説教「祝福される信仰」

2021年2月7日、六浦谷間の集会

降誕節第7主日

                       

説教・「祝福される信仰」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記下5章1-14節

   コリントの信徒への手紙<二>12章1-10節

   マタイによる15章24-31節

賛美・(説教前)讃美歌21・287「ナザレの村里」(1、6番)

   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 

 2月を迎えたとき、世界中を脅かしている新型コロナウィルスの感染が始まったのは、昨年の2月ころでした。初めの頃は、そのような病原菌が感染しているということで、まあ、よそ事のように受け止めていたのです。しかし、3月にもなれば身近の問題となり、感染予防に努めなければならなくなりました。結局、この一年間、感染予防に留意しつつ過ごしたのでありますが、現在も感染予防が続いており、しばらくは世界中がコロナ感染予防に明け暮れるのでしょう。今はそういう時代ですが、新聞を見ましたら、仏像を宇宙に上げるというということでした。宇宙には各国がロケットを上げているので、宇宙が混雑してくるようです。その宇宙に宗教の世界を持ち込むのですから、どんなに科学が進んでも、宗教はなくならないのです。仏教が宇宙にまで信仰の世界を広げようとしているなら、そのうちキリスト教イスラム教も宇宙伝道を展開するのでしょうか。

 そのように示されると、宗教というもの、信仰ということ、人間の根本的なこととして人間と共にあり続けるのであります。今朝は「祝福される信仰」と題しての説教ですが、改めまして信仰を示されたいのであります。

 旧約聖書はナアマン物語であります。聖書の国ではないアラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病をわずらっています。ナアマンの妻の召使の少女がイスラエル人であり、主人のナアマンが病で苦しんでいることで、自分の国の預言者エリシャのもとに行けば癒されることを話すのでした。ナアマンは王様の許しを得てイスラエルへと赴くのでした。イスラエルの王様は、これはアラムの国の策略ではないかと疑いますが、預言者エリシャはナアマンを自分の元に来させるよう王様に言うのです。ナアマンは部下を連れてエリシャの家に来て、家の前に立ちました。するとエリシャの家から使いの者が出てきて、エリシャの言葉を伝えました。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」ということでした。それを聞いたナアマンは怒ります。わざわざ遠くからやってきたのに、預言者エリシャは顔も見せず、ただ使いの者が彼の言葉を伝えるだけなのか、と言って怒るのです。すると家来達がナアマンを引きとめ、預言者の言葉に従うように勧めるのでした。ナアマンは言われたとおりヨルダン川に行き、七度身を浸したのであります。彼の体は元に戻ったということであります。

 このナアマン物語で示されることは、主の御心に委ねるということであります。ナアマンはエリシャが自分の皮膚病を治すための手立てを自分で考えていたのであります。「彼が自ら出てきて、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた」という自分で方向を定め、自分で手立てを考えていたのであります。しかし、今、自分の方向を無くし、エリシャの示すことに従ったとき、そこに癒しが導かれました。自分の思いではなく、主の御心に委ねるということであります。

 私たちは日々の歩みの中で、行き詰ってしまうとか、挫折してしまうことがしばしばあります。それは自分の思い、計画、あるいは路線を自分なりに歩んでいるのですが、必ずしも自分の思い通りには行かないこともあるでしょう。世の中、そんなに上手く行かないと思うわけです。その程度の思いならよいのですが、思い通りに行かないあまり、行き詰まりを感じ、挫折に陥ってしまうのであります。私の思いは完全なのでしょうか。これこれこうなんだと思っていることが、思い通りに行かないときです。あくまでも自分の思いなのであります。この時、神様の御心を尋ねることであります。私の思いを掲げながら歩む私たちでありますが、主の御心を掲げて歩むものへと導かれたいのであります。

 主に委ねること、新約聖書カナン人女性の信仰の証を記すのであります。ナアマンも聖書の民族ではありません。その彼が真の神様の導きに委ねたのです。カナンの女性も聖書の民族ではありません。しかし、切なる思いをもって主イエス・キリストの元に参りました。今朝の聖書は、むしろ外国の人々の熱い信仰を証しているのであります。本来、聖書の民族こそ、このような熱い信仰をもたなければならないのであります。

 主イエス・キリストガリラヤ地方を中心に神の国を示し、神の国の御業を行っていました。しかし、ガリラヤにとどまらず、地図の上ではガリラヤの上の方、フェニキア地方にも行かれていました。フェニキア地方にはシドンとかティルスの町があり、今朝の聖書はイエス様がその地方に行かれたと記されています。しかし、この読み方が微妙であります。「その地方に行かれた」は行く途上にあるのか、もはやその地方にいるのか、どちらとも読み取れます。イエス様の元に一人の「女性が出てきて」お願いするので、フェニキア地方から出てきた女性であると、イエス様はまだガリラヤ地方にいるのかもしれません。ガリラヤにいることで女性との対話があると思った方がよいのかもしれません。フェニキア地方から出てきた女性が、「主よ、ダビデの子よ、私を哀れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫ぶのです。昔は病気になることは悪霊のためだと信じていました。イエス様は何も答えなかったと記しています。おそらく女性は何度もイエス様に叫んだと思われます。それで、弟子達がこの女性を追い払ってください、とイエス様に言うのでした。それで、イエス様はこの女性に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのであります。何とも冷たい言い方です。イスラエル人なら助けるが、外国人は助けないとも聞こえる言葉であります。そのような冷たい言葉でありますが、女性はあきらめません。イエス様の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願います。それに対してイエス様は「子ども達のパンを取って小犬にやってはいけない」と言われたのであります。これも冷たい言い方です。「子ども達のパン」とはイスラエルの人たちに与える神様の御業であり、御心であります。それに対して、女性は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うのでした。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言って祝福したのでありました。そのとき、娘の病気は癒されたのであります。

 この女性は外国人でありますが、イエス様に対して、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。そして、自分は「小犬」に過ぎないことも述べています。謙遜にへりくだり、イエス様を救い主と信じて懇願したのであります。切なる願いをイエス様に投げかけ、救いが導かれました。聖書は信仰を示しているのです。自分の方向を定め、その通りに努力しつつ歩むとき、私たちは行き詰まりと挫折を経験するのであります。しかし、この際、自分の思いをひとまず置かなければなりません。そして、主に委ねるということであります。自分の思いを超えたところに、主の導きがあり、祝福の歩みが導かれてくるのです。

 今朝のコリントの信徒への手紙<二>12章で不思議なことを記しています。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」と述べています。これはパウロがダマスコへキリスト者を迫害するために行く途上、主イエス・キリストに捕らえられた体験を述べているのであります。その体験を人々に誇りたいのでありますが、思い上がることのないように、パウロには「一つのとげ」が与えられているということでした。そのとげは眼病とも、何かの病気とも言われていますが、それははっきり示されていません。そのとげが、もし自分になければ、自分はもっと力強く働くであろうと思うのです。自分にとって痛みでありますが、そのゆえに強く導かれていることをパウロは証しているのです。このとげを取りのけてくださいと神様に祈りました。すると、神様は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との御声を聞いたのでした。私にはこれがある、あれができると言うのでしょうか。あるいは何もないというのでしょうか。何もできないというのでしょうか。それが人間の弱さなのです。私の弱い姿、人間の力に頼ろうとする姿勢です。しかし、神様に委ねる歩みこそ、主にある強さの原点、信仰の基であることを示されるのであります。主イエス・キリストは十字架をもって私を贖い、復活によって私を導いてくださっているのです

<祈祷>

聖なる御神様。お恵みを下さり感謝します。持っている弱さの中から力強く立ち上がらせてください。イエス・キリストの御名によって。アーメン。

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