説教「導きの光が与えられる」

2017年1月22日、三崎教会
降誕節第5主日

説教・「導きの光を与えられる」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書9章1-6節
    マタイによる福音書4章12-17節
賛美・(説教前)讃美歌21・281「大いなる神は」
    (説教後)509「光の子となるために」


 お正月と言いつつ歩んでいましたが、早くも本日は1月22日であります。先週は大学センター試験があり、学校では卒業、入学の準備をしているところです。実は、私は昨年10月から、横浜本牧教会付属幼稚園の園長に就任してしまい、職務についたことで、毎日あっという間に過ぎていくような思いでいます。今までは隠退規牧師として、のんびりと過ごしていました。午後からは2時間くらい散歩することで喜んでいたのです。ところが現場に復帰したことで、もっとも幼稚園に赴くのは月、水、金の三日間ですが、一週間が瞬く間に過ぎていく思いでいます。
このような状況にありますとき、クリスマス物語の示しを強く感じるようになりました。クリスマス物語でも、マタイによる福音書に記される占星術の学者さんたちです。イエス様がベツレヘムでお生まれになったとき、東の国から占星術の学者たちが拝みに来たのです。学者さんたちは東の国で、救い主がお生まれになったというしるしの星を見たのです。そして、星に導かれてベツレヘムを目指したのでした。ところが、彼らは都のエルサレムに行ってしまいました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれらになった方は、どこにおられますか」と言いつつ、都の中を探したのでした。それにより、実際のヘロデ王の知るところとなり、お生まれになったイエス様が危険にもなるのです。占星術の学者たちは、救い主はベツレヘムにおられることを知り、都を出てベツレヘムへと向かうのです。すると再び導きの星が現れたということです。不思議に思うのは占星術の学者さんたちは星に導かれてやって来たのです。ところが都のエルサレムに入ったとき、導きの星は見えなくなったのでした。ということは、都エルサレムに入った占星術の学者さんたちは、自分の思いであったのです。星の導きを無視して、自分勝手に都に入っていったのです。新しくお生まれになった王様だから、都のエルサレムにおられると思ったのです。しかし、都を出たとき、再び導きの星が現れたのでした。ここに深い示しがあるのです。星の導き、神様のお導きに委ねて歩むのか、自分の思いで歩むのか、そのような導きを示されるのです。
 私たちもお導きの光が与えられているのです。しかし、ともすると自分の思いを優先してしまいますので、お導きの光を見失ってしまうということです。新しい年を歩み始めていますが、お導きの光を見失わないように歩みたいのです。前週の1月17日は阪神淡路大震災が起きた日でした。今年で22年目を迎えています。この大震災が起きたとき、全国の皆さんが救援に立ち上がりました。日本基督教団も救援対策室を設けて活動を始めました。大震災は関西地区であり、関西の兵庫教区が中心になって救援を推進しました。そういう中で、個人的に救援活動をする人々がありました。ある人は、いろいろな空き地にログハウスを建てて避難場所を展開していました。その人は大学の校庭にログハウスを建てるために、教授会におしかけていき、ナイフまで見せて要望に従わせようとしたのです。力ずくで自分の思いを実現しようとしたのです。地震が起こると、いつの間にかその事件を思い出しています。お導きの星に委ねるのか、自分の思いで歩むのか、今の自分に問いかけられていることなのです。

 旧約聖書イザヤ書9章1節からでありますが、8章の終わりに「ダビデの位」との表題があります。その関連での9章なのです。ダビデという王様は昔の人ですが、神様のお心にあって人々を治めましたので、後の人々もダビデに期待するのであります。今は暗い世の中でありますが、ダビデが再び現れて、世の中を平和に導いてくれるということです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように」と示しています。国の指導者がいても、人々の喜びになる方向は示さないことへの不安が募っています。その意味でもダビデの再来は喜びであるのです。人々は心から待望しているのです。5節、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生れた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は耐えることがない」というのであります。人々を導き、人々の中心となる人の到来を人々は待望していたのであります。神様こそ人々を導く方でありますが、現実の中心となるべき人間としての指導者を求めているのであります。
 どこの国も同じことが言えますが、中心となるべき人、アメリカでは大統領であり、日本では首相であります。今、アメリカは新しく就任したトランプ大統領に期待と困惑が入り混じっています。世界の人々も、不安をもって見つめているのです。それはアメリカばかりではなく、今年はいろいろな国々で指導者が変わろうとしていますが、正しい導きを求めているのです。神様のお心をもって国を治める人間が必要なのであります。しかし、人間は自分の心があり、人と人との絡み合い、あるいは国と国との絡み合いの中で、正しく神様のお心をもって国を治めることが困難になってくるのであります。聖書の王様達もそのような絡み合いで悩みました。だからこそ、人々はひたすら神様のお心により人々を導いたダビデを待望したのであります。

 マタイによる福音書は今朝のイザヤ書を引用します。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とイザヤ書9章1節以下を引用し、それが現実になりましたと証しをしています。マタイによる福音書4章17節、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記しています。旧約聖書イザヤ書においては、人々への励ましとしてダビデの存在を示したのであります。しかし、新約聖書はその実現を告知しているのであります。「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」はイザヤの時代もイエス様の時代も厳然として存在していたのであります。旧約聖書では預言でありますが、新約聖書は実現なのであります。暗闇と死の陰の地に天の国が到来したのであります。主イエス・キリストが現れたことは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであったと示しています。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と主イエス・キリストは福音を宣べ始められました。「天の国は近づいた」とはイエス様が現実に現れたことであります。天の国という場合、死んで天の国へ導かれると言うなら分かります。しかし、私たちが天の国へ行くのではなく、天の国が私たちの中に近づいているのであります。天の国が私たちの現実にあるということです。それは、私たちが主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことが、天の国を生きていることになるのであります。天の国は喜びであります。天の国は祝福の歩みであります。その喜びと祝福が現実の歩みの中にあるということであります。
 主イエス・キリストが十字架にお架かりになったのは、私たちの罪なる姿をなくすためでありました。持って生れている自己中心、他者排除の根本的な姿をイエス様が十字架によって滅ぼされたのであります。私たちが十字架を仰ぎ見るということ、私の罪なる姿を滅ぼされたイエス様の救いを信じているのであります。救いをいただいている私たちは、常に原点である十字架を出発点としています。社会における人間関係、私自身の生活、それらの原点はいつもイエス様の十字架でありますから、喜びへと導かれていくのであります。それが天の国に生きる姿なのであります。マタイによる福音書5章からは主イエス・キリストの「山上の説教」であります。その中で、5章3節以下は「幸い」について教えておられます。ここには九つの「幸い」が示されています。幸い、幸福と言えば、幸せや喜びを心に浮かべます。しかし、イエス様の示す「幸い」は私たちが心に思う幸福とは異なるのであります。「天の国」ということでは、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と示しています。さらに、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と示しています。マタイによる福音書は「幸い」として示していますが、これはイザヤ書61章に「貧しい者への福音」と題して預言が語られていますが、「幸い」の教えはこのイザヤ書が背景にあるのであります。「心の貧しい者」はまさに物質がなく、苦しい生活をしている人々です。それらの人々はただ神様を仰ぎ見るのです。苦しい社会に生きるとき、ただ神様を仰ぎ見ること、そこに天の国の喜びがあるのであります。「義のために迫害される人々」も神様のお心を持って生きるのでありますから、「天の国」はその人たちの現実にあるのであります。
 こうして主イエス・キリストは現実を「天の国」として生きるとき、喜びがあり、祝福があることを教えられたのでありました。

 ところで、主イエス・キリストは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、福音の宣教を開始されましたが、この言葉は洗礼者ヨハネが現れたときにも同じ言葉でありました。マタイによる福音書3章1、2節であります。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」と記されています。マタイによる福音書は同じ言葉をイエス様が言われているのであります。洗礼者ヨハネは主イエス・キリストより先に現れて、人々に悔い改めを迫りました。しかし、洗礼者ヨハネの「悔い改め」の宣教は当時の指導者により拒否され、殺されてしまいます。一方、主イエス・キリストの福音宣教も当時の指導者達に拒否され、十字架によって殺されるのであります。従って、マタイによる福音書は当時の社会、また指導者達が「悔い改め」を拒み、天の国の近づくことを拒否したことを示そうとしているのであります。しかし、イエス様の天の国は、確実に人々に近づいたのであります。そして、十字架により天の国が人々の現実となったのでありました。
 天の国に生きるお導きをあたえてくださったのがイエス様でした。人々が天の国に生きるために、十字架の死によってお導きくださっているのがイエス様なのです。従って、お導きに従うのは十字架を仰ぎ見るということです。そして、自分自身の歩みを悔い改めることなのです。お導きをいただくためには、私自身の罪の悔い改めがあり、そこに豊かなお導きがあるのです。大塚平安教会時代に菊池吉弥先生と出会いました。私は1979年に大塚平安教会に就任しましたが、間もなく菊池吉弥先生との出会いが与えられました。菊池先生は青森の五所川原教会等で牧会されましたが、東京の下谷教会の牧師を長く勤められました。そして下谷教会を退任されて大塚平安教会とは比較的近くにある高座渋谷で開拓伝道を始められたのでした。大塚平安教会は高座渋谷伝道所の親教会となり、開拓伝道が推進されたのでした。そのようなことで菊池吉弥先生と親しくなり、大塚平安教会は特別集会にお招きしています。
 その菊池吉弥先生を大塚平安教会の婦人会が婦人伝道集会の講師としてお招きしました。その中でお話しされたことは、今でも心に示されているのであります。先生はご自分の信仰に導かれる証をされたのであります。ある時、キリスト教の集会に初めて入ったと言われます。気になっていた集会であり、何か引き込まれるようにして入ってしまったそうです。夜の祈祷会であったようです。奨励の後、出席者がお祈りを順次していくのでありますが、初めて来た菊池青年に対して、「この罪人を救いたまえ」と一人の人がお祈りしました。すると、後にお祈りする人も「この罪人が」と祈り、「この罪人が」「この罪人が」と次々に祈られたと言うのです。初めて入った教会の集会で、みんなから「この罪人」と祈られたこと、そのときは不可解な思いでいましたし、何で自分を悪者にするのだと思いました。しかし、その後、「この罪人が」がと祈られたことが、信仰の原点になったと証しされたのであります。普通は自分を罪人とは思いません。それが教会に行ったら「罪人」と言われ、その意味に向かって導かれたのでありました。教会に行くと「罪人」と言われ、自分には罪はありませんので、もう教会には行かなくなるのであります。教会に行くと、「罪人」とか「悪人」と言われ、面白くないのです。確かに、社会的な悪いことはしていません。お巡りさんの世話になったことはありません。しかし、主イエス・キリストにより導かれるように、私たちには原罪があるのです。自己満足が常に他者を排除しているということです。イエス様はそのために十字架にお架かりになったのであります。「悔い改めなさい。天の国は近づいた」とイエス様の導きをいただきましょう。イエス様の教えの始まりは、天の国が近づいているので、悔い改めて、天の国にいるということなのです。
 十字架を見つめ、イエス様が私の中にある原罪を滅ぼされたことを信じ、イエス様の御心に従って歩むと決心をして洗礼を受けるのです。すると、十字架が導きの光になるのです。私の歩みの導きの光となってくださるのです。「お導きの光が与えられ」ているのです。お導きの光をいただきながら歩むとき、私たちは、この現実が「天の国」であるのです。天国は死んで彼方の国に入るのではなく、今が天国であり、祝福をいただきながら歩むのです。いよいよ天国を喜びつつ、日々の歩みを導かれたいのであります。お導きの光が十字架により与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。天の国を私たちの現実に与えてくださり感謝いたします。まず、悔い改めへと導いてください。主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。