説教「主の恵みの年」

2012年1月1日、横須賀上町教会
「新年(命名祭)」 

説教、「主の恵みの年」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書33章1〜6節
   ヤコブの手紙4章13〜15節
   ルカによる福音書4章16〜21節

賛美、(説教前)讃美歌21・280「馬槽のなかに」、
   (説教後)讃美歌21・368「新しい年を迎えて」


 2012年の新しい年が始まりました。新しい年は、やはり幸せな年でありたいと願うのは当然のことであります。私達は昨年3月11日に東北関東大震災という地震津波原発事故の被災を受け、どん底から立ち上がりつつあります。口をそろえて言われることは未曽有の、想定外の出来事であったということです。人間には測り知ることのできないことがまだまだあることを知らなければならないのです。被災された皆さんが、一刻も早く普通の生活に戻れることを願っています。被災は被災地ばかりではなく、日本全国に及んでいるわけで、「がんばれ日本」を合言葉にして復興に取り組んでいます。新しい年を迎えたとき、一日も早く普通の生活に戻ることを祈りたいのであります。
 2011年の最終礼拝がクリスマス礼拝であり、次に迎えた礼拝が新年礼拝です。いつもはクリスマス礼拝を迎え、さらに歳晩礼拝をささげ、その年の導きを感謝し、新しい年に向かうのでした。しかし、今年は歳晩礼拝がなく、いきなり新年礼拝を迎えてしまいました。従って、新年礼拝でありますが、新しい年を歩み始めるにあたり、2011年の歩みを振り返り、神様の導きを感謝しつつ、新しい年への祈りをささげることが大切なのであります。
 何よりも感謝したいのは、この度の災害により世界の人々が日本の復興をお祈りくださっていることであります。災害発生時にはいろいろな国々が救援に駆けつけてくれましたし、その後は復興のために寄付金、物資等を寄せてくれています。昨年の4月、5月にスペイン・バルセロナにいる娘のもとで滞在して来ました。その間、いろいろなところで日本の災害復興コンサートガ開かれていました。その度に娘の羊子が招かれ、ピアノの演奏をしたのであります。5月17日に帰国の途につきましたが、前日の16日にはバルセロナにあるカタルーニャ音楽堂で日本の災害復興コンサートガ開かれました。開会にあたり日本の領事官が15分も挨拶と報告を行っていましたが、あまり長いので、本来はざわつくのでしょうが、最後まで静粛に聴いておりました。その後に娘の羊子のピアノ演奏、声楽等がありましたが2000人の皆さんが災害復興を祈りつつコンサートに来てくださったのでした。マドリッドでも災害復興コンサートがあり、やはり羊子が招かれてピアノの演奏をしています。
 バルセロナ日本語で聖書を読む会があり、現地にいる日本人が月に一度礼拝をささげています。その集いの皆さんが災害のために献金をささげました。特に気仙沼の教会に捧げることになり、銀行を通して送金すると手数料がかかるというので、私がお預かりして成田空港でユーロから円に両替し、郵便振替で送金したのであります。私の体験した外国の皆さんの復興協力ですが、これらも神様のお導きがあり、日本の災害復興を祈ることへと導いてくださったのであると示されているのであります。新年を迎えたとき、このように世界の皆さんが日本のためにお祈りしてくださっているのであり、そして神様のお導きがあるのですから、希望をもって新しい年を歩みたいのであります。
 新年を迎えるとき、この年の礼拝における聖書日課はローズンゲン(日々の聖書)にすることにしました。これはドイツのヘルンフート兄弟団が発行するもので、世界の人々がこの聖書日課を用いています。このローズンゲンを一つの絆にした募金活動がいち早く開始され、昨年の6月1日には55,000ユーロ、636万円の義援金が送られ、日本基督教団を通して①震災遺児のための奨学金、②被災した養護施設・保育園・幼稚園の再建資金、③教会の復興等に用いられているということでした。
 祈りは世界の人々がささげています。私達もその祈りへと導かれ、世界の平和、日本の復興、日々の祝福の生活を共に祈りたいのであります。

 ローズンゲンという言葉は複数ですが、単数で言えばローズングです。これは「合言葉」あるいは「くじ」という意味の言葉です。その日一日を、村中が祈りを合わせて頑張りましょう、ということで始まったと言われます。ヘルンフート兄弟団では、毎年、それぞれ、その日のために旧約聖書から、くじで聖句が選ばれます。予め旧約聖書の聖句が選ばれており、それを「くじ」で決めることになるのです。人間の思いを超える神意として、私たちに与えられるものなのです。新約聖書からも、その日の旧約聖書の聖句にふさわしい聖句が選ばれ、いくつかの聖句から「くじ」で決めるのです。
 こうして神意として決められた旧約聖書の言葉は、今朝はイザヤ書33章6節の「主を畏れることは宝である」との聖句であります。まさにこの言葉を新しい年の初めの言葉として与えられているのであります。「主を畏れる」は「神様を畏れる」であります。「畏れる」は恐怖ではありません。「おそれかしこまる」という意味であり、偉大な存在の前にへりくだるということであります。今朝の聖書、イザヤ書33章1節以下は、「救いを求める祈り」とされています。「災いだ、略奪されもしないのに略奪し、欺かれもしないのに欺く者は」と嘆きの言葉を発しています。「災いだ」と訳されますが、この言葉は嘆きの言葉で、原文は「ホーイ」であり、日本語で言えば、「ああ」という悲しみの声です。ホーイは28章1節、29章1節、30章1節、31章1節にも記されますが、29章は「ああ」という嘆きの言葉をそのまま記しています。これは聖書の人々を苦しめるバビロン、ペルシャ、あるいはサマリア等が考えられますが、攻めて来ては略奪していく、その苦しみを嘆いているのであります。世界の歴史を見るとき、戦いに明け暮れるのですが、戦いに勝つ者は略奪を繰り返すわけで、滅ぼされる国はまさに悲惨な状況でした。そのような嘆きの中で、まことの神様に救いの祈りをささげているのであります。
 「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」と心から神様に祈り求めているのです。現実は「いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り、ばったが跳ねるように、人々はそれに飛びつく」混乱の世です。しかし、そうした中で神様がお救いくださるという信仰を持ち続けているのです。「主は、はるかに高い天に住まわれ、シオンに正義と恵みの業を満たされる」と確信するのであります。まさに神様は「正義と恵み」であるのです。「正義」とはヘブライ語でミシュパートであり、「公平」との意味があります。「恵み」とはツェダーカーで「正義」の意味があります。従って、ミシュパートもツェダーカーも同じような意味ですが、神様が正しく人々にお恵みをくださることを示しているのです。だから、公平に恵みをくださる神様の前に「おそれかしこむ」ことなのです。「主を畏れることは宝である」と示しています。神様を「おそれかしこむ」ことは、人間が平等に恵みを分かち合う喜びであるのです。神様を「おそれかしこむ」ので、世界の人々が日本の災害復興を祈り、力を提供してくれているのです。私達もまた、神様を「おそれかしこむ」歩みをしなければなりません。新しい年は社会の人々が平等に恵みをいただき、祝福の歩みとなるよう祈りたいと思います。もはや、「ホーイ」ではなく、「ミシュパートとツェダーカー」の到来を信じて歩みたいのであります。

 クリスマス後の聖書日課は、日本基督教団の場合、イエス様の洗礼、宣教の開始、お弟子さんの選任、教えるキリスト、癒しのキリストと世に現れて行く主イエス・キリストが示されます。しかし、ローズンゲンの場合、「主を畏れることは宝である」ことを基としています。すなわち、イエス様を「おそれかしこむ」ことが私たちの宝であることを示しているのです。そこで新約聖書ルカによる福音書4章16節以下の示しであります。ここでは、世に現れたイエス様が宣教を開始しているのでありますが、ナザレすなわちイエス様がお育ちになったところですが、ナザレの人たちはイエス様を受け入れないのでありました。しかし、ここでは主イエス・キリストが宝であることを明言しているのであります。
 既にイエス様はガリラヤで伝道を始めておられます。ナザレはそのガリラヤ地方の一部でありますが、イエス様は安息日にナザレの会堂に来られ、聖書を読まれました。その聖書はイザヤ書61章1節、2節の言葉でありました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」と記されています。「油を注ぐ」ということは、王様とか指導者になる儀式でありました。「油を注がれた人」を「メシア」と言います。その人の頭に油を注ぐことによって、その人は王様になり、神様のお心において「ミシュパートとツェダーカー」を人々に与えるのです。そのため、「油を注がれる」人は「救い主」なのです。「救い主」=「メシア」ということになるのです。人々、特に貧しい人々の救い主として、イエス様が遣わされていることを示しています。「主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とイザヤ書に記されている言葉を読まれたのであります。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお話されました。主イエス・キリストが平和を与え、人々の解放を与えてくださるのです。
 ヨーロッパの歴史を読み直していますが、キリスト教がローマの人々に受け入れられ、信じられるようになるのは、まさにイエス様の「平和と解放」を信じたからでありました。ローマの皇帝はキリスト教を禁じました。それは、キリスト信者は社会の人々と共に生きないということが理由です。ローマの大切な守護神のお祭りに参加しないキリスト教の人々は、社会の秩序が乱れるということなのです。ローマ市民もそれを知っており、キリスト教を迫害したのです。しかし、ローマ市民は皇帝による平和に失望をもつようになっていきます。相次ぐ戦いで、物資も欠乏してくる、豊かな者はますます豊かになって行くという社会のアンバランスの中に置かれるのです。そういう中でイエス様の「捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との教えを受け止めるようになるのです。貧しく生きながらもイエス様の福音は解放と回復を与えられるのでした。「捕われている人に解放を」というのは、すべての束縛からです。貧しさ、奴隷、苦しみ、悲しみに捕われている人を解放するのです。「目の見えない人に視力の回復を告げる」とは、目先のことしか見えない悲しみです。もって神様の正義と恵みが見えるようになるということです。「圧迫されている人を自由に」とはまさに現実の苦しみから自由になることです。主イエス・キリストの福音は平和と解放を与えたのでした。それは神様が導いてくださるのです。だから、「主を畏れることは宝である」のです。神様をおそれかしこみ、信じることは宝となるのです。主イエス・キリストの出現は宝の出現であったのです。

 宝物と言えば、マタイによる福音書では、イエス様がお生れになった時、東の国の占星術の学者さん達がやって来て、イエス様に宝物をささげたと記されています。宝物とは黄金、乳香、没薬でした。これらは象徴的に示されているのであり、黄金は生活の糧をイエス様がお与えくださること、乳香は香水ですが、キリストの香り、すなわち福音の喜びであります。そして没薬は死者に塗る薬でありますが、十字架の救いを示しているのです。学者さん達が宝物をささげていますが、救い主イエス・キリストが宝物として私たちに与えてくださることを示しているのです。
 さらに宝物としての示しはマタイによる福音書13章44節以下に記されています。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売って、その畑を買う」というお話です。天の国は宝です。その天の国に生きるには主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて生きることです。今の現実を神の国として生きることが導かれるのです。これが宝でなくてなんでしょう。今まで自分が宝物としてしまっておいたいろいろなものを処分して、イエス様の宝物をいただくのです。使徒パウロは、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と示しています。イエス様の福音を土の器である私達がいただいているのです。宝物が私たちの中にあるのです。だからパウロは言うのです。「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」(第二コリントの信徒への手紙4章7節以下)。
 新しい年は「主の恵みの年」です。既に与えられている宝物を、もっと大きな宝物にして、世の人々に分かちたいのであります。正義と恵み、ミシュパートとツェダーカーをくださっている主イエス・キリストをおそれかしこみつつ歩むことです。それが宝そのものであると今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。土の器である私たちに宝をくださり感謝致します。新しい年はこの宝を多くの人々に分け与えることができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。