説教「祈りの家に導かれる」

2017年1月29日、六浦谷間の集会
降誕節第6主日

説教・「祈りの家に導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記28章10-22
    使徒言行録7章44-50節
     マタイによる福音書21章12-17節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・121「馬槽のなかに」
   (説教後)308「いのりは口より」


 前週、1月27日は、早苗幼稚園のお餅つきでした。しかし、今年は中止となりました。社会的にノロウィルス等が流行しており、食べ物に関するイベントなので、大事をとって中止にしたのでした。その前に横浜本牧教会の教会学校がお餅つき大会を開くことでしたが、ノロウィルス問題で中止になっています。教会学校が中止にしていますので、その関連もあり幼稚園も中止にしたのです
お餅つきになると、いつも昔のことが思い出されます。私がまだ小学生のころ、我が家では餅つきをしたものです。そのときは我が家のためばかりではなく、近くにおります親戚の人たちも加えての餅つきでした。ですから10臼くらいの餅つきであったと思います。みんなで掛け声をかけながらの餅つきは、本当に楽しいものでした。いつの頃から餅つきをしなくなってしまったのか、覚えがありません。ですから餅つきの臼と杵は物置にしまっていたのでした。その眠っていた臼と杵の活動が復活したのです。1979年9月に大塚平安教会の牧師、ドレーパー記念幼稚園の園長に就任しました。そして1983年1月に幼稚園の餅つきを行ったのです。周辺の幼稚園でも餅つきを行っていたのです。それで、私は実家にある臼と杵をもってきて、初めて餅つきを行ったのでした。餅つきは翌年も行いました。しかし、2年間続けて行いましたが、それ以降は行いませんでした。幼稚園における餅つきは、通常の保育の中で行われるので、教職員が主体となって行ったのです。その頃、幼稚園の園長が男性で、ほかは先生たちの女性です。先生たちも餅つきを行うのですが、結構大変でありました。それでその後は行わなくなりました。しかし、それから10年ほどして、大塚平安教会の教会学校が餅つきを行うことになったのです。教会学校が教会の皆さんに呼びかけましたので、教会の壮年会、婦人会、青年会も協力してくれたのです。従って、働き人がたくさんおられました。その後、毎年開催されるようになり、幼稚園の保護者も参加するようになり、今では教会の最大のイベントになっています。いつも150人くらい参加しての餅つき大会は、皆さんの喜びとなっているのです。
 お餅つき大会では、いろいろなお餅が用意されます。あんこ餅、黄な粉餅、海苔餅、納豆餅、おろし餅等、お腹いっぱい食べることができました。そして、その後は、楽しいひと時を持ちます。ゲームやいろいろな遊びを皆さんで行うのでした。教会は、このお餅つきも広い意味で伝道であると理解しています。会場は幼稚園でありますが、教会の名において開催しているのです。教会は喜びあり、希望であるとの思いが与えられるのです。信仰の喜び、人生の希望が教会にある、そのような存在であることを願っているのです。教会を基とした人生が導かれること、それが教会の使命であります。

 旧約聖書の創世記28章10節以下は、以前の大塚平安教会と密接に結びついていました。今は新しい教会になったので、その密接な関係はなくなりました。以前の教会は、1989年に改修したのですが、その時、礼拝堂の正面、聖壇も改修しました。講壇の正面には十字架を掲げ、梯子があり、12本の柱が建てられているのです。その梯子は、新共同訳聖書では「階段」と訳されていますが、前の口語訳聖書は「はしご」と訳されていました。口語訳聖書は「一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た」と記されています。階段でもよろしいのでしょうが、やはり「はしご」の方が分かりやすいと思うのであります。このはしごについてはヤコブが夢を見ているのであります。ヤコブは兄エサウとの双子でありました。一緒に生まれながら弟であることの不満を持っていたヤコブであります。昔のことであり、兄は家督を相続し、弟はある程度の財産しか受けることができません。その不満が、祝福をおろそかにしていたエサウから、受けるべき父の祝福をもぎ取ってしまうのでした。ヤコブはだまされたと知り怒るエサウから逃れて、母の兄、伯父さんのもとへと行く途上でありました。旅の途中、日が沈んだので野宿することになり、石を枕に寝たのであります。その夜に夢を見たのであります。天に達する「はしご」があり、神の御使いたちが上ったり下ったりしているのであります。そして、神様がヤコブの傍らに立ち、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」と言われたのでありました。ヤコブは眠りから覚めたとき、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言い、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と告白したのでありました。そして、その場所を神様のおられる場所、ベテル(神の家)と名付けたのでありました。
 その後、ヤコブはベテルを基として生きました。狡猾なヤコブでありましたが、熱心に自分の生きる道を求めたヤコブであり、神様はヤコブを祝福したのであります。彼には12人の子どもが与えられ、飢饉のゆえにエジプトに寄留することになりますが、それも11番目の子どものヨセフがエジプトの大臣になっていたからであります。ヤコブは祝福のうちにエジプトで死んでいきますが、アブラハムやイサクが葬られている墓地に自分も葬るよう子ども達に言い残したのでありました。ベテルを中心にしたヤコブの生涯でした。
 大塚平安教会が創立40周年を記念して礼拝堂を改修しました。その時、十字架が私たちを天に導くことを示されるためにも梯子を掛けたのでありました。十字架と梯子を通して、私たちも天の国へと導かれたいのであります。講壇には梯子と共に柱も立てられています。12本のつもりで立てたのですが10本しか見えません。梯子の柱を兼用にしたからです。12という数字はヤコブの子ども達の12部族であり、イエス様のお弟子さんの12人であります。ヨハネの黙示録3章12節、「勝利を得るものを、わたしの神の聖所における柱にしよう。そして、彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名を、書きつけよう」と示されています。主の御心に生きたものは、神様の御名が記された柱として立てられているのであります。講壇の柱のどれかには皆さんの名が刻まれているのです。付け加えてお話しすると、講壇の正面は白いクロス張りになっていますが。出来るだけ荒いクロスにしてくださいとお願いしました。すなわち、この世の様、社会の荒波、あるいは荒れ野の道を示され、その中に立つ十字架であり、神様の名が記された柱なのであります。
 私たちが主の教えに生きるとき、私たちにはベテルがあります。神の家があるのです。ベテルは、私たちの歩みに対して、主が共におられることを示してくれるのです。

 ベテル、神の家を旧約聖書で示されましたが、新約聖書は主イエス・キリストにより神の家が「祈りの家」として示されています。今朝は主イエス・キリストの宣教の初期を示されることになっていますが、聖書はイエス様がエルサレム入場のことを記しています。入城してから間もなく捕らえられて十字架に掛けられるのであります。主イエス・キリストは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたことについては前週のメッセージで示されました。イエス様の福音の宣教は終始「悔い改めと天の国」でありました。悔い改めて天の国へ導かれるために「祈りの家」を示されたのであります。
 主イエス・キリストが都エルサレムに入るのは、明らかに十字架への道でありました。ロバに乗り、都エルサレムに入られたとき、都の人々はそれまでのイエス様の御業と御教えを噂に聞き、あるいは直接示されていますので、都に入ってきたイエス様を喜んで迎えたのであります。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、木の枝を道に敷いて迎えたのでした。都に入ったイエス様は、まず神殿に行ったのであります。神殿は人々の中心であり、神様へ祈りをささげる場所でありました。神殿の境内に入ったとき、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒されたのでありました。荒々しいイエス様の姿であります。この行為をどのように読み取るのか。このことから闘うイエス様が引き出され、社会の悪に対する積極的な運動を導かれている人もいます。しかし、イエス様の行為は、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」とのイザヤ書56章7節の言葉を引用したことであります。時の指導者への抗議であるとか、批判ではなく、あくまでも神殿は「祈りの家」であることを示した行為でありました。両替人は必要であります。神殿に納める献金シェケル貨幣でなければなりませんでした。これは日常的には用いられていない貨幣であります。どうしても両替人が必要なのであります。鳩を売る店も必要でありました。巡礼として遠くからやって来る人々にとってはささげる動物を連れてくるのは困難であります。境内で買い求めることが得策であるのです。イエス様がそれらの商売人を追い出したのは、商人たちの売り掛け言葉であります。いろいろな店が売り掛け言葉を発していますから、境内は大変な騒ぎであるのです。
 聖地旅行をして、この神殿にも行きました。もっとも神殿は破壊されていますので、神殿跡ですが、しかし聖壇が造られ、いろいろなキリスト教の祈りの場となっています。その境内に入ろうとすると、まさに売り掛け言葉が耳に聞こえてきます。「ワンダラ、ワンダラ」と言い、聖地の絵葉書や聖地にまつわるものを売っているのです。一ドルだというので買いましたが、絵葉書などは印刷も悪く、まさに一ドルのものでした。人がいるところにはスリもいます。一緒に行った人がウエストポーチを掏られてしまいました。腰に巻いているものを、よくも掏っていくなあと感心させられました。
 そのような騒々しいところで、真にお祈りができますかとのイエス様の問いかけなのであります。神殿は静かに神様に心を向ける場であります。祈りをささげる場であります。悔い改める場であります。それにより生きる力が与えられ、天の国へと導かれていくのであります。神殿の原点へと導いたのであります。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と主イエス・キリストは示しておられるのです。

 私の家には「朝の祈り」との題で絵が掲げられています。北海道立美術館に所蔵されている油絵です。この絵には、窓から淡い光が差し込んでいる茶の間で、母と子ども達が一心に祈りをささげている情景が描かれています。この絵の作者は林竹次郎さんという人で、重い病の人々を救った林文雄さんの父親であります。そして、母の膝に伏して祈っている子どもが7歳の林文雄さんです。この絵の描かれた1907年(明治40年)頃、林家は札幌市北八条に住み、間もなく北一七条に転居しました。父の竹次郎さんは、当時札幌の中学校の教師でありました。彼は青年時代に受洗した熱心なクリスチャンで、家族全員を集めて毎日家庭礼拝を守っていました。彼は家族ともどもキリスト者として、徹底的に生きようと努力したのであります。ところで、このような父親というものは、大抵は子ども達から反発され、敬遠されるものですが、不思議なことに竹次郎さんは子ども達から愛され、尊敬されたといわれます。一生懸命の父親の姿は、子ども達の目標にもなっていたのであります。この礼拝の持たれた茶の間が、子ども達にとって忘れがたいものになりました。「一七条の茶の間」として、後々に至るまで懐かしまれるようになったということです。こうして、祈りつつ日々の生活を送ったことが、その時、7歳の林文雄さんが重い病を患う人々の医療と伝道に献身したのでありました。原点は日々の祈りでありました。
 私は主イエス・キリストの神殿から商人を追い出すこの聖書を読むごとに、林竹次郎さんの「朝の祈り」の絵を示されています。また、家に掲げられている「朝の祈り」を見るごとに、イエス様の「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」との示しをいただくのであります。日々、祈りつつ歩むとき、まさに力と導きをいただくのであります。
 私共の子ども達がまだ小さい頃、食事の前にはお祈りをささげていました。三人の子どもが食事ごとに順番にお祈りします。最初は父親が祈っていたのですが、子ども達の順番になりました。特に三番目の子どもは、まだ幼稚園の頃で、お祈りは大きな声で祈っていました。時には外食をするのですが、その時も子ども達がお祈りします。上の二人はだんだん恥ずかしさが出てきていますので、外食では祈りたがりません。喜んでお祈りするのは三番目であり、大きな声でお祈りをするのです。他にもお客さんがいるので、むしろ上の二人が、「そんなに大きな声でお祈りしなくてもいいから」とたしなめるのでした。祈りつつ成長した子ども達です。今はそれぞれの道を歩んでいますが、原点はやはり教会にあると思っています。教会はベテル(神の家)であり、祈りの家であるのです。
 教会は普段は使ってないので、有効に使うべきだとして、毎日いろいろな催しや諸団体に貸している教会があります。しかし、教会は祈りの家であります。時々、「祈らせてください」と教会を訪ねる方がおられます。一週間に一人しか来ないとしても、誰も来ないにしても、教会は祈りの家として存在しているのであります。
 私たちは「六浦谷間の集会」として、この家で礼拝をささげています。基本的には夫婦二人の礼拝ですが、時には我が家の子どもたち、また知人の皆さんが礼拝に出席します。皆さんも、ここは「祈りの家」として、喜びつつ共に礼拝をささげられるのです。「この家は祈りの家である」と示されています。私達には「祈りの家」があるのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の家、祈りの家に導いてくださり感謝致します。いよいよ祈りをささげ、神様の御旨を示されますようお願いいたします。主のみ名によって祈ります。アーメン