説教「救いの業を示される」

2021年2月14日、六浦谷間の集会

降誕節第8主日

                       

説教・「救いの業を示される」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書30章8-17節、使徒言行録12章6-17節

マタイによる福音書14章22-33節   

賛美・(説教前)讃美歌21・290「おどり出る姿で」

(説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」

 

 聖書は、クリスマス以後はイエス様の宣教の開始について順次記しています。12歳の時の神殿における少年イエス様、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたこと、その後は荒野にて悪魔から誘惑を受けたこと、そしてその後は次第に人々にあらわれて神様の御心を示し、救いの業をあらわされていくのであります。イエス様のことについては四つの福音書が記していますが、イエス様の伝記を記すのではありません。ある程度のことを記して、イエスの教え、奇跡の業等をしるし、イエス様の救いについて記すのであります。今週の水曜日、2月17日は「灰の水曜日」になり、受難節になるのであります。すなわち、イエス様は人々の救いのために十字架の道を進まれるのであります。従って、今朝はイエス様の御業についての最後の示しを与えられるのであります。イエス様の奇跡についてはそれぞれの福音書が報告していますが、奇跡が私たちに与えている救いのメッセージを示されるのであります。

 旧約聖書から示されましょう。イザヤ書30章8節から17節が今朝の聖書であります。「背信の記録」とされています。聖書の人々が神様ではなく、人の力により頼もうとしている姿、それが背信でありますが、そのことをはっきりと指摘しているのであります。8節に「今、行って、このことを彼らの前で板に書き、書に記せ」と預言者イザヤが述べています。「このこと」とは何でしょうか。これは30章1節以下で述べられているエジプトと共に謀を立てていることであります。「彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊によるのではない」と指摘しています。神様の御心ではない謀を、後の日のために、板に書き、書に記すことであります。謀を立てる人々は「抑圧と不正に頼り、それを支えとしている」のです。抑圧と不正によるものが富であり、財産であります。豊かさの背景にある抑圧と不正が指摘されるのであります。

新約聖書ルカによる福音書12章13節以下に「愚かな金持ち」のお話があります。ある金持ちの畑が豊作でありました。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らし、やがて言います。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけのたくわえができたぞ。ひと休みして、食べたりのんだりして楽しめ』と」喜んでいたのです。その時、神様は言います。「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか」と言われるのです。自分のために富を積むことが抑圧と不正であり、神の前に豊かになることは信頼することなのであります。

旧約聖書イザヤ書エレミヤ書エゼキエル書等の預言書がありますが、共通する主題は「帰る」ということであります。今朝のイザヤ書は「立ち帰る」としていますが、「帰る」のヘブル語は「シューブ」であります。それぞれの預言書がシューブと言いつつ、神様の下に立ち帰ることを示しているのであります。中でも預言者エレミヤは繰り返しシューブを述べつつ、人々が神様の下に立ち帰ることを述べたのでした。シューブは「立ち帰る」との意味ですが、「回復する」「悔い改める」「取り去る」「向きを変える」との意味があります。今まで自分なりに信じていた人生でありますが、ここで不安を取り去り、ひたすら主にあって生きることが私たちの歩みなのであります。それがシューブであり、主にあって生きるということなのであります。

 不安を取り去り、主に立ち帰って生きた人たちを新約聖書は証ししています。マタイによる福音書14章22節以下が今朝の聖書です。「湖の上を歩くイエス様」が記されています。「それからすぐ」で始まっています。「それから」というのは前の段落で、五千人に食べ物を与えたのでありました。パンの奇跡であります。その後のこととして今朝の聖書が記されるのであります。イエス様はお弟子さん達を舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。イエス様はお祈りするために山に登られたのでありました。一方、お弟子さん達が舟を漕いで向こう岸に渡ろうとしているのですが、逆風が吹いてきて、なかなか舟を進めることができない状況になっていました。「夜が明けるころ」にイエス様は漕ぎ悩んでいるお弟子さん達のもとへ、湖の上を歩いて行かれたのでした。イエス様が五千人の人たちにパンを与えたのは夕暮れでありました。それからお弟子さん達を舟に乗り込ませたのであります。従って、お弟子さん達は一晩中逆風の中で舟を漕いでいたことになります。かなりの疲労が重なっていたのでありましょう。その時、湖の上を歩いて来るイエス様が見えたのであります。お弟子さん達は幽霊だと思い、恐怖の叫び声を上げました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とイエス様は言われました。すると、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。イエス様が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進んだのでありました。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけてしまうのです。「主よ、助けてください」とペトロは叫びます。イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくれました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエス様に叱られたのであります。

 湖の上を歩くイエス様をどのように考えたら良いのでしょうか。舟は逆風のため岸の近くまで流されており、そこは浅瀬なので、イエス様はその浅瀬を歩いて行ったのだと解釈する人もいます。しかし、聖書の示しとしてそのまま受け止めることであります。むしろ、ここでの解釈は逆風が吹きつける状況の中にイエス様がおられるということであります。この社会はまさに逆風が吹きまくっているのであります。いろいろな恐ろしい出来事が起きています。働きたくても仕事がないという逆風が吹いています。自分の希望する歩みができない現実があります。しかし、この逆風が強く吹きまくる社会にこそ主イエス・キリストは立っておられるということなのです。逆風の中に立って、私たちを導いてくださっている主イエス・キリストであります。ペトロは水の上を歩きました。しかし、逆風の怖さを知りました。イエス様の招きをいただき、信じて水の上を歩き始めたのではなかったでしょうか。イエス様の導きを一瞬忘れたのであります。水の上を歩き始めたペトロはシューブでなければならないのであります。イエス様に立ち帰り、不安を取り去ることであります。主に信頼して前進するのであります。私たちも主イエス・キリストを信じて歩む中にも、立ち止まってしまうことがあります。不安が押し寄せてくることもあります。その時、私たちはシューブでなければなりません。主の御心に立ち帰り、悔い改めること、不安を取り去ること、すなわちシューブであるならば、私たちも湖の上を歩いて、主イエス・キリストと共に逆風の社会を力強く歩むことができるのであります。

 54年版の讃美歌41番は大変美しい詩です。「草木も人も眠りにおちて、世はしずけし。わが霊さめて、主の御声をば、かしこみきかずや。空にまたたく望みの星はわれをまねく。いざやなみだの谷間をいでて、主のもとにのがれん」と歌います。曲も感銘深いのですが、その曲に載せての讃美歌は、自分の思いが重なるのであります。この讃美歌はパウル・ゲルハルトと言う人が作詞しました。彼は1607年、ドイツのザクセンで町長の家に生れました。豊かで楽しい幼年時代でありましたが、その後、ヨーロッパ中が戦争に巻き込まれました。両親は死に、苦学しながらウィッテンベルク大学神学部で学びました。その後、小さな田舎の教会に赴任し、その後はベルリンの大きな教会の牧師にもなりましたが、長くは続きませんでした。5人の子ども達のうち、4人が病死してしまいます。愛する妻も失業中に天に送るのです。いろいろな苦労を重ねながら生きるとき、苦しみも悲しみもすべてを讃美歌にしたのであります。どのような社会の荒波であろうとも、神様のもとへシューブであるならば、平安と力が与えられるのであります。「主よ、あやうきと禍いとより、われをまもり、夜のあくるまで、いとも安けく、いこわしめたまえ」と四節は歌うのであります。パウル・ゲルハルトは123編の讃美歌を作りました。いずれも54年版ですが、「血しおしたたる主のみかしら」(136番)、「まぶねのかたえに」(107番)、「よろずをしらす愛の御手に」(290番)等の讃美歌があります。主に信頼するとき、慰めと導きをいただくのであります。「救いの業を示される」のであります。この現実に救いの業が与えられているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。主に信頼する私たちをお導きくださり感謝いたします。主に信頼しつつ歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

 

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