説教「真実を示されながら」

2020年8月23日、三崎教会

聖霊降臨節第13主日

 

説教、「真実を示されながら」 鈴木伸治牧師

聖書、ヨブ記28章23-28節

   ヨハネの手紙(一)5章1-5節

   ヨハネによる福音書7章45-52節

賛美、(説教前)讃美歌21・425「こすずめも、くじらも」

   (説教後)讃美歌21・463「わが行くみち」

 

 暑い日々を過ごしていますが、8月もあと一週間もすれば終わりとなります。新型コロナウィルス感染予防、そして猛暑の戦いをしつつ歩んでまいりました。猛暑との戦いは間もなく終わりますが、感染予防に力を注ぎたいと存じます。

8月は私が務めています幼稚園は夏休みでありますが、それでも認定こども園でもありますので、数人の子供たちの預かり保育をしています。ですから、まったくお休みと言うのではなく、時々、幼稚園の執務をしています。そのような8月の歩みですが、8月は平和への願いが強く示される月でもあります。この暑い時に「平和」の祈りが深められたということです。8月6日は広島に、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。それにより8月15日に、日本は敗戦を宣言したのであります。そのような報道が多くありましたが、平和への願いとしてのいろいろな取り組み等が紹介されていました。

 私は敗戦の翌年、小学校1年生に入学しました。私は横須賀市浦郷というところで生まれました。すぐ近くに追浜飛行場という軍の施設がありました。戦争が激しくなってきて、飛行場の周辺の人々は強制移転をさせられたのでありました。横浜市金沢区六浦に移転したのは、私が4歳のときでした。1943年(昭和18年)8月でした。それから2年後に敗戦を迎えますが、戦争が激しくなっていくときであり、住んでいた家の上空をアメリカのB29という戦闘機が編隊をなし、横浜・東京方面に飛んでいく情況をいつも見ていたのです。そして、横浜方面の空が赤く染まっていたことも心に焼きついています。実際的な戦争体験、戦時下の苦しい体験はありませんが、戦争の悲惨は心に染み付いています。

 日本の今の時代は多くの人々が戦争を知らない人々です。ゲームの世界では次々に相手をやっつけて勝利者になります。相手を倒すことをゲームの世界で覚えていく時代であります。青少年ばかりではありませんが、人を殺すことを平気で、ただ自分の感情で実行していくのであります。障碍者施設で19人もの人が、一人の人によって殺害されるという恐ろしい、悲しい事件が起きています。他の存在を心から受け止め、共に生きること、それが平和の根源であります。人間は努力して平和を実現していますが、真の平和ではありません。神様により人間が生きるために「真実を示されながら」歩みたいのであります。今朝は「真実の歩み示されながら」歩む示しをいただくのであります。

2.

 平和の実現は十字架を基としなければなりません。この十字架は神様の知恵によるものであります。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)と示されています。まさに、ここに神様の知恵があるのです。十字架という、世の人々にとっては愚かなことが救いの根源であるのです。知恵は神様の「真実の示し」なのであります。

 旧約聖書ヨブ記が示されています。今朝のヨブ記の示しは神様の知恵を賛美しているのであり、人間は神様の知恵に向かわなければならないことを示しているのです。28章1節から11節までは、人間が知恵によってすべてを究め尽くしていることを歌っています。人間は金銀を掘り出し、鉄や銅、鉱石を地の底から掘り起こし、他のどんな動物も見つけることができない宝物を、人間は知恵によって探し出し、作り出していることを示しています。そのような知恵を持つ人間でありますが、「では、知恵はどこに見いだされるのか」と問いかけているのです。つまり、人間は知恵を持っているのでありますが、その知恵はどこから来るのであろうかということです。知恵は高価な金によっても買うことができず、海の中にも山の上にもないというのです。20節でも再び、「では、知恵はどこから来るのか」と繰り返しています。

 23節に「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」と示します。「その道」、「その場所」とは知恵の存在そのものであります。「神は地の果てまで見渡し、天の下、すべてのものを見ておられる。」と示しています。自然の移ろいは神様の知恵によって導かれているというのであります。それを、あたかも人間の知恵で金銀を掘り出し、宝物を積み上げていくというのであれば、それは間違いであるということなのです。神様の知恵が与えられて、すべてが導かれていることを知らなければならないのであります。「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」と結論を示しています。「知恵」と言っていますが、平たく言えば「神様の御心」であります。従って、旧約聖書の示しは「神様の御心」、神様の知恵に向きなさいということなのです。

 3.

 主イエス・キリストが人々に現れ、神様の「真実」を示されているとき、人々はイエス様が示される「神様の真実」を受け止めることができなかったのであります。今朝の聖書、ヨハネによる福音書7章45節から52節までにはイエス様は登場していません。イエス様の示された知恵の波紋が記されているのであります。イエス様が示された神様の知恵に向く人、向かわない人を記しているのが今朝の聖書であります。今朝の聖書の前の段落で、主イエス・キリストは「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。これは、神様から与えられる聖霊によって、人々が真実に生きることを示しているのであります。このヨハネによる福音書には「霊」、「真理の霊」、「弁護者」、「聖霊」と示していますが、旧約聖書が示す「知恵」「神様の真実」なのであります。

 イエス様は神様の知恵を示し、聖霊を証しているのでありますが、人々はどのように受け止めてよいのか戸惑っている様子を今朝の聖書は示しています。「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいましたが、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言う者もおり、群衆の間に対立が生じたと記されています。戸惑っている人々です。一方、指導者達は下役たちにイエス様を逮捕させるため差し向けるのであります。しかし、下役たちはイエス様に「真実を示され」、神様の知恵を示され、手を出すことができないで指導者達のところに帰りました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と報告するのです。「お前たちまでも惑わされたのか」と指導者達は怒りを表すのでした。

 ところが、この指導者の中にニコデモという人がいました。このニコデモという人は、ヨハネによる福音書3章に登場した人です。指導者ですから、昼間にイエス様とお話するのをはばかり、夜ひそかにイエス様のところに来るのです。その時、ニコデモはイエス様の知恵の言葉を聞くのですが、悟ることはできませんでした。しかし、今朝の聖書に示されるように、悟りが導かれつつあるようです。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と指導者達に言うのでした。それに対して指導者達は、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と言うのでした。ニコデモはイエス様の「真実」、神様の知恵に向かうようになります。その姿勢が、イエス様が十字架にかけられ、墓に埋葬されるとき、没薬と沈香を混ぜた物を持ってきて、共にイエス様を埋葬したのでありました。ニコデモが信仰を持ったとは記されませんが、イエス様の知恵、真理の霊に真実向かう人に導かれていたのであります。

 こうしてヨハネによる福音書は戸惑う人々を記していますが、ヨハネの示しはイエス様の「真実を示されながら」、神様の知恵に向かうということであります。

4.

神様の知恵、神様の真実に向かうこと、聖霊の導きに委ねること、それが私たちの人生なのです。その人生が平和を作りだす存在へと導かれるのです。8月は平和への願い、祈りが深まるときであると冒頭に示されましたが、私たちは「神様の真実」を示され、受け止めています。平和を実現する者へと導かれているのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下の示しをいただき、今朝のメッセージの締めくくりとしたいと思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と示されています。「神様の真実」に生かされている私たちは、どのような状況の中を歩みましょうとも、力強い人生を歩んでいるのです。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様の十字架の救いは平和の根源であります。この「真実の歩み」を示されたいのであります。主イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。

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