説教「幸いな道を歩みつつ」

2017年2月12日、横浜本牧教会
降誕節第8主日

説教・「幸いな道を歩みつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書30章18-21節、
    マタイによる福音書5章17-20節
賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」
    (説教後)460「やさしき道しるべの」


 昨年10月から早苗幼稚園の園長を務めさせていただいておりますが、それと共に聖坂養護学校やオリブ工房で職員の皆さんと共に聖書の学びの時を与えられておりますことを感謝しています。また、水上学園の理事長である稲本誠一さんや校長である松橋先生ともお話をする機会を与えられており、この本牧キリスト教主義の取り組みが祝福されていることを示されています。前週9日には横浜訓盲院のお招きをいただきまして、生徒の皆さんにお話をさせていただきました。私の長い人世において、ようやくゴールの地点まで導かれたような思いでおります。
 横浜訓盲院のお招きをいただきましたのは、チャプレンを担っています古旗誠先生がおられるからです。古旗誠先生は東京の目白教会の牧師ですが、その前は横浜上原教会の牧師でした。その横浜上原教会と横浜訓盲院は密接な関係を持たれており、古旗誠先生がチャプレンとしてお働きになっているのです。礼拝後に理事長先生や校長先生とお話をさせていただきましたが、部屋にはウイニフレッド・ドレーバー先生が子供たちに聖書の勉強をしている写真が飾られており、うれしく拝見しました。ドレーパー記念幼稚園の草創時代を担った先生で、私はその幼稚園で30年間、園長を務めましたので、私自身が横浜訓盲院との密接な関係に導かれていることを示されたのでした。いただいた創立100年記念写真集を拝見しますと、多くの皆さんが横浜訓盲院を訪れていることを示されます。天皇陛下、総理大臣等の写真の他には、野球では川上哲治さん、長島茂雄さん等、著名な皆さんが訪問されたことが写真で残されています。この本牧の地というより、日本における大きな存在であることを示されたのであります。
 その横浜訓盲院の校歌を示されました。「神さまいつもいらっしゃる横浜訓盲学院、春には桜の花咲き、夏には潮風かおる」と一節で歌い、二節では「賛美歌いつも流れる横浜訓盲学院、イエスさま友だちさ、僕らの友だちさ」と歌われます。そして三節では「朝には恵みの喜び、夜には感謝の祈り、みことば友だちさ、ぼくらの友だちさ」と歌われています。賛美歌を歌い、みことばと共に歩む横浜訓盲院の皆さんを示された次第です。賛美歌はお祈りです。いつもお祈りをささげつつ歩んでいるのです。また、みことばが友達のように、自分と共にあること、とても強い励ましであり、皆さんの支えになっているのです。前任の大塚平安教会時代、創立60周年を迎えたとき、60周年記念誌を発行しました。その時、教会の皆さんからの証を掲載しましたが、その証には愛唱讃美歌、愛唱聖句も記していただきました。皆さんが日々の生活の中で、愛唱賛美歌を歌いつつ歩まれ、愛唱聖句により励まされていることが記されています。聖書のみ言葉は私達を支える原動力なのです。御言葉はイエスさまが教えてくださっています。

 「あなたの目は、常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』」(イザヤ書30章20節、21節)と旧約聖書の示しであります。本日は聖書イザヤ30章を示されています。ここで示されていることは、「エジプトとの同盟」でありますが、神様のお心から離れて人間的力により頼む聖書の人々に対する怒りが示されているのであります。聖書の国は小さい国であります。この頃、エジプトやバビロン、またアッシリア等の大国があり、その間でどのように選択し生き延びるか、指導者達の悩みでありました。しかし、悩むのではなく、何よりも神様の御心を尋ね求めなければならないのであります。神様に導きを委ねるのではなく、エジプトに心を傾け、強い国の陰に身を寄せようとする人々への神様の怒りを示しているのであります。そして、そのエジプトの助けはむなしく、はかないことを示しています。8節からは聖書の人々の背信の記録であります。「今、行って、このことを彼らの前で板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子、主の教えを聞こうとしない子らだ」と示しています。人々が「立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」のであります。しかし、人々はその姿勢を望みませんでした。
 このように神様のお心から離れている人々に、救いを示すのが本日の聖書であります。「それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる」と神様のお導きを示しています。旧約聖書は、神様のお心に生きる人々をまず示されます。しかし、いつの間にか、自分の思いのままに生きるようになる人々です。好みの偶像に心を向けていくのであります。それに対する神様の審判が下されます。預言者が遣わされ、偶像を捨て、真の神様のもとに帰るように説得するのです。悔い改めへと導かれるのであります。そして、祝福の日々が与えられるのです。ところが時を経ると再び神様からはなれて行き、審判があり、預言者が遣わされ、悔い改め、祝福となっていくのであります。この繰り返しが旧約聖書の歴史でもあります。
 イザヤ書30章20節に、「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」と示しています。これは、聖書の人々が神様のお心に従わなかったゆえに、結局バビロンに滅ぼされ、捕われの身になったことを示しているのであります。捕囚と称していますが、「災いのパンと、苦しみの水」は捕囚に生きる人々の悲しみを表しているのであります。しかし、「あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」と示しているのであります。「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』」と示されています。羊飼いが羊を背後から導くように、行くべき道を示しているのであります。
 「あなたの目は、見る」と言い、「あなたの耳は、聞く」と言われていますが、実際に見たり聞いたりするのでしょうか。それは全体的な示しなのであり、基本にあるものは神様が与えた十戒であります。エジプトで奴隷であり、その苦しみをモーセにより救い出した神様は、まず十戒を与えたのであります。人間が基本的に生きる方向としての約束事でした。その十戒で示していることは、神様を愛することであります。そして、人間を愛することであります。その基本的な生き方を示されて歩むとき、まさに目は導く方を見るのであります。耳は導きの声を聞くのであります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはなりません」と十戒の第一戒は教えています。「他の神」とは自分にとって都合のよい存在であります。それは自分たちをよくしてくれる他の国でもあります。あるいは、自分の思いをかなえてくれると信じる偶像なのであります。それらは自分の都合なのであり、自分中心の姿勢なのであります。自分中心の姿勢は祝福ではありません。神様のお心こそ、わたしを真実に生きさせてくれるのであります。まさに右に、左に指し示しているのであります。十戒を守り、生きるとき、見て聞いて生きることへと導かれるのでした。

 主イエス・キリスト旧約聖書で示された十戒を改めて人々に示しました。新約聖書はマタイによる福音書5章17節からでありますが、律法について教えております。律法とは十戒を基本として、人間生活で守らなければならないことを定めているものであります。律法は旧約聖書モーセ五書といわれる創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記の中に示されています。この律法を守りつつ歩むのが聖書の人々でありました。
 主イエス・キリストの現れた時代もユダヤ教の社会であり、律法を中心にしての社会でありました。マタイによる福音書は5章、6章、7章において、主イエス・キリストが「山上の説教」として人々に神様の御心を示しました。まず、「幸い」について示し、次に「地の塩、世の光」について教えられました。教えを聞いている人々は、今までにない新しい教えとして受け止め、今度はどんな新しい教えをお話ししてくれるのだろうと期待していたのであります。ところが、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのであります。イエス様の教えを聞いている人たちは、律法の社会において、常に律法に基準を置きながら生きていました。ある意味では煩わしさがありました。常に律法、律法という思いがあり、いつも律法に束縛されている思いであったのです。ところが、今イエス様の教えを耳にしたとき、本当に新鮮な気持ちになって、受け止めることができたのであります。今度はどんな新しい教えをしてくれるのか、期待していました。その期待に対して、「律法を完成するために来た」というのですから、期待はずれの思いにもなりました。
 「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人々に教える者は、天の国で最も小さい者の呼ばれる」と言われたのであります。どんな小さな律法でも守りなさい、と言いますから、律法の締め付けかと思うのです。21節以下では「腹を立ててはならない」と教えています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に侮蔑の言葉を言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」と教えています。人々は「殺すな」との律法を守っています。しかし、守っているといいますが、普通に生活していれば殺すようなことはありません。だから、普通の生活をしている者は皆、律法を守っているのです。「はたして、そうなのですか」と人々に示しているイエス様なのです。律法を守っているといいながら、他の存在を中傷し、罵ることは殺したことと同じなのですよ、と示しているイエス様なのであります。表面的に、結果において「守っている」人々に対して、内面的に律法を守るように教えているのであります。まさに律法の完成であります。

「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」とイザヤは神様の御心を示しています。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とイエス様は導きくださっています。それが「幸いな道を歩みつつ」、祝福をいただく基なのです。
横浜訓盲院の礼拝に導かれたことを最初にお話しいたしました。訓盲院の皆さんが賛美歌をよろこび、みことばに励まされている歩みを示されたのであります。今回の横浜訓盲院での皆さんとのお交わりをいただき、私自身の神様によるお導きを示されています。
私は高校生時代に、東京にある日本点字図書館が点字の通信教育をしているのを知り、点字を習い始めました。点字を習っているうちにも神学校に進むことになり、点字の勉強を止めてしまったのです。そして、神学校を卒業し、最初は東京の青山教会に赴任しますが、その後は宮城県の陸前古川教会に赴任しました。赴任しまして、隣の町、鳴子教会の高橋牧師夫妻と親しくさせていただきました。鳴子教会は高橋トキ先生が牧師で、お連れ合いの郄橋萬三郎さんが保育園の園長でありました。郄橋萬三郎さんは、その時は全盲でありました。若い頃はかすかに見えておられたようですが、お会いした頃は、まったく見えないのでした。郄橋萬三郎さんは童謡詩人としても知られており、「子どもさんびか」にもいくつかの歌が入っています。その頃、いのちのことば社というキリスト教の本屋さんが「あかし文学」を募集していました。私は郄橋萬三郎さんの半生を書き、「鳴子こけしの歌」と題して応募しましたが、佳作ということで入選したのです。点字を習ったことが、一つの出会いの始まりかと思っています。そして、その後は大塚平安教会の牧師に就任し、合わせてドレーパー記念幼稚園の園長に就任するのであります。ドレーパー先生を示され、そのご家族が横浜訓盲院を開設されたことも示されるのであります。しかし、直接にはかかわることなく、そのお働きを示されていたのであります。
私が点字を習い始めたころ、点字図書館は募金を呼びかけていました。神学校に入るにあたり、その募金については両親に託したのであります。以後、点字図書館の募金を忘れていたのですが、姉が亡くなって間もなく、点字図書館から募金の依頼が来ていました。両親が亡くなって、その後は姉が募金にこたえてくれていたようです。それで、これからは姉に代わって献金させていただきますと記して送りました。そうしましたら点字図書館から領収証と共に、感謝のお手紙をいただいたのです。鈴木様にはご両親様から献金され、その後はお姉さまから献金され、そして、この度は弟様から引き続き献金をいただき、今回で40回目です、記されていました。このお手紙をいただき、私自身驚きました。40年間も献金をささげていたこと、神様の大きなお導きであると示されたのであります。
「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と今朝は示されていますが、神様は人生の歩みの中で、長い間お導きくださっていることをしめされるのであります。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と主イエス・キリストが教えられています。私を導く存在は、私が真実生きるために、十字架にお架かりになりました。私の自己満足、他者排除を十字架により滅ぼしてくださったのであります。私は十字架を仰ぎ見るごとに、私を贖ってくださった主イエス・キリストの導きをいただくのであります。
 あなたの人生の基は主イエス・キリストの十字架であります。永遠の天の国に至るまで導いてくださる存在なのであります。それが幸いな道なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主の十字架のお導きを感謝いたします。主が示された戒めを実践できますよう導いてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。