説教「天の国を示されながら」

2017年2月5日、六浦谷間の集会
降誕節第7主日

説教・「天の国を示されながら」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書6章8-12節
    ローマの信徒への手紙1章18-25節
     マタイによる福音書13章10-17節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・122「みどりもふかき」
    (説教後)535「今日をも送りぬ」


 教会の歩みは、クリスマス後は主イエス・キリストが次第に世に現れることが示されています。イエス様の宣教の開始は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われて始められたのです。人々が「天の国」に生きるためにイエス様が現れたということです。「天の国」については、いつも示されていることですが、死んで彼方の国に導かれることでありますが、それと共に、生きている今が「天の国」であることを示されることなのです。そのために礼拝をささげつつ日々の歩みが導かれているのです。この様な歩みは仏教においても、ユダヤ教においても、イスラム教においても基本的には、同じように信じているのであります。その意味でもそれぞれの信仰を尊重しなければならないのです。
 今は世界的にもアメリカ大統領の存在に注目しています。アメリカを守るために、特にイスラム教社会の国々の人々に対して入国禁止を宣言しています。イスラム原理主義と言われる人々がテロを行い、人々を恐怖に陥れているからでもあります。しかし、それがイスラムを信じる人々と結びつけるのは、きわめて偏見と言わなければならないのです。信仰に生きる人々は基本的には平和を祈りつつ歩んでいるのです。このことは歴史を通して行われてきた宗教弾圧でもあります。塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読むと、ローマは宗教的には寛大な民族でした。それはローマ自信が神々を信じる世界ですから、キリスト教であろうと、信仰が認められていたのです。しかし、キリスト教の人々は、ローマの神々を中心とする歩みに協力しなかったことで、迫害へと変わっていったのでした。迫害しながらもキリスト者の歩みが、それは「天の国」を生きる人々なので、やがてローマの民衆がキリスト教へと心を寄せ、ついにキリスト教国家が成立したのでした。
 宗教弾圧は日本の国でも残酷な歴史を残しています。戦争中、天皇を中心とする軍国国家となり、ものみな天皇を崇拝するようにします。その中で、ただ神様だけを崇拝するキリスト教が迫害されたのでした。痛ましい、悲しい歴史を読むことになります。キリスト教迫害は、さらに遡って信長、秀吉時代の迫害がありました。本日2月5日は「日本二十六聖人の日」とされています。キリスト教を信じる人々、当時はキリシタンと言われていますが、豊臣秀吉の下で処刑されたのでした。秀吉は宣教師たちの活動が盛んになるにつれ、キリシタンを問題視するようになり、迫害するようになりました。処刑された26人の中には、12歳の少年もいました。処刑の責任者が少年を哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てれば命を助けてやる」とさとしますが、少年は「この世のつかの間の命と天国の永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として釈放を断ったと言われます。この時代に多くのキリシタンが処刑されたと言われます。永遠の命を信じながら、たとえこの世の命が苦しめられても、今も天の国に生きている喜びを持っていたのでした。
 今日、私達は信仰のゆえに迫害がないと思っていますが、現実的には宗教的な排除が行われているのです。どのような状況でありましょうとも、今の歩みは「天の国」へと導かれているのです。今朝は、「天の国」に生きる私達の励ましであります。

 旧約聖書預言者イザヤの召命が記されています。神様はイザヤを呼び出し、荒廃した社会に御言葉を宣べ伝える使命を与えるのです。イザヤが呼び出された社会は、神様を忘れ、人々が自分達の思い思いに生きていたのです。今朝はイザヤ書6章ですが、その前の5章は「ぶどう畑の歌」が記されています。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を」と言いつつ示されています。ぶどう畑に良いぶどうを植え、手入れしながら実るのを待ったといわれます。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうでありました。どうしてなのか問いかけます。良いぶどうが実るために、いろいろと尽くしたのに、結果は酸っぱいぶどうであるということ、どこに問題があるかということです。結局、ぶどうの存在に責任があるのです。神様の御心に従わないで、自分勝手に存在したからでした。そのような社会の背景がある中で、イザヤが呼び出されたのです。
 イザヤの召命は6章1節以下から示されなければなりません。イザヤは幻のうちに、「高く天にある御座に主が座しておられる」のを見せられるのであります。そして、天使たちが飛び交い、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と賛美していました。その時、天使が祭壇の火鉢から炭火を取り、イザヤの口に炭火を触れさせたのであります。そして、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は許された」と宣言したのでありました。
そこで今朝に聖書になります。その時、主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われたのです。それに対して、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」とイザヤは応えたのであります。すなわち、あの酸っぱいぶどうのもとへ行くということです。良いぶどうにならなければならないのに、酸っぱいぶどうの人々のもとに遣わされるということです。それに対して神様が言われたことは、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし、悟るな、と。」と言われ、さらに、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」と言われるのであります。人々を導くために遣わされるのに、「理解させるな」と言っているのですから、何か矛盾を感じます。しかし、「ぶどう畑の歌」の歌で示されるように、神様は忍耐をもって、繰り返し導き、面倒を見てきたのに、結果は酸っぱいぶどうの実でした。分った、理解したといいつつ、悔い改めなかった人々の姿なのです。安っぽい悔い改め、いい加減な理解は、救いにはならないということです。結局、神様の審判があり、いい加減な人々は滅びていくということです。
しかし、救いの示しを与えているのです。もろもろの樹々は焼き尽くされるが、しかし、切り株は残るということです。その切り株から、新しい人々が生まれてくるということです。そして、御心に生きる人々が地上に与えられることを示しているのです。こうしてイザヤは御心を人々に示していきます。繰り返し、人々に示すものの、その場では理解を示しつつも、真に御言葉に生きる人々が少ないのです。それでもイザヤは語り続けるのでした。いい加減に御言葉に向かう人々は、自らの責任を負わなければならないのです。今が「天の国」を生きているといいつつ、真に御言葉をいただいて生きるときに、今が「天の国」に生きる者へと導かれるのです。

 新約聖書はイエス様のお働きが示されています。最初に、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、人々が天の国に生きるよう導かれたのです。今朝の聖書は「たとえばなし」の意味を示されています。今朝は「たとえを用いて話す理由」として示されています。その前に、13章1節以下の「たとえばなし」を示されておきましょう。大勢の群衆がイエス様のもとに来たので、イエス様は船に乗って、岸辺にいる人々にお話しされたのです。それは「種を蒔く人」のお話しでした。種を蒔く人が種まきに出て行きます。蒔いているうちに、ある種は道端に落ちました。すると鳥が来て食べてしまうのです。また蒔いているうちに、ある種は石だらけで土の少ないところに落ちます。その種はすぐに芽を出しますが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまうのです。また、茨の中に落ちた種もありました。芽が出て成長するものの、茨が伸びてふさいでしまうので、実を結ぶことができないのです。そして、ほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったということです。この「たとえばなし」をした後で、イエス様は「耳のあるものは聞きなさい」と言われたのでした。
 すると、イエス様のお弟子さんたちが近寄ってきて、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と聞くのでした。その質問にお応えになっているのが、「たとえを用いて話す理由」でした。イエス様はこのように言われています。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちは許されていないからである」と言われたのです。お弟子さんたちは「天の国の秘密を悟ることが許されている」と言われています。お弟子さんたちはイエス様のお招きにより、イエス様に従い、イエス様の弟子として、イエス様から神様の御心をいただこうとしています。聞こう、聞こうという姿勢を持っていたのです。しかし、「あの人たち」、つまり人々は、イエス様により感銘深いお話を聞くことが目的であったのです。「種を蒔く人」のたとえも、「なるほど、そうだ」との思いで聞きますが、そのお話の意味を求めませんでした。いわば面白いお話を聞いたということです。だから、イエス様はイザヤの言葉を引用しています。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」ということです。聞いているようであるが聞いていないし、見ているようであるが見ていない、ということです。
 ヨハネによる福音書9章には、イエス様が生まれながら目の見えない人を癒したことが記されています。それにより波紋が広がり、時の指導者たちとの対決となります。その時、イエス様は「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言ったので、指導者たちは、「我々も見えないということか」と反論します。イエス様は言われます。「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのであります。私達は見えると言いながら、自分の好みのものしか見ていないのです。見たくないものは見ないのです。自分の見たいものしか見ないのは、真実が見えないということなのです。「見える」「聞こえる」は、自分中心のことなのです。見える、聞こえるは、神様の御心において示されることなのです。神様の御心において聞くならば、そこで示されている「天の国」の歩みを受け取ることができるのです。
 そこでイエス様は「種を蒔く人」のたとえの意味をお弟子さんたちに示されました。「道端」とは、固い心であり、御言葉を跳ね返す姿なのです。「石だらけ土地」に落ちた種は、「根がない」ということです。御言葉を聞いて喜ぶが、根がないために、不都合なことが起きればつまずいてしまうのです。「茨の中に落ちた種」は、成長するものの、世の思い煩いに負けてしまうというのです。そのような姿勢ではなく、良い土地として御言葉をいただくならば、豊かな実を結ぶということなのです。この「たとえばなし」はそのように理解しなければならないのです。自分の中にある「道端」、「石だらけ」「茨」を押しのけて、御言葉をいただく姿勢がありますか、と問われるのです。そのためには、私達は常に自分自身との戦いが必要なのです。うわべだけのことで喜ぶのではなく、真に御言葉をいただいて、「天の国」を生きる喜びになりたいのです。

 2月5日の「日本二十六聖人の日」を示され、信仰に生きた人々を示されました。「天の国」を現実が迫害であっても喜びつつ歩み、永遠の命へと導かれたのでした。2月5日の前日は節分と言われます。そして、その前日は「豆まき」が行われます。豆まきということで「福は内、鬼は外」ということで豆まきをするのです。ところが、最近は「鬼は外」と言わないで豆をまくようです。「福は内」だけを言いつつ豆をまくのです。どうして、「鬼は外」と言わないのでしょう。前任のドレーパー記念幼稚園の園長をしていた頃、幼稚園で豆まきをしていました。ある時、保護者の方が園長とのお話を求められました。「キリスト教の幼稚園なのに、神社で行う豆まきを、どうして行うのか」ということでした。その時、次のようにお話しをしました。聖書にはイエス様が悪魔とたたかうことが記されています。これから世の中に出て行き、神様の御心を人々に示すのですが、その前に40日間、荒野で祈りつつ過ごすのでした。それが終わったとき、悪魔が現れてイエス様を誘惑するのです。食べることの誘惑、神様を試す誘惑、豊かになる誘惑でした。人間的にはこれらの誘惑は大切でした。衣食住の問題、安全な生活と豊かな人生は、基本的には人間の願いなのです。しかし、イエス様はそれらの誘惑をいずれも退けました。神様の御心をいただきつつ歩む事が根本なのです。こうしてイエス様は悪魔を退けましたが、このことはイエス様の内面的な誘惑でもありました。人間として人々の前に現れたイエス様は、まず自己満足的な、悪魔の誘惑を退けたのです。幼稚園で「豆まき」を行うのは、このイエス様から示され、私達の中にある悪い姿を追い出すことなのです。この様な説明で、保護者の方は理解されたようです。
 そして、幼稚園の豆まきです。鬼の面をつけた子供たちに、園長は「わがまま鬼、意地悪鬼、出て行け」と言いつつ優しく豆をまいてあげます。今度は園長が鬼の面をつけます。子どもたちが一斉に豆を園長の鬼に向かって投げるのです。豆は殻ごとのピーナツです、子どもちからでも、かなり痛みを覚えます。園長の受難の時でした。「もう、意地悪はしません。わがままを言いません。お友達と仲良く遊びます」と言いながら鬼の園長は逃げ惑うのでした。
 「天の国」を生きている私達は、いつも御言葉をいただいて歩んでいますので、自己満足と戦いながら歩むのです。イエス様の十字架を仰ぎつつ導かれているのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架のお導きにより、天の国を歩む事ができ感謝致します。祈りをささげ、神様の御旨を示されますようお願いいたします。主のみ名によって祈ります。アーメン