説教「安らかなる人生」

2017年2月26日、六浦谷間の集会
降誕節第10主日

説教・「安らかなる人生」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書30章8-17節
    使徒言行録12章6-17節
     マタイによる福音書14章22-36節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・125「わかき預言者
    (説教後)532「ひとたびは」


 横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を担うようになり、子どもたちの元気な声を示されつつ執務するようになっています。前週、幼稚園に行きましたら、幼稚園の先生たちから、「お孫さんのお誕生、おめでとうございます」とお祝いされました。娘の羊子がスペイン・バルセロナに住んでいますが、2月12日に男の子を出産したのでした。19日の横浜本牧教会の週報に、羊子の消息が報告されましたので、幼稚園の先生たちも週報により羊子の消息を知ったのでした。「お孫さんにお会いになりたいでしょう。いつ行かれるのですか」と聞くのです。「バルセロナにはいつも2ヶ月、3ヶ月滞在しているので、この際、園長を退任して行こうかと思っている」と述べると、先生たちは「それはだめです」声をそろえて言うのでした。「行かれるなら夏休みにしてください」と言われるのです。私達夫婦としても、やはり誕生した孫に会いたいと思いますが、今は、行かれないと思っています。行かれませんが、FaceTimeというインターネットで、動画で対面しています。今はまことにありがたいものが出来ています。メールでも写真が送られており、動画でも対面しているので、喜びは現実に示されているのです。
羊子から子供が生まれることを知らされており、しかも男の子であると知らされていました。そして、名前を考えてほしいと言われました。羊子は私の名前の一字を取って付けようとしていました。しかし、それよりも日本人の名前、スペイン人の名前、両方に通じる名前がよいと思っていました。当初は、サグラダ・ファミリア教会は「ヨセフ」さんの教会であるので、そのような名前を考えました。そうしましたら、「ヨセフ」の名前は、バルセロナにはたくさんいるというのです。「ヨシュア」とも考えましたが、日本にはなじまないようです。それで示された名前が「ヨシヤ」でした。日本語では「義也」です。この名前は日本人の中にも結構存在しています。「ヨシヤ」は旧約聖書に登場する立派な王様、神様の御心に忠実に歩んだ人でした。列王記22章1-2節「ヨシヤは8歳で王となり、31年間エルサレムで王位であった。その母の名をエディダといい、ボッカト出身のアダヤの娘であった。彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」との聖書から示されています。このヨシヤに「義」を当てはめたのは、母親の羊子に関係するからです。「義」は「羊のように、我は美しくなる」との意味合いがあり、そこから「正しい人、義人」と言う意味になったのです。親子で「羊」を示されて歩む事になるのです。
「義也」として成長することをお祈りしています。人々の希望となる人生を歩んで欲しいと思いますが、普通に成長してくれれば、それで祝福の人生なのです。新しい命が、神様の御心をいただいて「安らかなる人生」を歩んでもらいたいのです。

 旧約聖書から示されましょう。イザヤ書30章8節から17節が今朝の聖書であります。「背信の記録」とされています。聖書の人々が神様ではなく、人の力により頼もうとしている姿、それが背信でありますが、そのことをはっきりと指摘しているのであります。8節に「今、行って、このことを彼らの前で板に書き、書に記せ」と預言者イザヤが述べています。「このこと」とは何でしょうか。これは30章1節以下で述べられているエジプトと共に謀を立てていることであります。「彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊によるのではない」と指摘しています。神様の御心ではない謀を、後の日のために、板に書き、書に記すことであります。謀を立てる人々は「抑圧と不正に頼り、それを支えとしている」のであります。何に信頼しているのか。抑圧と不正であると指摘しています。抑圧と不正によるものが富であり、財産というものであります。豊かさの背景にある抑圧と不正が指摘されるのであります。
新約聖書ルカによる福音書12章13節以下に「愚かな金持ち」のお話があります。ある金持ちの畑が豊作でありました。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らし、やがて言います。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけのたくわえができたぞ。ひと休みして、食べたりのんだりして楽しめ』と」喜んでいたのです。その時、神様は言います。「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰の物になるのか」と言われるのです。そこで示されることは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりになる」との示しでありました。自分のために富を積むことが抑圧と不正であり、神の前に豊かになることは信頼することなのであります。
イザヤは聖書の人々に神様に信頼するように教えています。人間の力により頼む限り、抑圧と不正を行わなければなりません。だから、神様にこそ信頼すべきであることを示しているのであります。15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と人々に諭しています。「立ち帰って」とは神様のお心に帰ることであります。必ず救いの道が開かれてくるのであります。エレミヤ書17章5節以下に「主に信頼する人」についてイザヤより詳しく示しています。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と示しています。
ところが、聖書の人々は「そうしてはいられない。馬に乗って逃げよう」と言っているというのです。そんな暢気なことは言っていられない、自分達で活路を見出さなければならないというのです。しかし、人の思いは限りがあります。どんなに計算しても、神様の力に対しては小さなことでもあるのです。人の力ではなく、神様の御心に帰ることであります。旧約聖書イザヤ書エレミヤ書エゼキエル書等の預言書がありますが、共通する主題は「帰る」ということであります。今朝のイザヤ書は「立ち帰る」としていますが、「帰る」のヘブル語は「シューブ」であります。それぞれの預言書がシューブと言いつつ、神様の下に立ち帰ることを示しているのであります。中でも預言者エレミヤは繰り返しシューブを述べつつ、人々が神様の下に立ち帰ることを述べたのでした。シューブは「立ち帰る」との意味ですが、「回復する」「悔い改める」「取り去る」「向きを変える」との意味があります。今まで自分なりに信じていた人生でありますが、ここで不安を取り去り、ひたすら主にあって生きることが私たちの歩みなのであります。それがシューブであり、主にあって生きるということなのであります。

 不安を取り去り、主に立ち帰って生きた人たちを新約聖書は証ししています。マタイによる福音書14章22節以下が今朝の聖書です。「湖の上を歩くイエス様」が記されています。「それからすぐ」で始まっています。「それから」というのは前の段落で、五千人に食べ物を与えたのでありました。パンの奇跡であります。その後のこととして今朝の聖書が記されるのであります。イエス様はお弟子さん達を舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。イエス様はお祈りするために山に登られたのでありました。一方、お弟子さん達が舟を漕いで向こう岸に渡ろうとしているのですが、逆風が吹いてきて、なかなか舟を進めることができない状況になっていました。「夜が明けるころ」にイエス様は漕ぎ悩んでいるお弟子さん達のもとへ、湖の上を歩いて行かれたのでした。イエス様が五千人の人たちにパンを与えたのは夕暮れでありました。それからお弟子さん達を舟に乗り込ませたのであります。従って、お弟子さん達は一晩中逆風の中で舟を漕いでいたことになります。かなりの疲労が重なっていたのでありましょう。その時、湖の上を歩いて来るイエス様が見えたのであります。お弟子さん達は幽霊だと思い、恐怖の叫び声を上げました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とイエス様は言われました。すると、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。イエス様が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進んだのでありました。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけてしまうのです。「主よ、助けてください」とペトロは叫びます。イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくれました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエス様に叱られたのであります。
 湖の上を歩くイエス様をどのように考えたら良いのでしょうか。舟は逆風のため岸の近くまで流されており、そこは浅瀬なので、イエス様はその浅瀬を歩いて行ったのだと解釈する人もいます。しかし、聖書の示しとしてそのまま受け止めることであります。むしろ、ここでの解釈は逆風が吹きつける状況の中にイエス様がおられるということであります。この社会はまさに逆風が吹きまくっているのであります。いろいろな恐ろしい出来事が起きています。働きたくても仕事がないという逆風が吹いています。自分の希望する歩みができない現実があります。しかし、この逆風が強く吹きまくる社会にこそ主イエス・キリストは立っておられるということなのです。逆風の中に立って、私たちを導いてくださっている主イエス・キリストであります。ペトロは水の上を歩きました。しかし、逆風の怖さを知りました。イエス様の招きをいただき、信じて水の上を歩き始めたのではなかったでしょうか。イエス様の導きを一瞬忘れたのであります。水の上を歩き始めたペトロはシューブでなければならないのであります。イエス様に立ち帰り、不安を取り去ることであります。主に信頼して前進するのであります。私たちも主イエス・キリストを信じて歩む中にも、立ち止まってしまうことがあります。不安が押し寄せてくることもあります。その時、私たちはシューブでなければなりません。主の御心に立ち帰り、悔い改めること、不安を取り去ること、すなわちシューブであるならば、私たちも湖の上を歩いて、主イエス・キリストと共に逆風の社会を力強く歩むことができるのであります。
 イエス様のお弟子さんペトロは人間的な弱さをイエス様に指摘されていました。今朝の聖書もその弱さの姿であります。マタイによる福音書16章21節以下で、イエス様が十字架に架けられるときが近づいたとき、イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを弟子たちに話しました。すると、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエス様をいさめました。その時、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われ、ペトロは叱られてしまうのであります。さらに、イエス様が十字架を前にして、お弟子さん達がイエス様に対してつまずくといわれました。その時、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と自分の意思の固さを言うのであります。すると、イエス様は「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏がなく前に、三度わたしを知らないというだろう」と言われるのでした。ペトロは、そんなことは有り得ないと言いますが、結局イエス様を知らないと言ってしまいます。世の荒波には勝てないペトロでした。しかし、その人間的に弱いペトロが、主イエス・キリストへのシューブが導かれ、使徒言行録では力強い働きが示されているのであります。イエス様に信頼して生きることは大きな力であることを証しているのであります。

 54年版の讃美歌41番は大変美しい詩でした。それが讃美歌21にはなくなってしまいました。まことに残念であります。「草木も人も眠りにおちて、世はしずけし。わが霊さめて、主の御声をば、かしこみきかずや。空にまたたく望みの星はわれをまねく。いざやなみだの谷間をいでて、主のもとにのがれん」と歌います。曲も感銘深いのですが、その曲に載せての讃美歌は、自分の思いが重なるのであります。この讃美歌はパウル・ゲルハルトと言う人が作詞しました。彼は1607年、ドイツのザクセンで町長の家に生れました。豊かで楽しい幼年時代でありましたが、その後、ヨーロッパ中が戦争に巻き込まれました。両親は死に、苦学しながらウィッテンベルク大学神学部で学びました。その後、小さな田舎の教会に赴任し、その後はベルリンの大きな教会の牧師にもなりましたが、長くは続きませんでした。5人の子ども達のうち、4人が病死してしまいます。愛する妻も失業中に天に送るのです。いろいろな苦労を重ねながら生きるとき、苦しみも悲しみもすべてを讃美歌にしたのであります。讃美歌は神様へのお祈りであります。どのような社会の荒波であろうとも、神様のもとへシューブであるならば、平安と力が与えられるのであります。「主よ、あやうきと禍いとより、われをまもり、夜のあくるまで、いとも安けく、いこわしめたまえ」と四節は歌うのであります。パウル・ゲルハルトは123編の讃美歌を作りました。いずれも54年版ですが、「血しおしたたる主のみかしら」(136番)、「まぶねのかたえに」(107番)、「よろずをしらす愛の御手に」(290番)等の讃美歌があります。主に信頼するとき、慰めと導きをいただくのであります。「安らかなる人生」を導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主に信頼して生きる私たちに御力をくださり感謝いたします。主に信頼し、「安らかなる人生」を歩ませてください。キリストの御名によりお祈りします。アーメン。