。2010年3月にこちらの教会を退任しましたので、その後13年を経ております。10年を一昔と言われますので、昔から今に至りますのは、いろいろな変化があり、教会にしても幼稚園にしても、私が存在していた昔の姿ではありません。新しい時代の教会であり、そこにお招きをいただいているという喜びであります。30年間、こちらの教会の皆さんと共に信仰の歩みを導かれたことを感謝しています。いつも大勢の皆さんと歩んでまいりました。そして、その後の歩みは少人数の皆さんと共におりますが、どのような少人数の歩みでありましょうとも、「神さまが共におられる」という喜びを与えられながら歩んでいるのです。2010年に退任した年のクリスマスは横須賀上町教会の皆さんと共にお祝いいたしました。横須賀上町教会には、こちらの教会出身の杉野信一郎先生がお勤め下さっています。私が横須賀上町教会でクリスマス礼拝をささげたとき、小人数でしたが、祝福されたクリスマスの集いでありました。私は教会から離れたとき、いろいろな場で少人数のキリスト者の集いに出会いました。2010年に退任しましたが、翌年の2011年4月、5月にスペインに行き、バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげました。いつも7、8名の皆さんです。さらにスペインの首都マドリッド日本語で聖書を読む会でも礼拝をささげましたが、やはり同じくらいの人数でした。そして六浦谷間の集会を夫婦で開くようになり、基本的には二人だけの礼拝ですが、時には数人の皆さんが出席されるので、少人数ながら祝福された礼拝が導かれています。だいたいからして最初のクリスマスは、全くの少人数であったのです。マタイによる福音書ルカによる福音書の合成したクリスマスを考えても、お生まれになったイエス様を礼拝したのはマリアさん、ヨセフさん、三人の博士さん、数人の羊飼い達さんであったのです。まさに少人数の人々がイエス様を礼拝し、神様のお約束の成就をいただき、喜びに包まれたのでした。神様のお約束とは、私たちがイエス様のお導きにより、日々喜びを与えられて生きることです。本日のクリスマス礼拝は神様の「うれしいお知らせ」をいただき、現実を励まされて歩むことなのです。

 神様の「うれしいお知らせ」とは「神は我々と共におられる」ということです。すなわちインマヌエルと呼ばれる救い主がお産まれになったことをマタイによる福音書は証しています。それはマタイによる福音書1章23節であります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記されています。この言葉は今朝の旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」と言われています。いろいろな困難の中に、「神様が共におられる」ことを示しているのです。

 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」。イザヤ書にはインマヌエルの意味が記されていませんが、マタイがその意味を示しています。「神様が共におられる」という意味であります。神様があなた方と共におられて、この混乱の世の中を、あなたがたの現実を導いておられます、とのメッセージは紀元前700年代に示されたのでした。その後、聖書の人々は大国に支配されるようになり、捕われ人になります。その後、解放されるものの、荒廃した都の中で苦しい生活をするのですが、根底にあるのは「神様が共におられる」との信仰でありました。困難な状況に生きるとき、共におられる神様の導きを信じたのでした。

 「神様が共におられる」信仰は聖書の最初の人、アブラハムからすでに始まっていました。まだ見ぬ国に旅立ったときにも、共におられる神様を信じて一歩を踏み出して行ったのです。その子どもイサク、その子どもヤコブ、そして12人の子ども達において、共におられる神様の導きをいただきながら歩んだのであります。400年の奴隷の時代があったとしても、共におられ神様の導きを信じて歴史が導かれてきたのでありました。奴隷の国から人々を解放したモーセに対してはもちろんですが、その後継者ヨシュアに対しても神様は言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この神様の励ましをいただきながら、若きヨシュアは聖書の人々をカナンの土地へと導きました。そのような歴史を持つ聖書の人々です。改めてインマヌエルの導きを示したのが今朝の旧約聖書イザヤ書の「インマヌエル預言」の示しであります。

  旧約聖書のインマヌエル預言を受止めて示しているのはマタイによる福音書であります。しかし、今朝の新約聖書のメッセージはルカによる福音書であります。神様が共におられる現実をルカによる福音書は真実受止め、証ししているのです。マタイによる福音書のクリスマス物語は、イエス様のお産まれになった場所は馬小屋ではありません。むしろ、普通の家のようです。ご降誕を知って駆けつけたのは占星術の学者達であり、黄金・乳香・没薬の宝物をささげたのでありました。もちろん、そこに救いのメッセージが示されているのでありますが、インマヌエル預言を受止めるのは、むしろルカによる福音書なのであります。神様が共におられますとの預言、そして共におられることの喜び、そして喜びが発展していくことを証しているのがルカによる福音書であります。

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ので、ヨセフさんもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身ごもっていたいいなずけのマリアさんと一緒に登録するためでありました。ベツレヘムの町は住民登録をするために各地から集まっていたので、宿屋さんは何処も満員であったということです。そこで、ある宿屋さんの馬小屋で過ごすことになります。そして、その馬小屋でマリアさんは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでありました。ここにルカによる福音書のメッセージがあります。イエス・キリストが産まれたのは、立派な御殿ではもちろんありません。普通の家でもありません。人間の住むところではない場所、馬小屋という場所でした。そこは馬の出し入れ以外は人が行き来しない場所であります。しかし、だれもがいける場所でもあるのです。しかも、飼い葉桶に寝かされたということにも、ルカの深いメッセージがありました。飼い葉桶は動物の食べる器であります。そこにイエス様がおられるということは、イエス様が神様からの食べ物を私たちに与えるということでした。事実、イエス様は神様のお心、命のパンを人々に与えられたのであります。ルカによる福音書は馬小屋物語を通してインマヌエルの喜びを示しているのであります。今こそ、ここに神様が共におられるのですよと示しているのです。

 ルカによる福音書は、お告げを羊飼い達に示したのでありました。野宿する羊飼い達は、家に帰ることができません。羊を養っての人生であり、人々からは忘れられているような存在でありました。暖かい温もりのある生活は望めないような状況でもあります。だからこそ、そこにインマヌエルの福音が示されていることをルカは証ししているのです。あなたは悲哀に生きているのですか、苦しんで日々歩んでいるのですか、孤独にさいなまされているのですか、そのあなたにインマヌエルの福音が与えられているのですよ、とルカによる福音書は、昔から預言されている祝福の喜びを示し、さらに喜びが発展していくことを示しているのです。

 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つは「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。ナインの町で、一人息子を亡くした母親が、悲しみつつ棺と共に歩いています。イエス様は哀れに思われ、「もう泣かなくても良いですよ」と言い、息子を生き返らせるのであります。そのとき人々は、神様を賛美したのでした。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話、「不正な管理人」のたとえ話、「金持ちとラザロ」のたとえ話、「徴税人ザアカイとイエス様との出会い」等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々が「うれしいお知らせ」を示され、喜びへと導かれることをルカによる福音書は証言しているのです。私の現実に神様の「うれしいお知らせ」があるのです。神様が私たちと共におられるからであります。

  私と共に神様がおられるのです。この私が現実を神の国に生きるよう、共におられて導いてくださっているのです。その主イエス・キリストが世に現れたことをお祝いすることがクリスマスなのです。神様のお約束の実現、「うれしいお知らせ」をいただきました。私の現実を悲しむ必要はありません。苦しみが続いていると思う必要はありません。インマヌエルの主が、私の現実におられるからです。このクリスマスのしるし、インマヌエルの主と共に新しい歩みが始まったことを喜びたいのであります。「生きて愛して祈りつつ」の私たちです。私の現実にインマヌエル、神様が共におられるのです。その「うれしいお知らせ」は十字架を仰ぎ見ることによって力強く示されるのであります。私が現実をふみしめて歩むためにイエス様が十字架にお架かりなられたのでした。「うれしいお知らせ」です。

<祈祷>

聖なる御神様。うれしいお知らせをいただきました。共に歩んでくださる主の導きにより歩むことを得させてください。主の御名によりアーメン。

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