説教「ふさわしい恵み」

2012年2月5日、横須賀上町教会
「受難節前第3主日」 

説教、「ふさわしい恵み」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書11章1-10節
   コリントの信徒への手紙<一>9章24-27節
   マタイによる福音書20章1〜16節
賛美、(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」、
   (説教後)讃美歌21・481「救いの主イエスの」


 早いもので1月も終わり、今朝は2月の第一主日であります。2月4日は立春であり、もはや暖かい春の歩みであると思いたいのですが、今年は寒波が続き、降雪量も例年になく多くなっているので、その被害がいろいろと報道されています。降雪の地域の皆さんには申し訳ないと思いますが、神奈川県でも三浦半島は温暖地域であり、横浜や川崎で雪が降っても、こちらは降らないということ、まことにありがたいと思っています。葉山の近くに国際湘南村研修センターがあります。小高い丘の上にあります。神奈川教区の牧師研修会がそこで開かれたとき、研修会が終わった日は朝からかなりの雪がつもっていました。それでタイヤにチェーンをつけて下って来たのですが、下は全然降ってなく、雪など見られないのです。不思議な現象を経験したわけです。とにかく暖かい春が到来することを望んでいるのです。
 立春の前は節分ということになり、今年も神社仏閣で豆まきが行われ、大勢の人でにぎわったことについても報道されていました。いわば鬼退治、悪い存在を排除するという行事でもあるのです。前任のドレーパー記念幼稚園時代、この時期になると、幼稚園でも豆まきを行っていました。子ども達はクラスでいろいろな鬼のお面を作り集まります。鬼のお面をかぶっている子どもたちに園長が豆を投げてあげます。「鬼は外、わがまま鬼、出て行け。いじわる鬼、出て行け」と言いながら豆を投げてあげます。子ども達はきゃあ、きゃあ言いながら逃げるのです。全園児、順番にした後は、今度は園長が鬼になり、子ども達から豆を投げられるのです。豆は殻付きのピーナツですので、かなり大きなものです。子ども達は思いっきり投げますので、それはそれは受難の時です。「もう意地悪しません、我がまましません」と言いながら逃げるのでした。この豆まきをする前に礼拝をささげています。そこでイエス様が悪魔と戦ったお話をするのです。マタイによる福音書4章に記されていることです。従って、子ども達も豆まきの意義を知りながら行うわけです。
 ある時、園児のお母さんが園長に面会に来ました。「キリスト教の幼稚園なのに、どうして豆まきをするのですか。仏教の幼稚園がクリスマス会を行うのと同じではないですか」というわけです。そこで、マタイによる福音書4章に記されるイエス様が悪魔、サタンと戦ったことをお話します。幼稚園が豆まきをするのは、イエス様の教えてくださった自分中心の姿を追い出すことを実践的に学ぶことですよ、とお話するのです。抗議の意味でやって来たお母さんは納得されて、よく分かりましたとお帰りになるのでした。
 このことは、私達も内面にある自己満足との戦いを導かれることなのです。しかし、自己満足の戦いと言うだけでは、倫理の世界であり、それで満足してしまうことになります。私達が自己満足と戦うのは、まことの神様のご支配があるからなのです。平和の神様が、私達を導き、真の平和を与えられて生きることが願いであるのです。人間は切磋琢磨して自分を立派な人間にすることはできません。まことの神様の導きに委ねてこそ平和の世界に生きることができるのです。

 旧約聖書イザヤ書11章ですが、「平和の王」について示しています。イザヤ書は最初から順を追ってイザヤの預言を記している訳ではありません。このイザヤ書11章は、むしろイザヤの晩年に記されたものであると言われます。聖書の国である南ユダは、当時大国として力を振っていたアッシリアの国に支配されるようになっています。その前に、同じ聖書の国であった北イスラエルはこのアッシリアによって滅ぼされてしまっていました。南ユダは滅ぼされないで支配されることになったのです。いわば降伏したからです。アッシリアに支配されていることは、支配されるままに生きることで、もはや戦いの心配もないわけですから、いわば平和の社会にもなっていたということです。そのような力における平和に生きる人々に、イザヤは真の平和を宣べ伝えているのが今朝の聖書であります。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。エッサイの子どもがダビデであり、このダビデが成長して名君となりました。神様のお心をもって人々を支配し、導いたのであります。ダビデが油注がれた者として人々に救いを与えたのであります。これは昔のことでありますが、今また、神様はダビデのような救い主、メシアを出現させると言っているのです。そのメシアは、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」存在であることを示しています。そのメシアを待望し、従うことがあなたがたの生き方であると示しているのです。
 さらにメシアが現れると、それこそ力の平和ではなく、真の平和が与えられることを示しているのです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しています。これこそ「平和」を示しているのです。小さい子供は攻撃する力はありません。しかし、その姿こそ力であり、神様の平和を示しているのです。インドの聖人とされているガンディーは「非暴力主義」で自由を勝ち取った人でした。戦いではなく、存在そのもので相手の前に立ちはだかったのでした。そして、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師も、非暴力主義で人種差別撤廃運動に立ちあがったのでした。イザヤ書が「獰猛な野獣を子供が導く」と言っているのは、そのことであります。神様の平和が与えられているからです。「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう」と平和の姿を示しているのです。
 主イエス・キリストがこの世に現れた時、神の子として、救い主として現れました。それは今朝のイザヤ書11章で預言されている「平和の王」そのものでした。人々に真の平和を与える存在として現れたのです。しかし、当時の世界はローマが支配者であり、初代皇帝になったアウグストゥスは人々から「平和の王」としてたたえられたのです。その時代に主イエス・キリストが現れた意味を聖書は深く示しているのです。「平和の王」は人間ではなく、メシアこそ真の平和を与えるものであると示しているのです。人間の「平和の王」は消えて行きましたが、メシアの「平和の王」は今日にありましても平和の基を導いておられるのです。その「平和の王」はイザヤが示すように「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」のであります。

 そのメシアであるイエス様の導きをいただきましょう。新約聖書はマタイによる福音書20章に記される「ぶどう園の労働者」のたとえを示しています。これはイエス様が天国についての教えをしているのです。今朝は20章1節から16節までですが、その16節に「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」として結んでいます。今朝の聖書の前の部分、19章18節以下も天国についての示しです。そして19章30節で、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」と結んでいます。イエス様は二つの天国の教えで「先にいる者、後にいる者」の存在をはっきり示しているのです。「先にいる者」とは、19章では掟、律法を完全に守っている人です。また、金持ちであるとも言われています。20章では権利を持つ者として示しているのです。19章では金持ちの青年がイエス様に、「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねたので、イエス様は掟、律法を守りなさいと示しました。すると金持ちの青年は掟、律法は皆守っているというのです。「まだ何かかけているでしょうか」と青年は訪ねていますが、既に青年は、自分は永遠の命を得ることができると思っているのです。イエス様に肯定してもらいたかったのです。ところが、イエス様は青年が持っている富を処分しなさいと言います。富に依存している限り、いくら掟、律法を守っても神様の祝福はいただけないのです。
 今朝の20章においても、権利の主張をする人々に示しています。そこで今朝の聖書を示されます。「ぶどう園の労働者」のたとえですが、ぶどうの栽培はいろいろな国々で行われています。スペイン、フランス、ドイツ、イタリア等、どこの国でもぶどうの経済があります。多くの場合、ぶどう酒を作ることです。余談ではありますが、シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方で作られたぶどうの発泡酒です。ところが他の国でも発泡酒を作るようになり、シャンパンとして売ることになります。フランスはそれらに抗議して、シャンパンはシャンパーニで作られる発泡酒なので、他の国がシャンパンと名付けるのは間違いであるとしました。それでスペインではカヴァ、ドイツではゼクト、イタリアではスパマンテとの名称で発泡酒を作ることになったのであります。
聖書の国でもぶどう産業が盛んでしたので、聖書にはいろいろとぶどうに関係して教えがなされています。今朝の聖書はぶどう園の労働者の待遇に関しての神様の御心を示しています。あるぶどう園の主人が、労働者を雇うために夜明けと共に広場に出かけて行きました。広場には職を求めて人々が居るのです。そこで雇用契約がまとまり、ぶどう園で働くことになります。その契約は「一日につき一デナリオンの報酬」の約束で働くというものです。たとえ話の全体から考えて、一日というのは朝の6時から夕方の6時ということになります。12時間労働で一デナリオンということです。契約ですから、一デナリオンの支払いは保障されているのです。だから、働く人も喜びつつ仕事をするわけです。ところで、ぶどう園の主人はその後9時頃、12時頃、3時頃にも広場に行きます。まだ仕事がなくて立っている人がいるのです。「あなたがたもぶどう園で働きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って、それらの人々を雇います。さらに5時頃に行きますと、まだ立っている人がいるのです。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と主人は言いますと、「だれも雇ってくれないのです」というので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言いました。ここでは賃金のことについては触れていません。途中からの人に対しては「ふさわしい賃金」を払うと言っていますが、5時からの人には賃金のことについては触れていないのです。
さて、夕刻6時に終わり、主人は「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と監督に言います。最後に来た人は一デナリオンの賃金が払われたのです。賃金については何も約束はしていませんでした。だから最後に来た人にとって、たった1時間しか働かないのだから、賃金については希望を持っていなかったのです。しかし、1時間しか働かないのに一日分の賃金が払われたのです。その後の人々は「ふさわしい賃金」の約束があります。一日分でなくても「ふさわしい賃金」は約束されていたのです。だからあまり不安、心配はなかったでしょう。落ち着いて賃金をもらうことができるのは、朝6時から働いている人々です。「一日一デナリオン」との契約がありますから、当然の権利として順番を待っていました。しかも、たった1時間しか働かなかった人に対して一デナリオンの賃金を払っているのですから、計算で行けば12デナリオンの賃金をもらえることになります。ところが払われた賃金は一デナリオンでした。それでこの人たちは主人に、「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平を言うのでした。主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしだではないか。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」 と言うのでした。
この世の論理からすれば12時間働いた人の言い分は正しいでしょう。しかし、このたとえ話は「天国」についてのたとえなのです。すなわち、天国、永遠の命は、権利や保障、富や財産で導かれるものではないということです。神様の恵みの導きなのです。従って、信仰生活50年も教会における役員歴が長くても、それが天国の権利でも保障でもないということです。「一日一デナリオン」の人は、天国には当然の権利として入ることができると思っています。これは当時の聖書の人々の思いです。バプテスマのヨハネが、「自分達の先祖はアブラハムだなどと思ってもみるな」と言っているのは、人々が「アブラハムは神様から祝福された、だからその子孫である我々も祝福される」との権利意識を持っていたからなのです。イエス様は当時の聖書の人々に向けて言われているのです。それに対して、「ふさわしい賃金」に生きる人々です。とにかく人生の途上、主イエス・キリストにより神様の御心をいただき、実践して生きる人々です。これこれをしたから天国に導かれるという行為の祝福ではなく、信仰に生きるということです。主の御心に生きることが永遠の命に導かれることを知っています。行為の結果ではなく、主イエス。キリストの贖いの救いを信じて生きる人々が「ふさわしい賃金」であるのです。まして、賃金については何一つ言われなくても、1時間を一生懸命に働いた人は、信仰を喜びつつ生きた人であり、まさに天国へと迎えられることを示しているのです。

時々、大塚平安教会時代の一人の信徒について証しを紹介させていただいております。その婦人は77歳になって教会の礼拝に出席されました。息子さんが教会員として歩んでいたので、ご自分も教会に行ってみたいとの思いをもっていたのです。そして、息子さんに連れられて礼拝に出席し、それからは毎週の礼拝に出席されるようになりました。そして、洗礼を受けられました。ピアノの先生をしておられた方で、教会学校の礼拝で奏楽奉仕をしてくださるようになったのです。そして84歳で天に召されましたが、私はこの方のお証は、ぶどう園で5時から働いた方であると示されています。7年間、主の御心を一生懸命に生きた方であったのです。まさに「ふさわしい恵み」をいただいて84年間の人生を歩んだ方であると示されています。
 その方が「77年目のイエス様のお招き」と題して証しされています。
「私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。どうか神様のお心を頂いて、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈りいたします。

パウロの言葉からも示されます。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と大伝道者が証ししています。大伝道者は権利の主張をしていません。自分も「ふさわしい賃金」をいただくために歩んでいたのです。「ふさわしい恵み」の根幹をなすものは、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて歩むことなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架を基として歩むことができ感謝致します。どうか「ふさわしい恵み」を求めて、与えられている馳せ場を力強く歩むことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。