説教「現れた栄光」

2012年1月15日、六浦谷間の集会
「顕現後第2主日」 

説教、「現れた栄光」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書5章8〜19節
   ローマの信徒への手紙12章9〜16節
   ヨハネによる福音書2章1〜11節
賛美、(説教前)讃美歌21・278「暗き闇に星光り」、
   (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこび」


 今朝は1月15日ですが、昔は15日と言えば「成人の日」として固定されていました。それが祝日法案が決まり、日曜日とつなげるようになったので、毎年「成人の日」が異なるようになりました。昔ながらの思いがあるものですから、今年は1月9日が「成人の日」であっても実感がわかないと言うわけです。むしろ15日になると「成人の日」の実感がわくのです。「成人の日」の思いが薄らいだのは、現役から退き、隠退の身になっていることも原因になっています。大塚平安教会在任中は、毎年どなたかが成人式を迎えることになるのです。教会員の中でも成人式を迎える青年がいましたし、幼稚園の新採用の教師、また幼稚園卒業生たちが成人式を迎えるのです。15日に成人式を終えて、挨拶に来られる人がおられ、その時にはお祝いのご祝儀を差し上げたものです。
 今年も各地で成人式が行われたことが報道されていました。代表の新成人が挨拶を述べていましたが、やはり震災からの復興であり、この復興に協力する生き方を述べていました。もう随分前になりますが、成人式が荒れ模様で、式にならなかったことが報道されていました。祝辞を述べているのに騒がしくて、市長だか町長だかが、途中で祝辞を辞めて帰ってしまったことが報道されていました。当たり前だ、帰るべきではない、いろいろな意見が寄せられていました。最近はそのような状況にはならないようです。今年は特に震災からの復興に向かっているのであり、新成人も思いを一つにして復興のために働く決意を現していたのであります。
 成人すると言うことは、一人の人間として、責任ある人生を歩むと言うことであります。この社会の中で、人々と共に生きること、そのために自分に与えられている能力、才能、力を発揮して働く、それにより社会の人々と分かち合いながら生きると言うことになるのです。大人になったのであるから、これからは子どもではないので、誰からも支配されないで、自由に好きなことをやって生きる、ということでは成人とは言えない。そのような姿は、まだ子どもから抜けきれないのであり、成人したとは言えないのです。成人すると言うことは社会の一員になるのですから、その社会に責任を持つということなのです。ところが成人しても、責任を持たない人がいるのであり、いつの時代でも成人になれない人々がいるのでした。それにより暗い社会になり、困難な状況を生きなければならない人々が存在するのです。一方、成人しない人々は自由気ままに、略奪と私利私欲をむさぼりつつ生きるのです。世界の歴史を見るとき、どこの国にも成人出来ない人々の群れがいたのです。世界の歴史は、成人出来ない人々と成人した人々との戦いの歴史でありました。そして、救いの存在が現れ、希望を持つようになるのです。

 旧約聖書もそういう時代を示しています。前週もミカ書を通して、「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ」(ミカ書2章1節)と示されました。貪欲に畑を奪い、嗣業を略奪する人々は、成人してない人々の所業でした。このミカの時代とイザヤの時代はほぼ同じ時代でしたから、状況的には同じ課題が与えられ、搾取する者、略奪する者に対する主の御心を示しているのです。今朝はイザヤ書5章8節以下でありますが、ここでも「富める者の横暴」に立ち向かっているのです。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている」とイザヤもミカと同じように成人出来ない者たちに預言しています。「家に家を連ね」とは、自分の家を次々に建てていくことであり、略奪しては土地を広げ、自分のものにしているのです。
 「それゆえ、陰府は喉を広げ、その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も、騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む」とイザヤは神様の審判をはっきり告げるのでした。それに対して成人出来ない者たちは、「イスラエルの聖なる方を急がせよ。早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させて見よ。そうすれば納得しよう」というのです。いわば開き直っている訳です。審判、審判というが、その審判を見たいものだと言うわけです。預言者達が勝手に神の審判を述べているのであり、審判なんかあるわけがないというのです。審判があったら納得すると言わけですが、その時に納得するものの、審判を受けるのですから、もう遅いといことです。成人出来ない人間は、審判なんかないと思っています。自分達の思い通りに生きることであるのです。
 今朝の旧約聖書は、イザヤ書5章8節から19節までですが、22節までの中に「災いだ」という言葉が六回も出てきます。「災いだ」という言葉は、原語では「ホーイ」で、嘆きの言葉であるのです。イザヤが「ホーイ」を繰り返し発するのは、成人出来ない人々の堕落ぶりであるのです。8節のホーイは、都市の貴族の横暴な姿を述べています。第二のホーイは11節から12節で、酒ばかり飲んでいる貴族の姿です。第三のホーイは18節と19節で、第二のホーイに重複しますが、むなしいものに心を寄せているからです。第四のホーイは20節で、「悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする」生き方なのです。第五のホーイは21節で、自分を知者と思い、うぬぼれて賢いと思っていることです。そして第六のホーイは22節で、ここでも第二のホーイと重複しますが、酒を飲むことが勇者であることを述べているのです。イザヤは成人出来ない者たちの様々な姿を嘆き、神の審判があることを厳しく警告しているのです。それに対しても、「早く審判を実現させよ」と言っている訳ですから、悔い改めも反省もない成人出来ない人々へのホーイをくりかえしているのです。
 イザヤの時代は紀元前8世紀です。大昔の話なんだと思うことではありません。ホーイは現代にあっても、私たちの口から発せずにはおかないのです。今、注目されているのは、政治家のお金の使い方に関する裁判です。4億円の出所がどこなのか、裁判で争われていますが、本人は「日本の政治のために生きているのであり、お金のことは秘書にすべて任せている」と言い続けています。何事も「秘書が、秘書が」と言い、他のことは「記憶にない」と言い続けているのです。日本中の人々はホーイを繰り返しているのではないでしょうか。いつの時代にも成人出来ない人々がいます。成人出来ない人というのは、社会に対して責任が取らない人なのです。

 主イエス・キリストはこの世に現れて、それぞれの状況の中で、社会に対する責任ある生き方を示し、また責任を果たしつつ神の国の福音を宣べ伝えました。今朝の聖書はヨハネによる福音書2章1節以下に示される「カナの婚礼」です。ヨハネによる福音書2章はイエス様がこれから人々に現れ、永遠の命の福音を示していきます。ですからこの時点ではイエス様の救い主としての存在を証することに重きが置かれます。今朝の聖書は「三日目に」と冒頭に記されていますが、日程的には、29節に「その翌日」と記されています。すなわち「その前日」はバプテスマのヨハネが人々に現れ、ヨルダン川で人々に洗礼を授けますが、その時ヨハネは、本当のメシアが現れることを人々に示したのであります。ヨハネはイエス様のお働きの原点をここに置いているということです。その原点の翌日にイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは洗礼をイエス様に授けたとき、まさにこの方こそ「神の子」であると確信したのでした。これが二日目です。そして、「その翌日」は35節になりますが、ペトロとアンデレを弟子にしました。そして、「その翌日」は43節になりますが、ここではフィリポとナタナエルを弟子にしています。そして今朝の聖書になりますが、ヨハネがイエス様を原点とした日から「三日目に」になります。だからフィリポとナタナエルを弟子にした後に「カナの婚礼」に行ったことになります。すなわち、いよいよ主イエス・キリストの栄光があらわされるのです。
 イエス様も婚礼に招かれたのですから、婚礼を挙げた人とは知り合いであったのでしょう。イエス様の母であるマリアさんも婚礼に行っていますが、むしろ裏方で接待役であったようです。宴たけなわとなっていますが、お祝いの「ぶどう酒が足りなくなりました」とマリアさんはイエス様に言うのです。その時、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。母であるマリアさんに冷たい言い方であるようです。福音書を書いているヨハネにとっては、イエス様の救いの段階として示しているのであり、「時」とはイエス様が十字架の贖いにより人間をお救いになることです。マリアさんにとって、ぶどう酒が足りなくなってしまったという窮状を救ってくださいと訴えているのですが、イエス様の救いはもっと大きな救いであることを示しているのです。しかし、イエス様はその場の窮状を心に留め、救いを与えるのです。ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてありました。「清め」とは、食事の前や外出から帰った時には、「清め」の水で手を洗い、身を清めることです。これは汚れた者を清めると言うことで、黴菌を洗うと言うことではありません。2、3メトレテス入りのものですが、1メトレテスは39リットルですから、かなりの容量です。イエス様はそこにいる人たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。言われるままに人々は水を入れました。するとイエス様は水がめに入れた水を汲んで世話役のところに持って行かせました。汲んだ水は美味しいぶどう酒に代わっていたのです。世話役は花婿に「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」というのでした。聖書はイエス様が最初のしるしを行い、その栄光を現されたと示しています。
 「カナの婚礼」のお話は、婚礼や宴会として示される神の国の食事を示しているのです。神の国の食事に与ること、それがイエス様のお働きであるのです。ユダヤ教の「清め」の水が変えられて、神の国の真の喜びへと導かれることを示しているのです。「カナの婚礼」で窮状を救ったということは、主イエス・キリストはこの世にある者として社会的責任を果たしたとも示されるのです。「ぶどう酒が足りなくなった」ということに対して、決して無関心ではないことを示しているのです。社会に生きる者として、社会的責任を果たしつつ神の国に生きることを教えておられるのです。
 社会的責任としては、神殿税を納めることがマタイによる福音書17章24節以下に記されています。神殿税を集める人がペトロに「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言いました。イエス様はペトロに、「湖に行って釣りをしなさい。最初に取れた魚を取って口をあると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として治めなさい」と言われたのでした。さらに、マタイによる福音書22章15節以下に、「皇帝への税金」について示しています。ファリサイ派の人々がイエス様の言葉じりを捕らえようとして、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と尋ねるのです。「適っている」と言えばユダヤ人の反感を買います。「適っていない」と言えば皇帝に訴えることができるのです。その時イエス様は、税金を納める銀貨を示しながら、「これはだれの肖像と銘か」と尋ねます。「皇帝のものです」と答えるわけですが、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。この世に生きている限り、国への責任があるのです。イエス様はこの世の責任を果たしつつ、神様の御心を示し、世の救いの実現へと向かわれていたのです。社会の責任を果たし、世をお救いになる、栄光が今こそ現れたことを示しているのです。

 「カナの婚礼」で栄光を現されたこと、神の国の食事をいただく者へと導かれているのです。宴会を開いたのに、みんな理由をつけて来なかったお話はマタイによる福音書22章に記されています。まさに宴会、婚礼の宴会は神の国の食事なのです。さらにマタイによる福音書8章には「百人隊長の僕をいやす」ことが記されていますが、その時イエス様は百人隊長の信仰を祝福し、「これほどの信仰を見たことがない」と言われ、「東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」と言われています。イエス様の教えに生きることは宴会の席について喜ぶことであると示しているのです。神の国の宴会は、成人したものが社会に責任を持ち、自分の好きな生き方ではなく、他の存在と共に生きる者が招かれることを聖書は示しているのです。そして、現された栄光、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、神の国を生き、永遠の生命に導かれることが私たちの歩みなのです。
 「天国の食事」の例話があります。宴会が開かれ、招待された人は喜んで食事をしようとします。その時、主人は人々に腕に添え木をつけて食べてください、ゲームのようなことを提案します。みんな面白がって腕に添え木をして食べようとします。しかし、添え木をしているから腕を曲げることができないので、食べることができないのです。仕方なく動物のように口を料理に持って行って食べたりするのです。そういう中で上手に食べている人達がいました。お料理を自分の口に持っていくことはできませんが、目の前にいる人の口に入れてあげることはできるのです。自分ことではなく、相手を考えてあげる、まさに神の国の食事であるのです。「三尺三寸の箸」という料理屋さんがありますが、その意味は「天国の食事」と同じです。三尺三寸は1メートルです。そんなに長い箸で食べることはできません。しかし、相手の口にお料理を入れてあげることはできるのです。
 聖書は私たちが天国の食事に与ることができるよう主イエス・キリストがこの世に現れたことを示しているのです。まさに「現れた栄光」でイエス様によって永遠の命へと導かれるのです。今朝の聖書ローマの信徒への手紙12章9節以下から示されましょう。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい。」「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と教えています。成人したものの生きる姿なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。現れた栄光であるイエス様により、神様の宴会に招かれていることを感謝致します。人々をこの宴会に招くことができますよう導いてください。主イエス・キリストによりおささげいたします。アーメン。