説教「主のみこころ」

2012年1月8日、六浦谷間の集会
「顕現後第1主日」 

説教、「主のみこころ」 鈴木伸治牧師
聖書、ミカ書2章1〜5節
   ローマの信徒への手紙12章1〜8節
   マタイによる福音書3章13〜17節
賛美、(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」、
   (説教後)讃美歌21・504「主よ、み手もて」


 2012年も既に一週間を歩み、社会はお正月気分から抜けて普通の生活に戻っています。しかし、年が改まったことで、新たな思いをもって歩んでいるのであります。特に日本の国は復興を大前提に歩むのであり、すべての基は災害から立ち直ると言うことであります。テレビにしても新聞にしても、毎日のように復興に取り組む人々の姿を報道しています。スポーツの世界も、自分達が良い成績を残して、それにより被災地の人々を励ましたいと言うことでした。がんばって良い成績を残す、その姿が被災された皆さんの励みになるのです。2012年は復興を目標として歩む年であることを示されているのであります。
 そういう中で新年を迎え、それぞれ願いを持ちつつ歩み出したのでありますが、その願いを神社に詣でて適えさせ給えとお祈りするのです。鎌倉八幡宮にはお正月の三が日で250万人の人々が初詣をしたということです。そんなに広くない八幡宮の階段を大勢の人が昇り下りするのは大変な混雑だと思います。お参りする人は、そういうことは分かっていながら、わざわざ初詣をするわけで、やはり新年の初詣が大切だと思っているわけです。鎌倉に行かなくても、神社は町の中にあるもので、追浜には雷神社、金沢八景には瀬戸神社、我が家の六浦町三艘には浅間神社があります。毎日散歩していますが、それらの雷神社前を通り、瀬戸神社前を歩いています。それぞれの神社はいつもはひっそりとして人影を見ることはないのですが、お正月の三が日は大勢の人が初詣に来ていました。狭い境内地が人であふれていました。瀬戸神社は境内に入るために道路で並んでいました。
 初詣をしてお願いすること、この一年、家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願、祝福結婚等をお祈りするのでしょうが、もちろん災害復興も皆さんのお祈りであったと思います。鎌倉八幡宮では、「絆お守り」を500円で提供していたということです。これらのお守りを体に帯びることも復興をお祈りする姿勢でありましょう。
 神社仏閣に初詣をし、願い事をかけると言うことは人間の素朴な姿でありますが、別の視点からすれば、自分の欲望をかなえてくださいと言うことであるのです。250万人の人が、それぞれ自分の願い事をかけるのですから、どれだけの願い事があったのでしょう。私たちの大切なことは自分の願い事ではなく、神様の御心を求めることなのです。神様の御心は、この2012年を歩みはじめるとき、どのように示されているのか、私達は自分の願いを神様に押し付けるのではなく、自分の願いはまず置いておいて、まず神様の御心をいただくことが大切なのです。今朝の聖書の示しをいただきましょう。

 「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ」とミカ書2章1節で述べています。「災いだ」と言う言葉は、前週もイザヤ書33章1節以下から示されたとき、冒頭の言葉が「災いだ」でした。略奪と欺きの社会で苦しみ、嘆きつつ過ごす時、「知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である」と示されたのでした。今朝のミカ書も「災いだ」と嘆きの言葉を持って始めていますことは、実はイザヤの活動した時代とミカが活動した時代が同じだからであります。社会的状況が同じであるということです。この時代はアッシリアの脅威がありますが、北イスラエルはまだ滅ぼされていない時代です。むしろ、社会的には豊かな者がいよいよ豊かになっている時代でありました。何で豊かになるのか。それが今朝の聖書の冒頭の言葉なのです。「寝床の上で悪をたくらむ」とは寝るのも惜しんで、策略、略奪を考えている訳です。朝を待ちかねて悪のたくらみを実行すると言うことです。豊かな者が貧しい者から搾取する姿であります。
 権力を持って貧しいものから搾取する、これはもっとも御心に反することとして聖書に示されています。列王記上21章には「ナボトのぶどう畑」について記されています。これは北イスラエルのお話ですが、ナボトと言う人がイズレエルという土地にぶどう畑を持っていました。その畑は北イスラエルの都サマリア王アハブの宮殿のそばにありました。アハブ王はナボトに話を持ちかけます。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。私の宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払っても良い」と言うのです。それに対してナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と答えるのです。嗣業は自分の土地で、神様が与えてくださったと聖書の人々は信じて、その土地により生活していたのです。アハブは機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰り、食事もとらないで寝台に横たわっていたのです。子供みたいに不貞腐れていたわけです。それを見た妻のイゼベルは、あなたは王様なんだから、どうにでもなるではないかと言うわけです。権力をふるえと言っている訳です。王様ができないのなら自分がしてあげると言い、ナボトが住む町の長老と貴族に文書を送るのです。その文書には、ナボトが神様と王様を呪ったとならず者に証言させよとしたためてあったのです。当然、神様を冒涜したということで、王様を呪ったということで人々の反感を買い、人々から石で撃ち殺されてしまうのでした。王はこのナボトのぶどう畑を自分のものにしたのでした。そのアハブの所業を預言者エリヤが厳しく批判するのです。アハブは悔い改めて、粗布をまとい、打ちひしがれて歩いたので、神様は審判を下さなかったのでした。これは一つの例ですが、上に立つ者、権力ある者、豊かな者はいつも貧しいものから搾取していたのでした。ここに今朝の示しがあります。「悪事を謀る者は、力をその手に持っている」という御言葉です。「力をその手に持っている」とは、権力であり、高い身分であり、豊かな財力です。それらが力となって、何でも自分の好きなようにしているのです。彼らにとって「力」は彼らの宝物なのです。自分の力を宝物にしている。これは、前週の御言葉で示された「主を畏れることは宝である」ことに相反することであります。今朝は、あなたがたは「力」で生きるのか、と厳しく問いかけているのです。
 こうした社会状況の中で預言者ミカは神様の御心を告げます。「見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。お前たちは自分の首をそこから放しえず、もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いのときである」と審判を与えているのです。絶えず、自分の力で、満足のために生きようとする人々への告発であるのです。「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」こと、これが彼らの思いであり、常に心に留めていることであるのです。「悪事を謀る者は、力をその手に持っている」とは、権力、財力を持ち、自由に振舞っていることを示しているのであります。人間の根本的な姿でもあるのです。その人間の根本的な姿を滅ぼすために現れたのが主イエス・キリストでありました。

 今朝はマタイによる福音書3章13節以下の示しですが、イエス様が洗礼を受けることが記されています。成人した主イエス・キリストヨルダン川で洗礼を授けているヨハネのもとにやってきたということです。そして、そのヨハネから洗礼を受けるのであります。ヨハネルカによる福音書1章によりますと、祭司ザカリアとエリサベトの夫婦に与えられた子どもでした。彼らは高齢でしたが、神の力が働いて、救い主の先駆けとして生まれることになるのです。主イエス・キリストより先に生まれ、そして先に人々の前に現れて、神様のお心をいただいて生きるように教えたのであります。ヨハネの宣教については3章1節以下に記されています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていたといいます。当時でも異様な姿です。その彼が人々に、「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と荒々しく人々に示したのでありました。その悔い改めのしるしとして洗礼を授けたのです。従って、神様の御心に生きなかった人々の悔い改めのしるしが洗礼であったのです。人間は正しい生き方を示されながらも、絶えず自分を中心に生きるのです。当時の人々も十戒を中心とした戒律によって生きていました。しかし、上手に戒律を逃れながら自分中心の生き方でもあったのです。そういう中にヨハネは悔い改めを迫りました。そこへ主イエス・キリストも来て、洗礼を受けたのであります。洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、では主イエス・キリストも罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われています。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後の4章1節以下でも示されるとおりです。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。神様が「わたしの心に適う者」と言われたとき、主イエス・キリストは死に至るまで、神様に心を向けて歩まれたのであります。
ヨハネの洗礼は神様の御心から離れて生きることの悔い改めでした。それに対して、今日私たちが与る洗礼は、主イエス・キリストの十字架による贖いを信じることであります。神様の御心から離れている自分を示され、悔い改めての洗礼でありますが、そこには根本的な赦しと言うものはありません。人間は自分中心に生き、他者を排除して生きる原罪を持っています。自分が切磋琢磨して正しく生きようとしても、内面にある原罪は克服できないのです。そこで神様は主イエス・キリストをこの世に現し、神様の御心と御業を現した後、十字架による救いを与えたのでした。主イエス・キリストが十字架で死ぬと共に人間の原罪を滅ぼされたのでした。人間は十字架を仰ぎ見て、イエス様が私の原罪を贖ってくださったと信じて生きるのであります。そして洗礼に与るのです。
イエス・キリストは神様の御心を私たちに与えてくださいました。神様の御心を求めると言うことは、主イエス・キリストの示しをいただくことです。そのイエス様が示されていることは、「あなたがたは神様を愛し、そして、あなたがたは自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」ということです。難しいことを教えているのではないのですが、耳に聞いて良い教えであります。しかし、これはとても骨折りの生き方なのです。一人の存在を、自分の思いを超えて受け止めて生きること、自分の決心では不可能です。十字架のイエス様のお導きがあるから可能になるのです。そして、可能になった時、これほど大きな喜びはありません。まさに祝福の人生へと導かれるのです。

 「力をその手に持っている」と聖書は人間の力の用い方を指摘しています。自分のための力であるからです。「力」は自分のためではなく、他者を見つめる力ではなければなりません。「ともしび」という童話がありますが、思い出しながら簡単に紹介しておきましょう。
 昔、イタリアのフィレンツェという町に、ラニエロという力の強い人がいました。町の中では自分が一番強いんだと思っていました。喧嘩しても誰も彼に勝つことはできません。とにかく自分の力を発揮として、町中の人々が自分に目を注ぐことを望んでいましたが、すごいことをすればするほど、町の人はラニエロから遠ざかるのでした。それで、彼はみんなが自分を見るために、別のところで活躍することを思い立つのです。それで彼は十字軍に入りました。十字軍は聖地エルサレムが悪者に占領されていると言うので、聖地を奪い返すことが目的でした。聖地に向かっているときにも、他の悪者と戦いをするのですが、いずれもラニエロが手柄をたて、悪者から奪った宝物をフィレンツェの町へ送るのです。いろいろなところで戦いがありますが、その度に宝物を奪っては故郷に送っていました。それにより故郷の人々は自分を称賛すると思ったからです。そして、ついに聖地にやってきました。聖地を占領している悪者と戦い、ついに悪者を聖地から追い出すことができたのでした。十字軍の仲間達は、いつもラニエロが宝物を故郷に送っているが、聖地の宝物は何かと話し合います。みんなが言ったことは、聖地の聖壇で点灯してるロウソクの火こそ一番の宝物だと言うのです。まさか、ラニエロがそのロウソクの火を故郷には運べまいと言うのです。するとラニエロは、宝物が聖壇のロウソクの火ならば、それを故郷の教会に運ぶと言いきるのです。そして、ラニエロは故郷への旅の支度をします。予備のロウソク、馬、食料等を持ち、いよいよ出発するのです。ところが威勢よく馬に乗って出発しようとしますが、手には聖地のロウソクを持っている訳です。ロウソクの火が消えてしまえば何にもなりません。宝にはならないのです。だから風をさえぎりながら、手のひらでロウソクの火を囲むようにして進むのです。馬を走らすことなどできません。ゆっくりと進まなければならないのです。こうして故郷に向かっていると、強盗が出てきます。ロウソクの火がなければ、たちまちやっつけてしまうのですが、ロウソクの火を消さないために、強盗の言う通りに、持っているもの、馬、身につけている戦いの鎧まで、みんな奪われてしまうのでした。強盗が置いて行ったぼろ服を着て、故郷に向かいます。途中、病気の人や困っている人に出会い、助けたりします。ロウソクの火を消さない努力は、弱い存在に気が向くようになっていました。ロウソクの火は、少しの風でも消えてしまいます。大事にしながら、弱い炎を守る姿勢が、弱い存在を守ることへと導かれていたのでした。大変な思いをして、ようやく故郷のフィレンツェにつきました。町の人はそれがラニエロだとは気が付きません。ぼろ服を着ているので、町の子ども達ははやし立てるのです。そしてラニエロの持っているロウソクの火を消そうとしたりします。しかし、ついに教会の聖壇にあるロウソクに、持ってきた聖地の火を移すことができたのです。
 大分、間違っているところがありますが、本筋は変わりません。自分の力を自分のために用いるのではなく、他者を見つめて生きることが大切であること、今にも消えそうなロウソクの火を消さない努力が大切なのです。私たちに灯されているロウソクの火とは主イエス・キリストの御心です。その御心を大事に持ち続けけることが大切なことであることを今朝からザカリアは御使いのお告げを信じなかったので、ヨハネが生まれるまで口が聴けなくなります。それは「時が来れば実現する神様の言葉」を信じなかったからでした。しかし、ザカリアは自分達に与えられた神様の御業を信じるようになりました。そして生まれた子供がヨハネであり、救い主を証する者として生まれてきたのでした。示されたのであります。そのロウソクの火こそ私たちの「力」なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。常に御心をくださり感謝します。常に祈りをささげ、私たちに与えられている主の御心を無くすことなく、しっかりと守りながら歩むことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。