説教「定められている歩み」

2012年1月22日、六浦谷間の集会
「顕現後第3主日」 

説教、「定められている歩み」 鈴木伸治牧師
聖書、コヘレトの言葉3章9〜15節
   ローマの信徒への手紙1章16〜17節
   マタイによる福音書8章5〜13節
賛美、(説教前)讃美歌21・280「馬槽の中に」、
   (説教後)讃美歌21・441「信仰をもて」


 東日本大震災から10ヶ月を経た去る1月11日には現地の人々ばかりではなく、午後2時46分には全国の人々は黙祷をささげたでありましょう。テレビで現地の人々の黙祷する姿を放映していたとき、私もその場で黙祷をささげたのであります。多くの人々が犠牲になり、いまだに行方不明の人が3,500人もいるのですから、悲しみが募るばかりです。地震津波、そして、さらに震災を大きくしたのは原発事故でした。地震津波だけでも復興には大変な努力が必要ですが、原発事故災害はこれからも長く復興に取り組まなければならなくなっている訳です。
このような災害復興を取り組む中で、風評被害が大きな問題になっています。文藝春秋12月号で、塩野七生さんが、「『がんばろう日本』はどこに行った?」と題して執筆しています。すこし引用させていただくと、「風評被害の加害者達は、自らの手は汚していない。ただ単に、福島県産というだけで買わないか、場合によっては当局側に抗議の電話をかけるかメールを送り付けるだけ。それもその『抗議の声』なるものには『不安の声』という『衣』をかぶせるのだから始末が悪い。そして、それらを受けた当局側は、理を尽くしての説明をするわけでもなくビクつくだけで、結果は『中止』で幕を引くことになる。何という卑劣な残酷さ。『がんばろう日本』なんて言っていたのは、どこに行ってしまったのか」と嘆いておられる。さらにヒステリー現象として「京都五山送り火をめぐっての一騒動」、「愛知県日進市で起こった花火をめぐる騒ぎ」、「大阪府河内長野市の、橋桁をめぐる騒動」、「福島県産というだけの、食品への拒絶現象」を列挙し、嘆いておられるのである。
こうした風評被害は、案外私達も無意識のうちに加害者になっているのです。今度は文藝春秋1月号で池谷裕二さん(東京大学准教授)が、「風評加害者になる『私』」と題して執筆しています。氏は風評加害者になってしまうのは、人の心が豊かな想像力を持ち得た以上、それは避けられないことでもある、と示している。「例えばアメリカでテロリストが捕まったとき、調べてみるとイスラム教徒だった。すると、多くのアメリカ人はイスラム人というだけで危険視してしまう。福島県産のレタスから放射能物質が検出されたとなると、福島県産の野菜はもう食べないなどと極端な反応を示してしまう。我が家では未だにお茶を入れるのもパスタを茹でるのもペットボトルの水だ。都内の水道水は安全なのに、科学者である私でも『本当は良くないことだと分かっているんだけど、ついつい』と漏らす妻を説得できない。恐怖心から来る風評加害根性はかくも強大なのだ。そして私がコンビニにその水を買いに行くことになる…」と述懐しておられる。
私達は風評とか人の噂に弱いということであります。真実に向かおうとしないで、人が言っていることを真実だと思ってしまう姿があるのであるのです。これでは人間の世界は維持できなくなるのではないでしょうか。人間には、真実に生きる指針が与えられているのです。今朝も聖書により、人間の正しい定められた歩みを示されたいのであります。

 今朝の旧約聖書は「コヘレトの言葉」から示されます。「コヘレト」とは「集まる」、「集会を開く」という言葉から出来ており、そのことから「説教者」、「伝道者」という意味合いになってきています。従って、昔の聖書は「伝道の書」と称していました。1章1節に、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」となっているので、これは神様から知恵を与えられたソロモン王が記したものであると、当初は理解されていました。しかし、これはソロモンが書いたものではなく、いわゆる神様から知恵を与えられた人が書いたということです。内容的には全体的に虚無的な示しになっています。人間の労苦のむなしさが述べられていますし、人間の魂のはかなさを嘆いてもいるのです。一体、この「コヘレトの言葉」は何を示しているのか分からなくなります。ただむなしさを列挙されても、ではどうしたら良いのか分からないのです。人間は人生を見極めることはできません。人生を見つめれば見つめるほど謎の前に無力に立ちつくすことになるのです。とことん人間のむなしさを知るとき、ここに福音の光が差し込んでくることになるのです。従って、自分を見つめれば見つめるほど空しいのですが、そのむなしい人間に十字架の福音が差し込んでくるのです。
 今朝はコヘレトの言葉3章9節からですが、3章1節からは「時」について記されています。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」というように、人間のすべての営みを示しながら、それらはすべて「時」であると示しているのです。そこで今朝の9節以下はこれらの結論として述べられています。いろいろな「時」があるが、しかし、「人が労苦したところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべて時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と示しています。つまり人間は時を刻みつつ生きているが、すべて神様の備えた時であると言うのです。だから、人がその時に対して労苦したところで何になろうかといっているのです。極めて空しいことを言っているようです。人間として日々の生活の中で、一生懸命にその時を生きているのです。神様が時宜にかなってお造りになっていると言われると、今の時のことが、それこそ空しくなってしまいます。
 コヘレトの言葉の7章29節は今朝の聖書と関連します。そこでは「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」と示しています。要するに人間は複雑な考えをしていて、神様が人間をまっすぐに造られたのに、勝手に生きていると言っているのです。3章14節で、「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた」と示していることがコヘレトこの言葉の意図であると言うことです。つまり、人間は時を生きており、いろいろな時を踏まえながら前進しているのでありますが、その時の中に、人間が神様を畏れ敬いつつ生きるならば、祝福の歩みとなることを示しているのであります。
 予定説があります。人間が生きるにおいて、すべてが予定されていると考えることです。そうであると、まさに空しくなります。コヘレトの言葉も予定説を言っているようですが、「人間は複雑な考え方」をしつつ生きようとしているので、複雑な考え方の中にも「神様を畏れ敬いつつ生きること」を示しているのです。
 複雑な考え方は、自分の考えもありますが、いわゆる風聞ということです。人の言っている生き方に左右されて来るのです。ここは風聞ではなく、神様を畏れ敬う時に、真の生き方が導かれて来るのです。それが信仰であり、主イエス・キリストの十字架の贖い、救いへと導かれるのです。

 マタイによる福音書8章5節以下は「百人隊長の僕をいやす」主イエス・キリストが示されています。マタイによる福音書は4章12節以下で、イエス様がガリラヤ伝道を開始したことを記しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われて、福音を宣べ伝え始められたのであります。その後、ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネをお弟子さんにしています。イエス様はガリラヤ中を回って、神の国の福音を宣べ伝えました。そして5章から7章までは「山上の説教」といわれるように、マタイは集中的にイエス様の福音を示しているのです。「山上の説教」で福音を示された後は、らい病を患った人を癒しています。百人隊長との出会いはその後でした。従って、イエス様の存在、お働きが次第に広まっていく過程であります。いわゆるイエス様の伝道の初期のころです。人々は心を打たれる神様の御心のお話、また力ある業を示され、そのうわさがいろいろな形で広まっていく状況でした。そのような場合、イエス様という存在が、まだ人々には分からない状況です。いろいろと噂されていたでありましょう。これは後のことですが、イエス様は人々が御自分のことをどのように理解しているのか、お弟子さん達に聞いたことがありました。それはマタイによる福音書16章13節以下に記されます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお弟子さん達に聞きました。お弟子さん達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリアだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えています。この頃は伝道を開始して3年も経ています。かなりイエス様の伝道が行われ、人々もイエス様に接しているのです。しかし、真実イエス様が神の子として、メシア、救い主として人々の中にいることについては誰も分からないのです。だから、いろいろな理解をしています。
 百人隊長がイエス様に僕のいやしをお願いしたのは、イエス様が伝道を始めた初期のころです。だから人々にとって、このイエス様についてよくわからない状況でもあるのです。そういうときに起こるのが風聞と言うものです。人々は自分の気持ちを含めながらイエス様について、こういう人だといっている訳です。そういう風聞が飛び交う中で、百人隊長は風聞にとらわれずに、主イエス・キリストの救いを信じたのであります。百人隊長はローマの兵隊です。聖書の国はローマの支配下に置かれており、ローマからは総督が派遣されています。百人隊長は聖書の人々ではなく、外国人であるのです。従って、外国人なので、何よりも人々の噂、評価を求めるものですが、風聞に捕われることなく、自分の目でイエス様を見つめ、自分の心でイエス様を救い主として信じていたのであります。
 百人隊長の僕が中風で苦しんでいます。そこで百人隊長はイエス様に治していただくよう懇願するのです。イエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われると、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るようなものではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、私の僕はいやされます」と言うのでした。つまり、百人隊長は部下に命令すればその通りになるのであり、ここはイエス様がお言葉をくださればその通りになると信じていたのです。既にイエス様の伝道は開始されていますが、病人をいやす時、そのような言葉で治すことなどありません。噂とか人が言っていることではなく、イエス様に対する自分の信仰をはっきりと告白したのであります。百人隊長の僕はイエス様のお言葉と共にいやされたのでした。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」とイエス様は百人隊長の信仰を祝福されているのです。
 百人隊長の信仰とは、人々の評価ではなく、噂でもなく、風聞でもなく、百人隊長はイエス様が真の救い主であることを信じたのであります。そこにイエス様の祝福が与えられたのです。人がどのように言っているから信じるというのではなく、自分が真実だと信じることです。ヨハネによる福音書4章に「イエス様とサマリアの女性」について記されています。サマリアの女性はイエス様と出会い、自分の何もかもを御存知のイエス様を信じました。そのため女性はサマリアの町の人々にイエス様のことを知らせるのです。それにより人々はイエス様を信じるようになります。そして人々はサマリアの女性に、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と述べたのでした。百人隊長は自分で信じたのです。この方こそ救い主であり、生きる根源であると信じたのであります。

 「もう、あなたが話したからではなく、自分がイエス様の救いを信じたからである」とサマリアの人々は証ししましたが、その証しをされた方がおられました。前任の大塚平安教会時代、77歳で洗礼を受けられた婦人がおられました。この方の息子さんが既に教会員となっておられ、信仰の歩みをされていました。その方がある日、母上を礼拝に伴われました。一度、教会に行ってみたいと願っておられ、ついに実現されたと言われて喜んでおられました。その母上は、それからは毎週のように礼拝に出席されていました。当初は教会からかなり離れた所に住んでいましたが、教会には車を運転して出席されていたのです。もう車の運転は危ないからと言われ、それならばと教会のすぐ近くに引っ越して来られたのです。そして、ついに洗礼を受けられました。洗礼式の朝、礼拝堂で息子さんを呼び、母上はつくづく言われたそうです。「あなたに教会に連れて来てもらいましたが、私が今日、洗礼を受けるのは、あなたが私を教会に連れて来てくれたことには違いないけれど、私がイエス様を信じて自分の決心で洗礼を受けるのです」ときっぱりと言われたということでした。自分が主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、そこにこそ救いがあり、自分の生きる基を置いて歩むことを宣言されたのでした。
 主イエス・キリストの十字架の導きは風聞ではなく、真実の歩みへと導かれるのです。この社会の中にあって主の御心を基として歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。真実の導きを感謝致します。人の思いは偏りますが、正しい主の御心を持って歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。