説教「立派な信仰」

2017年2月19日、六浦谷間の集会
降誕節第9主日

説教・「立派な信仰」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記下5章9-14節
    コリントの信徒への手紙(二)12章1-10節
     マタイによる福音書15章21-28節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・123「ナザレの村にて」
    (説教後)298「やすかれ」


 前任の大塚平安教会時代、お交わりをいただいた吉田傳治先生が過日召天され、前週13日に大塚平安教会で葬儀が行われました。私は幼稚園の職務があるため、列席できませんでした。大塚平安教会の菊池丈博牧師は、あまり吉田先生のことは存じ上げないこともあり、私が「吉田傳治先生の思い出」を記して送りました。葬儀ではその思い出を読んでいただいたのでした。
吉田傳治先生は、大塚平安教会を基盤として、主の宣教に従事されました。当初、伝道者の道を歩まれていましたが、胸を煩い、療養しつつ歩まれる中で、教師から信徒へ戻りました。その後、信徒として歩みつつも、再び伝道者へと導かれました。大塚平安教会の担任教師、鶴間の開拓伝道をなされつつも、東北伝道へと導かれたのです。東北では浪江伝道所、安積教会、勿来教会で16年間に渡り伝道されました。その後、ご病気となり、退任されて横浜の地で過ごされていたのであります。
1979年に鈴木伸治牧師が大塚平安教会に就任したとき、招聘総会では吉田傳治先生は信徒でありましたが、その時の総会の議長となりました。その頃、吉田傳治先生は信徒として大塚平安教会員であり、社会で働きつつ歩まれていました。その先生が再び主のお導きをいただき、日本基督教団の補教師に復帰されました。そしてその後、正教師になられたのであります。正教師になられるにあたり、所属教会が必要であり、大塚平安教会の担任教師となられたのであります。名目上の担任教師でありましたが、教会としては教会学校の校長を担っていただき、また事務的なこともお願いするようになりました。この時代の歩みについては、吉田傳治先生は大塚平安教会50周年記念誌に「今あるのはただ神の恵み」と題して執筆されておられます。
1986年4月より鶴間開拓伝道が始まりました。この伝道は吉田傳治先生とお連れ合いの清子姉、角田敏太郎兄と真澄姉が中心になって始められたのでした。この伝道は3年間推進されました。1989年3月をもって鶴間伝道を終了することになりましたのは、吉田傳治先生が、その4月から東北教区福島分区の浪江伝道所牧師に就任することになったからであります。1988年12月24日、吉田傳治先生と清子姉は大塚平安教会の聖夜礼拝に出席されました。そして、帰宅されたとき、ご自宅が全焼されていたのです。この大きな出来事の経験において、ここに神様のお導きがあると示されたのです。伝道者として復帰したものの、ご自分の家を基として、鶴間開拓伝道に携わり、大塚平安教会担任教師となられていましたが、神様が東北伝道へとお導きくださっていることを示されたのでした。1989年4月からは浪江伝道所、1995年2月からは安積教会、2001年からは勿来教会で牧師としてお勤めになりました。2004年5月に軽い病となり、療養されていましたが、2005年7月31日に勿来教会を辞任され、以後、横浜の家にて過ごすようになりました。
  吉田傳治先生は若い頃から伝道者として歩まれたのではなく、むしろ年齢が増し、還暦を迎えたころになって、本格的に伝道者へと導かれたのでありました。大塚平安教会で3年間の担任教師、東北の教会で16年間、約20年間の牧会者として歩まれたのです。吉田傳治先生は、私とお会いするたびにいつも口にされていたことがありました。「鈴木先生のお子さん、百合ちゃんが『お客さん、来ないねえ』と言われた言葉が、いつも心にありました。そして、その言葉が励みにもなっていました」ということでした。私が陸前古川教会時代に書いた牧会メモによるものです。誰も出席していない祈祷会で、私と連れ合いだけで集会を開いていたのを見た、その頃は3歳の百合子が、「お客さん、来ないねえ」と言った言葉を紹介したのでした。このメモは結構反響があり、いくつかの教会の牧師が、教会の皆さんに紹介されたと言われました。吉田傳治先生も、それぞれ小規模な教会で牧会をされ、伝道すれども人が来ない現実を深く示されていたのです。「お客さん、来ないねえ」は、現実であり、むしろ励みにもなったと言われるのでした。お客さんが来なくても、時がよくても悪くても、ひたすら伝道することが牧会者なのです。まさに吉田傳治先生は、病気になること二度、三度でした。しかし、それでも主のお導きを信じて歩まれたのであります。吉田先生の信仰を深く示されています。まさに「立派な信仰」のお証でした。

 旧約聖書はナアマン物語であります。聖書の国ではないアラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病をわずらうことになりました。ナアマンの妻の召使の少女がイスラエル人であり、主人のナアマンが病で苦しんでいることで、自分の国の預言者エリシャのもとに行けば癒されることを話すのでした。ナアマンは王様の許しを得てイスラエルへと赴くのでした。イスラエルの王様は、これはアラムの国の策略ではないかと疑いますが、預言者エリシャはナアマンを自分の元に来させるよう王様に言うのです。ナアマンは部下を連れてエリシャの家に来て、家の前に立ちました。するとエリシャの家から使いの者が出てきて、エリシャの言葉を伝えました。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」ということでした。それを聞いたナアマンは怒ります。わざわざ遠くからやってきたのに、預言者エリシャは顔も見せず、ただ使いの者が彼の言葉を伝えるだけなのか、というわけです。ナアマンは言います。「彼が自ら出てきて、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」と言いつつ帰って行こうとするのです。すると家来達がナアマンを引きとめ、預言者の言葉に従うように勧めるのでした。ナアマンは言われたとおりヨルダン川に行き、七度身を浸したのであります。彼の体は元に戻ったということであります。
 このナアマン物語で示されることは、主の御心に委ねるということであります。ナアマンはエリシャが自分の皮膚病を治すための手立てを自分で考えていたのであります。「彼が自ら出てきて、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた」という自分で方向を定め、自分で手立てを考えていたのであります。しかし、今、自分の方向を無くし、エリシャの示すことに従ったとき、そこに癒しが導かれました。自分の思いではなく、主の御心に委ねるということであります。
 私たちは日々の歩みの中で、行き詰ってしまうとか、挫折してしまうことがしばしばあります。それは自分の思い、計画、あるいは路線を自分なりに歩んでいるのですが、必ずしも自分の思い通りには行かないこともあるでしょう。世の中、そんなに上手く行かないと思うわけです。その程度の思いならよいのですが、思い通りに行かないあまり、行き詰まりを感じ、挫折に陥ってしまうのであります。私の思いは完全なのでしょうか。これこれこうなんだと思っていることが、思い通りに行かないときです。あくまでも自分の思いなのであります。この時、神様の御心を尋ねることであります。私の思いを掲げながら歩む私たちでありますが、主の御心を掲げて歩むものへと導かれたいのであります。
 アラムの軍司令官ナアマンはエリシャにより癒されました。神様の御心に従ったからであります。自分の思いではなく、神様の御心に従ったからであります。以後、ナアマンはエリシャの信じる神様を崇めるようになるのです。これからは偶像礼拝はしませんと誓います。しかし、アラムの王様に仕えるナアマンでありました。アラム王が信じる偶像の前にひれ伏すとき、ナアマンも共にひれ伏さなければなりません。それは家来としての義務であり、その行為を許してくださいとエリシャに言うのでした。エリシャはナアマンの言い分、願いを受け止め、祝福のうちに自分の国へと去らせたのであります。こうしてナアマン物語は私たちが主の御心、主の御力に委ねることの祝福を示しているのであります。

 主に委ねること、新約聖書カナン人女性の信仰の証を記すのであります。ナアマンも聖書の民族ではありません。その彼が真の神様の導きに委ねたのです。カナンの女性も聖書の民族ではありません。しかし、切なる思いをもって主イエス・キリストの元に参りました。今朝の聖書は、むしろ外国の人々の熱い信仰を証しているのであります。本来、聖書の民族こそ、このような熱い信仰をもたなければならないのであります。
 主イエス・キリストガリラヤ地方を中心に神の国を示し、神の国の御業を行っていました。しかし、ガリラヤにとどまらず、地図の上ではガリラヤの上の方、フェニキア地方にも行かれていました。フェニキア地方にはシドンとかティルスの町があり、今朝の聖書はイエス様がその地方に行かれたと記されています。しかし、この読み方が微妙であります。「その地方に行かれた」は行く途上にあるのか、もはやその地方にいるのか、どちらとも読み取れます。イエス様の元に一人の「女性が出てきて」お願いするので、フェニキア地方から出てきた女性であると、イエス様はまだガリラヤ地方にいるのかもしれません。ガリラヤにいることで女性との対話があると思った方がよいのかもしれません。フェニキア地方から出てきた女性が、「主よ、ダビデの子よ、私を哀れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫ぶのです。昔は病気になることは悪霊のためだと信じていました。イエス様は何も答えなかったと記しています。おそらく女性は何度もイエス様に叫んだと思われます。それで、弟子達がこの女性を追い払ってください、とイエス様に言うのでした。それで、イエス様はこの女性に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのであります。何とも冷たい言い方です。イスラエル人なら助けるが、外国人は助けないとも聞こえる言葉であります。そのような冷たい言葉でありますが、女性はあきらめません。イエス様の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願います。それに対してイエス様は「子ども達のパンを取って小犬にやってはいけない」と言われたのであります。これも冷たい言い方です。「子ども達のパン」とはイスラエルの人たちに与える神様の御業であり、御心であります。それに対して、女性は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うのでした。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言って祝福したのでありました。そのとき、娘の病気は癒されたのであります。
 この女性は外国人でありますが、イエス様に対して、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。そして、自分は「小犬」に過ぎないことも述べています。謙遜にへりくだり、イエス様を救い主と信じて懇願したのであります。切なる願いをイエス様に投げかけ、救いが導かれました。聖書は信仰を示しているのです。自分の方向を定め、その通りに努力しつつ歩むとき、私たちは行き詰まりと挫折を経験するのであります。しかし、この際、自分の思いをひとまず置かなければなりません。そして、主に委ねるということであります。自分の思いを超えたところに、主の導きがあり、祝福の歩みが導かれてくるのです。

 今朝のコリントの信徒への手紙<二>12章で不思議なことを記しています。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」と述べています。これはパウロがダマスコへキリスト者を迫害するために行く途上、主イエス・キリストに捕らえられた体験を述べているのであります。その体験を人々に誇りたいのでありますが、思い上がることのないように、パウロには「一つのとげ」が与えられているということでした。そのとげは眼病とも、何かの病気とも言われていますが、それははっきり示されていません。そのとげが、もし自分になければ、自分はもっと力強く働くであろうと思うのです。自分にとって痛みでありますが、そのゆえに強く導かれていることをパウロは証しているのです。このとげを取りのけてくださいと神様に祈りました。すると、神様は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との御声を聞いたのでした。
 先ほども示されましたが、吉田傳治先生は弱さの中にあっても、なお自分に与えられた導きを信じていました。ご自宅が全焼した時、初めて神様の導きを示されたと申しています。それまでは教師に復帰したものの、ご自分の生活が保障されていることで安心していました。ご自宅があり、大塚平安教会に教師籍を置き、何の心配もありませんでした。火災となり、何もかも失ったとき、そこから神様に委ねる信仰へと導かれたのでした。まさに立派な信仰の証を残されたと示されています。
 「私の恵みはあなたに十分である」と示されています。私にはこれがある、あれができると言うのでしょうか。あるいは何もないというのでしょうか。何もできないというのでしょうか。それが人間の弱さなのです。私の弱い姿、人間の力に頼ろうとする姿勢です。しかし、神様に委ねる歩みこそ、主にある強さの原点、信仰の基であることを示されるのであります。主イエス・キリストは十字架をもって私を贖い、復活によって私を導いてくださっているのです。さあ、私たちの弱さから歩みだしましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。お恵みを十分いただいておりますことを感謝します。持っている弱さの中から力強く立ち上がらせてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。