説教「御心の働き人になる」

2017年1月15日、六浦谷間の集会
降誕節第4主日

説教・「御心の働き人になる」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書2章1-10節
    ヨハネの黙示録10章8-11節
    マタイによる福音書4章18-25節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・120「いざうたえ友よ」
    (説教後)494「わが行くみち」


 本日は1月15日ですが、以前は、15日が「成人の日」でした。しかし、今は連休とするため、第二日曜日の次の日の月曜日に設定され、今年は1月9日が「成人の日」でありました。その日のテレビは各地の「成人の日」のセレモニーを紹介したり、新成人の姿をいろいろの角度から紹介していました。今は世界的にもいろいろな恐ろしい事件が起きており、青少年までもが、いわゆるISと言われる過激組織に入っていると報告されています。次代を担う若い皆さんが、常に正しい判断が導かれることを願い、祈っているのです。私たちは、若い皆さんこそ、神様の御心を示され、イエス・キリストのお導きに従っていただきたいのです。私たちはイエス様こそ平和の根源であると信じています。従って、いつも神様の御心を求めて、礼拝をささげ、集いを開いては御心をいただいているのです。
 集いとしては、誠に少人数ですが、この六浦谷間の集会も御心をいただきつつ歩んでいます。先日、知人に六浦谷間の集会の週報を差し上げました。その方は、少人数でも、皆さんが集い、御心を与えられる場としての六浦谷間の集会を示され感動しています、との感想でした。クリスマス礼拝には11名の皆さんと共に礼拝をささげ、お祝いの集いを開きました。原則、いつもは夫婦二人だけの礼拝ですが、時には家族も、そして知人が出席され、この集会を喜んでおられるのです。私たちは、この六浦谷間の集会が、いずれは伝道所になり、教会になることは考えていません。とにかく、この六浦谷間の集会により、御心が与えられ、力をいただいて、新たなる歩みが与えられることを願っているのです。
 クリスマスには皆さんからカードをいただきました。その中に、外国の地で、少人数でありますが、礼拝をささげておられる皆さんのカードをいただき、そこには皆さんの写真があり、懐かしく拝見しました。そして、外国の地で、いつも御心をいただきつつ歩まれている皆さんを示されるのでした。スペイン・バルセロナには、バルセロナ日本語で聖書を読む会の集いがあります。私たちは、今まで2011年は一ヵ月半、2012年は二ヶ月、2014年は二ヶ月半間、娘の羊子の家で滞在しました。そのとき、聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげるお導きを与えられました。バルセロナ日本語で聖書を読む会は始められてから25年になります。集会は毎月一度開かれています。多くても10名、通常は6、7名の皆さんが礼拝をささげています。礼拝をささげ、食事の交わりがあり、この様な集いにより御言葉の歩みへと導かれているのです。スペインにはマドリッド日本語で聖書を読む会があり、そこの皆さんともお交わりが導かれ、共に礼拝をささげています。
 マレーシアにおられる皆さんからもクリスマスカードをいただきました。写真の皆さんを懐かしく拝見しました。マレーシア・クアラルンプール日本語集会のボランティア牧師として赴いたのは2013年3月から三ヶ月でした。毎週日曜日、現地の教会を借りての集会でしたが、いつも20名くらいの皆さんが出席されています。婦人会や若い皆さんの聖書の集い等も開かれました。マレーシアには半永久的に住んでいる皆さんがおられます。それと共に営業で一時的に在住している皆さんがおられます。それらの皆さんと共に礼拝をささげるのですが、営業で派遣されている皆さんは、日本に帰国されたり、他の国に転勤されたりします。ですから固定的な方は少ないのですが、一時的でも皆さんと共に礼拝の生活が導かれているのです。バルセロナの皆さんも同じです。現地の人と結婚している人の他は、一時的な皆さんでもあるのです。それでも在住している間は、礼拝をささげる喜びを与えられているのです。
 いろいろと少人数の皆さんの集いを紹介しましたが、ここに集う皆さんは「御心の働き人」なのです。神様のお心をいただきつつ歩んでいるからです。今朝は、「御心の働き人になる」ことを示されているのであります。

 今朝のテーマは「最初の弟子達」でありますが、「御心の働き人になる」として示されています。弟子になった人々を示されながら、私たちも弟子としての歩みを導かれたいのであります。旧約聖書はエゼキエルの召命について記されています。召命とは「命が召される」との意味であり、神様のお心に導かれて生きることであります。エゼキエルの召命については1章1節以下に記されています。「第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔にすんでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」と証ししています。つまりエゼキエル自身もバビロンに捕われの身であったということであります。捕われの状況の中で神様の召命があり、預言者として働くようになったのであります。今朝の2章1節以下に具体的にエゼキエルの召命の内容が記されています。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われます。もはや捕われの身であることから抜け出しなさいということであります。「自分の足で立ちなさい」と励まされます。人がどのように言っている、このように言っているということではなく、まず自分自身がしっかりと今の状況の中に立つということなのであります。そして、そのエゼキエルに神様は示します。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖達と同様わたしに背いて、今日この日に至っている」と言われるのであります。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに生きなければならなくなったのは、結局神様のお心に従わなかったからであります。その姿をはっきり示し、神様の御心に帰りなさいと示したのはエレミヤでありました。しかし、人々はエレミヤの言葉に従わず、自分達の思いを通したのであります。その結果がバビロンに滅ぼされるということでありました。
 反逆の人々に言いなさいと神様はエゼキエルに言います。「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」ということです。彼らが聞こうが聞くまいが語り続けなさいと示しているのであります。「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍(さそり)の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」と示しているのです。とにかく、相手がどのような姿勢を持とうとも語り続けること、それがあなたの使命であると示しているのであります。そして、語り続けるために、エゼキエルに力の基を与えるのであります。「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」と言われ、巻物が差し出されているのであります。その巻物には表も裏も文字が書き記されています。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であったといわれます。それは人々の悲しみと苦しみの声であり、それに対する御言葉の力でありました。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と言われます。「巻物を食べる」とは神様のお心をいただくということであります。神様のお心を食べることにより、力が与えられるのであります。

 新約聖書は主イエス・キリストの最初の弟子たちについて記しています。イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ペトロとアンデレが湖で漁をしているのを見られます。その彼らに声をかけました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるのです。彼らは魚をとる漁師ですが、人間をとる漁師にするというのです。彼らはその意味がわかってイエス様に従ったのか、定かではありません。しかし、イエス様は4章17節で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたとき、その時から人々の注目するところとなっていたでありましよう。従って、ペトロとアンデレが声をかけられたとき、イエス様の存在については知っていたと思われるのであります。この人が我々を弟子にしてくれるとの思いでイエス様に従ったのでありましよう。この後、イエス様はヤコブヨハネの兄弟にも声をかけて弟子に招いたのであります。最初のイエス様のお弟子さんは4人の漁師であったということであります。人間をとる漁師としての弟子への召命であったのです。
 ペトロは最初に弟子への招きをいただき、その後は死に至るまで弟子として歩むのであります。いろいろな失敗もありますが、基本的には主に従う姿でありました。聖地旅行をするとこのガリラヤ湖をも訪ねます。ペトロ達が漁師であったことからペトロの舟に乗ります。それは、ある意味では遊覧船ですからかなり大きな船でした。20人くらいは乗れる舟であります。舟に乗り湖の中ほどに舟が進められると、日本の国旗が挙げられ、「君が代」が流れてくるのであります。ガイドは日本人の女性であり、一緒に「君が代」を歌うことをうながし、自ら声を大にして歌っていたのであります。聖地旅行はツアーでありますが、皆クリスチャンであり、皆さんはさめた思いでガイドの歌う「君が代」を聴いていたのであります。舟から上がると食事の時間でした。名物のピーターズフィッシュという焼き魚を食べました。ペトロの魚というわけですが、淡白であまり油が乗っていない魚でもありました。ペトロが主の弟子として、今日に至るまでその名がたたえられているということであります。漁師はアンデレ、ヤコブヨハネもそうでありましたが、ガリラヤ湖ではペトロの名が今日まで語り伝えられているということです。主に従ったペトロの証しがそこからも示されてくるのであります。
 この後、イエス様はマタイを弟子にしています。9章に記されていますが、声をかけられてイエス様の弟子になった人たちを紹介するのは、この5人であります。そして、10章には12人の弟子の名簿が記されています。最初の5人の姿は分かりますが、後の7人については良く分からないお弟子さん達であります。イエス様の弟子に選ばれるということ、それはお弟子さん達自身が優れているとか、特別な賜物があったからとか、力があるとかで弟子に選ばれたのではありません。何でこれらの人たちが選ばれたのか、分かりません。しかし、これは主イエス・キリストの召命でありました。イエス様がそれぞれの人を招き、お弟子さんへと導かれたのであります。従って、彼らはお弟子さんに導かれながらも、極めて人間的な思いで従っていたのであります。そのお弟子さん達をイエス様は忍耐をもって導き、指導し、弟子としての歩みを教えられたのでありました。

 イエス様のお弟子さんたちは、イエス様のお心において選ばれたと示されました。そうすると、イエス様のお選びがないと弟子になれないのかと思います。イエス様のお弟子さんたちは、もちろん選ばれた皆さんですが、選ばれた者として、やはりイエス様を見つめ、教えられながら従ったのですから、自分の努力があったのです。選ばれるために努力することも私たちの務めなのです。私は日本聖書神学校で学びました。まあ、自分の学力で入ることができ、感謝しています。入学してから先輩や学生の皆さんの証しを示されました。ある先輩の証しです。その方は、神学校の試験に臨むために、地方に住んでいたのですが、いよいよ上京のおり、教会の皆さんが盛大に送別会を開いてくれたということです。試験を受けに行くのですが、合格すれば、そのまま寮生活になるのですから、教会の皆さんは祈りつつ送りた出してくれたというのでした。ところが試験は不合格でした。その先輩は、盛大な見送りを受け、試験に落ちたからと言って、このまま帰れないのです。それで、神学校の校長先生の家に行き、自分の事情を話しました。もう帰れないので、神学校が救ってください、とお願いしたそうです。校長先生はその熱意を受け止め、合格にしてくださったというのです。その先輩は、そのような証しをしながらも、「しがみついて伝道者になる」ことを後輩たちに話し、励ましてくれたのです。このようなお弟子さんものいるのです。「御心の働き人になる」こと、イエス様のお選びもありますが、私たち自身が御心に「しがみつく」ことなのであります。
 もう一人のお弟子さんを紹介しましょう。私が神学校に入ったとき、まあAさんと言っておきましょう。Aさんは2、3年先輩でした。私は6年間、神学校に在学したのですが、私が卒業するころ、Aさんはまだ在学しているのです。結局、10年は在学していたのです。
それでも卒業するや、教会の牧師として力強い働きをしていました。なかなか卒業できなくても、「しがみついて」イエス様のお弟子さんになり、御心の働き人になったのです。
 私たちが「しがみついて」も御言葉の働き人になるのは、イエス・キリストの十字架の救いをいただいているからです。この十字架こそ、イエス様が私の生まれながらの姿、自己満足と他者排除の姿を滅ぼされたということを、十字架によって示されています。私たちの生きる根源は十字架の主イエス・キリストなのであります。だからこの喜びを皆さんに教えてあげたいのです。その十字架のイエス様から示されるために、少人数ではありますが、礼拝をささげ、神様のお心をいただくのです。御心の働き人として、自らが十字架を仰ぎ見ることです。そして、共に礼拝をささげることです。
 外国に住んでいる皆さんの「御心の働き人になる」姿を示されましたが、世界のいろいろな国に、日本語で聖書を読む会があります。少人数ですが、集会を開いては神様の御心をいただいているのです。六浦谷間の集会も、「御心の働き人」として存在しているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。御心の働き人へと導いてくださり感謝いたします。少人数のそれぞれの群れを祝福してください。主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン。