説教「見守られている存在」

2012年1月29日、六浦谷間の集会
「顕現後最終主日」 

説教、「見守られている存在」 鈴木伸治牧師
聖書、詩編121編1-8節
   コリントの信徒への手紙<二>4章7〜15節
   マタイによる福音書17章1〜8節
賛美、(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」、
   (説教後)讃美歌21・155「山べに向いて」


 東日本大震災の復興に全力を注いでいる日本の国でありますが、報道によると、この4年以内に大きな地震が発生する確率は70%ということでした。今までは20年以内の確立として70%であったのですが、東日本大震災以後、小地震が頻繁に起きるので確率が変更になったということです。この4年以内ですから、十分に備えをしなければならないのです。どのように備えなければならないのか、それは報道を通して示されている通りです。家具の固定とか、水の確保、非常食や用品とかを備えておくことが言われています。また、いざというとき、どのように避難するか、日ごろの見極めあるいは訓練等も必要であるということです。いろいろと言われている中で、実際に避難されている人々の声を聞く時、日ごろの人の和が大切であることも言われていました。地方の人々は、その点は隣組のつきあいは濃いきずながあり、お互いに助け合って生活しています。今回の災害でも、声をかけあった結果、危機一髪で助かったというお話も聞いています。そして、今の生活においても、皆が声を掛けあって仮住まいをしているのであり、一声が嬉しいとも言われています。また、いろいろな人々が被災地を訪れ、慰問や交わりをしていることも喜びであるということでした。人間は常に声を掛けあって生きていくことが大切なのであります。人の声を受ける、それにより自分も声をかける、力が湧いてくるのです。
 4年以内に70%の確率で大地震が起き、それが都会であったら、どういうことになるのでしょうか。もちろん大きな災害が発生して混乱するのでありますが、一番心配するのは孤独に生きる人々なのです。今でも都会に生きる人々の隣人への無関心が指摘されています。都会の中でひっそりと生活している人々が多いのです。それを求めている人、求めなくても孤独に追いやられている人々が居るのです。同じマンションに住んでいても、隣りの人がどのような人か分からないのです。同じ敷地内ですれ違っても、お隣り同志であることも分からないのです。非協力の社会が生まれてもいるのです。マンション組合があっても加入しない人もいるということです。大きな災害が発生した時、声を掛けあって避難することができるのか、そんな疑問がわいてくるのです。
 今回の災害で、人の和が大切であることを示されています。人の和は災害に関係なく、日常生活で営むことが普通の生活であるのです。それが薄らいでいる現代の都会の人々であることも示されています。孤独に生きる人々が多く、一人でさびしく過ごす人々が多いのです。もう家族もめったに来ないという人もいます。たとえば隣り近所の皆さんと親しく接しながら、孤独に生きる人々がおられるのです。人間は、よく言われるように、独りで生まれて来て、独りで死んで行くのであり、そのことを思うと人間は孤独であるということです。お友達や家族、隣組の皆さんと触れ合いながら、それにより力を得ながらも、自分の存在をしっかりと確実に見守ってくださる存在を改めて示されたいのです。そして、その見守りを土台として、人の和を深めて行きたいのであります。

 「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」と示しているのは詩編121編です。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」と歌っています。詩編121編は「都に上る歌」と説明されています。詩編は120編から134編まで、「都に上る歌」を記しています。いわゆる巡礼の歌でもあります。聖書の人々は祭りになると都に上り、エルサレムの神殿で礼拝するのです。今のように交通機関がありませんから、歩いて行くわけです。一人では危険なので数人で行くことになります。しかし、やはり山あいをぬいながらの旅は心細いというものです。
 聖書の人々は祭りを重ねながら歩んでいました。毎週の祭りは「安息日」を祝うということです。毎週土曜日には安息日の礼拝をささげるのです。毎月のお祭りは「新月祭」です。これは毎月の一日に捧げる礼拝です。そして毎年の祭りになりますが、「過ぎ越しの祭り」、「七周の祭り」、「仮庵の祭り」が聖書の人々の三大祭りになります。いずれも聖書の人々がエジプトで奴隷であり、その奴隷から解放された出来事に関係します。過ぎ越しの祭りは3月、4月頃です。神様の審判がエジプトにくだり、しかし神様の審判は聖書の人々を過ぎ越したことが基となっています。救いの時なのです。その救いの過ぎ越しとイエス様の十字架の救いが重なるのです。それから50日目が「七週の祭り」になります。小麦の収穫感謝日でもありますが、この日にシナイ山モーセ十戒を与えられた日としています。この日はペンテコステ聖霊降臨祭と重なります。そして「仮庵の祭り」は、9月、10月頃にお祝いされます。秋の収穫感謝祭でもあります。人々は収穫の恵みの喜びを持ちつつ、出エジプト後の荒れ野の40年、テント生活で過ごしたことを思うのです。畑の中に小屋を建て、苦しかった荒れ野の生活を思い、今は恵みの時であることを感謝しつつ仮小屋で過ごすのです。 
 この三大祭りには都に行き、エルサレムの神殿に詣でることが生活になっていました。イエス様はナザレ村で育ちましたが、12歳の時、両親や村の人々と都詣でのエルサレムの神殿に行きました。ルカによる福音書2章41節以下に記されていますが、そのナザレからエルサレムまで100キロはあります。かなり歩いて行くことになります。だから人々と一緒でも、都詣での人々は不安と心細さがありました。詩編121編はその心境をつくづくと歌っているのです。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と歌うとき、山々の存在に神様を重ね、どっしりとした山から神様の見守りを深く受け止めたのです。
 実際には都詣での歌ですが、詩編は礼拝において歌われるものです。ですから都詣でと人生を重ねながら歌っているのです。「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」と歌います。人生によろめくことなく、いつも見守ってくださる神様を信じて歩むようにと祈りつつ歌っているのです。この詩編121編には「見守る」という言葉が六回も出てきます。神様の「見守り」があるから、たとえ寂しくても、心細くても、不安でも、よろめかないで歩むことができるのです。聖書の言葉の「見守る」はシャーマルという言葉ですが、この言葉は「見守る」と共に「愛する」、「助ける」、「目を注ぐ」という意味も含まれているのです。従って、神様が愛を持って「見守る」ことを示しているのです。助けつつ「見守る」のです。山々を仰ぎながら神様の見守りをはっきりと示されて、巡礼の人々が都に上ったと同じように、礼拝をささげる人々が今、神様の存在をはっきり示されて新しい一歩を踏み出していくのです。詩編121編はそのような歌になっています。この詩編を歌いつつ人生を歩むとき、力と希望が与えられるのです。

 救いの存在をはっきりと示され、歩むこと、そこに力強い歩みが導かれてきます。今朝の新約聖書はマタイによる福音書17章の「イエス様の姿が変わる」示しです。冒頭に「六日の後」と記されていますが、イエス様とお弟子さん達がカイサリア地方に行った時、イエス様はお弟子さん達に、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねました。お弟子さん達は人々が言っていることとして、「洗礼者ヨハネ、エリア、エレミヤ、預言者の一人である」と言っていると答えます。するとイエス様は、「それではあなたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエス様はペトロを祝福し、その後、ご自分が「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とお弟子さんたちに打ち明けられたのです。するとペトロはイエス様をわきへお連れし、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめるのでした。それに対してイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。ペトロは心から信じて、イエス様をメシア、神の子と告白したのです。それなのに十字架で死ぬと言われ、そんなことがあってはならないと思ったのですが、イエス様は今後の歩みをはっきりと示されたのでした。
 それから「六日の後」のことが今朝の示しです。従って、ペトロさんをはじめお弟子さん達は、イエス様について分からなくなっているのです。メシアであると告白しても、十字架で殺されるというのですから、イエス様をどのように受け止めたらよいのでしょう。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネの三人のお弟子さんを連れて高い山に登られました。するとイエス様の姿が変わったのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」のです。そして、そこに昔の時代に活躍したモーセとエリアが現れ、イエス様と語りあうのでした。モーセは律法を代表するでしょうし、エリアは預言を代表しています。律法と預言の実現を示すのがイエス様の変貌でもあります。この時、天からの声があり、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と示しをいただくのでした。その後、イエス様の姿は元に戻りました。
 この山上の変貌は何を示しているのでしょう。メシアであると信仰告白したにも関わらず、イエス様は十字架の死を予告されました。お弟子さん達はお先真っ暗です。そのお弟子さん達に真の導きを与えておられるのです。イエス様が十字架にお架りになり、死んだとしても、イエス様は三日目に復活なさるのです。受難予告の時にも、イエス様は復活について示しているのに、お弟子さん達は十字架の死のみを受け止め、悲しみとなっていたのです。お弟子さん達を導くのは「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」イエス様なのです。山上の変貌は光輝くイエス様を予め示されたのです。イエス様は十字架により殺されますが、しかし、それでおしまいではなく、そこから光輝く主イエス・キリストの導きが始まるのです。
 マタイによる福音書は復活されたイエス様がお弟子さん達を導くのは、28章16節以下に記される、昇天にさいしてのお弟子さん達への大伝道命令でした。お弟子さん達は導かれて山に上ったとき、イエス様がお弟子さん達に現れ、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのでした。この大伝道命令に従ってお弟子さん達の宣教が導かれるのです。マタイによる福音書はお弟子さん達が復活後のイエス様とお会いするのはこの時だけですが、ルカによる福音書ヨハネによる福音書は、復活後にお弟子さん達にお会いになったイエス様が、生活の場において共におられるイエス様を示しているのです。ルカによる福音書はイエス様がお弟子さん達に食べ物を所望されています。復活されたイエス様がお弟子さん達に現れ、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、お弟子さんが焼いた魚を差し出すと彼らの前で食べられたのです。そして、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカによる福音書24章36節以下)と言われたのです。山上の変貌でモーセとエリアと語りあったということは、イエス様が律法と預言の成就であることを示しているのです。そして「詩編」に書いてある事柄もイエス様において成就していることを示しているのです。
 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」と詩編は歌っていますが、まさに主イエス・キリストが助け主となって私達の現実におられるのです。山上の変貌は光輝くイエス様が現実の中におられて私達を導いておられることを示しているのです。

 そこでコリントの信徒への手紙(二)4章7節以下で、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」と示しています。イエス様の十字架の贖いの死が、光輝く導きなのです。だから寂しさ、苦しさ、悲しみ等、たとえその現実を歩みましょうとも、光輝くイエス様が導きを与えてくださっている信仰が与えられているのです。
 この聖書の言葉はわたしの姉の命の言葉でした。姉は15年間リュウマチの痛みを持ちつつ歩みました。体のいたるところに骨の補強金具を埋め込みながら、そして動かなくなって行く手足でありながら、この聖書の言葉に生きていたのです。姉は文語訳聖書の言葉を諳んじていました。「われら四方より患難(なやみ)を受くれども窮せず、為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失わず、責めらるれども棄てられず、倒さるれども滅びず、常にイエスの死を我らの身に負う」と口にしながら、闘病生活をしていました。
 光輝くイエス様の見守りをいただいているのです。我が助けは光輝くイエス様なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。見守りを感謝致します。どのような状況にあっても、光輝く主を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。