説教「共におられる救い主」

2020年12月20日、六浦谷間の集会

待降節第4主日」 クリスマス礼拝

 

説教、「共におられる救い主」 鈴木伸治牧師

聖書、イザヤ書7章10-15節

   ヨハネの黙示録11章15-19節

   マタイによる福音書1章18-23節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・108「いざうたえ」、

   (説教後)讃美歌54年版・109「きよしこのよる

 

 本日はクリスマス礼拝であります。今年もクリスマス礼拝をささげることができ、心から感謝しています。主イエス・キリストは私たち一人ひとりのためにお産まれになりました。今朝のマタイによる福音書1章23節に示されている通りであります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と示されています。神様が私たちと共におられる「しるし」として、主イエス・キリストがお産まれになりました、と聖書は証しているのです。

 クリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書に記されています。マタイによる福音書におきましては天使がヨセフさんへお告げを与えます。婚約中のマリアさんが身ごもって男の子を産むということでした。聖書によれば、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」ということでした。しかし、天使に励まされてマリアさんを受け止めるのでありました。イエス様が生まれたとき、救い主出現の星が現れました。その星を見た占星術の学者達が、星に導かれてイエス様のところにやってきました。そして黄金、乳香、没薬の宝物をささげたのであります。一方、ルカによる福音書マリアさんに天使が現われ、お告げを示します。驚くマリアさんですが、天使の励ましによりお告げを受け止めました。「お言葉通り、この身になりますように」と告白するのであります。そして、ヨセフさんとマリアさんは人口調査を受けるためにベツレヘムへと上って行きました。聖書の世界はローマの国に支配されており、ローマは人口調査をしては勢力範囲を知るのであります。ベツレヘムに行ったヨセフとマリアでしたが、どこの宿屋さんも満員であり、泊まるところはありませんでした。それで、ある宿屋の馬小屋に泊まることになったのであります。その馬小屋に羊飼い達がやってまいりました。天使のお告げによって、救い主がお生まれになったことを知り、羊飼い達が産まれたイエス様のもとへやってきたのであります。聖書のそれぞれの記録を合成してクリスマス物語として示されています。

 イエス様がお産まれになったことをお祝いするのは、主イエス・キリストが神様の御心を私たちに示し、それにより私たちが平和に生きる者へと導かれているからであります。いつも共にいてくださるイエス様なのであります。共にいてくださるイエス様により、私たちは現実を励まされて歩む者へと導かれているのであります。

 

 聖書は神様が私たちと共にいて、導いてくださることを示しています。共におられる神様により、モーセは奴隷で苦しむ聖書の人々を救い出しました。その使命をモーセが受けたとき、モーセはそんな恐ろしいことはできないと断ります。そんな力は私にはありませんというのです。すると神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教えよう」(出エジプト記4章10節以下)とモーセを励ますのでした。その励ましによりモーセは奴隷の人々をエジプトから脱出させることができたのであります。モーセの後継者ヨシュアは若者でした。若者であるヨシュアを神様は励まします。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1章5節以下)と励まされたヨシュアは、モーセの後継者としての使命を全うするのでありました。

 神様は人々共にいてくださり、御心をもって導いておられるのです。預言者たちのメッセージはそのことに尽きます。神様が共にいてくださり、その神様に信頼して生きるならば平安を与えられるのです。しかし、多くの人々がその道を選ばないのであります。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」といわれるものであります。状況的には困難な状況でありました。当時の強い国はアッシリアでありました。そのアッシリアに対抗しようと国々が結束しています。そして、その結束を聖書の国、ユダにも呼びかけているのです。しかし、ユダの王はその呼びかけには応えませんでした。アッシリアに対してはどのように臨むのか、その決断が迫られている状況なのであります。7章10節以下が今朝の聖書の示しであります。「主はさらにアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に』。しかし、アハズは言った。『わたしは求めない。主を試すようなことはしない。』」と言っています。「深く陰府の方に」とは、アッシリアの援助により勝利することであり、「高く天の方に」とは神様の約束を信じて、自力で防衛することであります。アハズ王はあからさまにアッシリアの力により頼むとは言えないのでありますが、結局はアッシリアにより頼むのでありました。このような優柔不断こそ、御心に反することでありました。そこで神様は「しるし」を示すのでありました。その「しるし」とはインマヌエルでありました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」と示しています。もはや優柔不断のアハズ王ではなく、神様は新しい指導者をお立てになるということなのであります。新しい王は「神様が共におられる」ことを、強く示すのであります。人間的な駆け引きに心を弱くするのではなく、神様が共におられる喜びと希望を持って生きることを示しているのであります。

 イザヤ書の「インマヌエル預言」を受けて、主イエス・キリストのご降誕を示しているのが、マタイによる福音書1章18節以下の示しであります。マタイによる福音書はヨセフさんへのお告げであります。聖霊によりマリアさんから救い主が産まれるということでありました。それは旧約聖書にも預言されていた「インマヌエル預言」であるというのです。主イエス・キリストがこの世に現れるのは、「神様が我々と共におられる」示しであるのであります。神様が私達の現実に共におられて、私たちを導き、励ましてくださるのであります。まさにイエス様は共におられる方でありました。

 マタイによる福音書9章9節以下に、「マタイを弟子にする」ことが記されています。徴税人マタイは孤独の人でした。聖書の国、ユダヤを治めているのはローマでありました。そのローマのために人々は税金を納めなければなりません。しかし、誰もが納めることに抵抗を持っています。ましてや税を集める職務にはつきたくありません。しかし、生きていくうえに、そのような職務をしなければならない人もいます。徴税人マタイが存在するようになります。マタイさんはいつの間にか人々から相手にされないような人になっていました。悪者呼ばわりまでされているのです。そのマタイさんにイエス様が声をかけました。「わたしに従いなさい」との招きの声に、マタイは応えたのであります。共におられる神様を示されたからであります。マタイさんはイエス様を自分の家に招き、他の徴税人達を呼び、罪人呼ばわりされている人々をも招いてイエス様と食事をしたのです。罪人とされている人達は、多くの場合、病気の人たちでした。当時の考え方は因果応報でありますから、病気は罪の故であると信じていたのです。イエス様はそれらの人々と親しく交わっていたのです。人々にとって、イエス様とのお交わりは「共におられる神様」を実感したと言えるでしょう。ところが、時の社会の指導的な立場の人たちがイエス様を批判いたします。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子達に言うのでありました。それを聞いたイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのであります。罪人とは誰でありましょう。実に私たちなのであります。私たちは罪人なのであります。私のおく深くにある自己満足、他者排除こそ罪の根源であります。それを聖書は原罪としています。創世記3章に記される通りであります。人間は切磋琢磨してよい人間になることができます。しかし、最後の一点、原罪を克服できないのであります。どうしても自己満足を優先し、他者排除に生きようとするのです。神様は、人間が克服できないので、主イエス・キリストをこの世に産まれさせ、人々の罪を救う導きを与えたのであります。

 

 クリスマスは12月であり、この世は年末ということでありますが、私たちはクリスマスと共に新しい歩みが始まったと示されています。新しい歩みは「共におられる神様」のお導きをいただきながら歩むのであります。新型コロナウィルスの感染予防に留意しつつ歩むことは変わらないでしょう。しかし、共におられる神様がちから強くお導きくださるのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架のお導きを感謝いたします。共におられる神様に委ねて歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。

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