説教「神様に愛されながら」

2017年1月8日、横浜本牧教会
降誕節第3主日

説教・「神様に愛されながら」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記上16章1-13節
    マタイによる福音書3章13-17節
賛美・(説教前)讃美歌21・367「偉大なみ神の」
    (説教後)478「どんなものでも」


 新年あけましておめでとうございます。もう、このご挨拶も少なくなりましたが、こちらの教会では月に一度、講壇に立たせていただいておりますので、本日のご挨拶になりました。本日は、あまり天候も良くありませんが、新年を迎え、毎日良いお天気がつづきました。私は年末に風邪を引いてしまいましたが、新年を迎える頃には回復しまして、早速、散歩を始めています。今年になって気がついたことですが、最近はお正月リースを飾る家が多くなっているということです。昔は門松を立てていましたが、今はあまり門松を立てている家を見かけません。その代わり、玄関にリースをかけている家が多いということです。最初、クリスマスリースかと思いました。我が家でも1月6日までクリスマスのリースを玄関に飾っていました。そんな思いでいましたので、散歩をしていると、玄関にリースを掲げている家が結構あるのです。よくよく見ると、それはクリスマスリースではなく、お正月のリースであることを知りました。クリスマスリースとお正月リースは明らかに異なりますが、今までクリスマスリースを飾っている家を見ていますので、なんか同じように見えるのでした。リースを飾ること、新年の期待と喜びを示されています。
 新しい年は、やはり、「今年こそ」との思いがありますので、新たなる思いで歩み始めています。私は時々、小さい頃の新年の喜びを思い出しています。小学生3年生の頃より、近くの教会の日曜学校に通い始めたことは、今までもお話ししていると思います。その後、4年生、5年生、6年生とほとんど休むことなく日曜学校に出席していたのです。毎年、クリスマスには精勤賞をいただいていたのです。小学校6年生の時でありました。11月頃になって、小学校のクラスの友達が、自分も日曜学校に行きたいというので、彼も一緒に連れて行ったのです。彼はハンサムで勉強もでき、クラスの級長であり、なんか嫌な予感がしていました。その頃、クリスマスも近くなってきたので、6年生クラスはクリスマス物語の劇をすることになったのです。そして、先生が劇の配役を発表しました。なんと11月頃から出席し始めた彼がヨセフさんの役なのです。私はといえば、ヨセフさんの大工仲間でした。何のセリフもなく、ただヨセフさんの周りを、ノコギリをもってうろうろしている役でした。日曜学校には3年生から出席しているし、当然、ヨセフさん役になると思っていたのですが、日曜学校に来たばかりの彼がヨセフさんなのです。先生を恨みました。もう日曜学校に行きたくないと思いました。それでもクリスマスにはヨセフさんの周りをうろうろしている大工仲間を演じたのでした。そういう嫌な思いがありましたが、母の励ましがありましたので、日曜学校に通い続けたのでした。そして、クリスマスが終わり、新年を迎え、日曜学校に出席しました。そうしましたら、彼はもう出席しないのです。彼が出席しなくなったということで、なんか、晴れ晴れとした思いの新年でした。
 今から思えば、日曜学校の先生は、新しく出席し始めた彼を励ます意味でも主役的なヨセフさんにしたのでしょう、と思っているのですが、そのときの挫折感は今でも忘れられないのです。新年と共に、彼が出席しなくなった日曜学校を喜んだ思い出がよみがえってきます。それにしても、彼はハンサムで、頭もよく、その彼をヨセフさんにした先生の取り扱いも、彼を導く意味でも必要なことでしたが、今でも理解できないでいるのです。
 なんか新年にあたり、恨み言を述べていますが、自分のことを示されているのです。このような私なのですが、神様のお導きをいただいているということです。神様から愛されている自分を、しみじみと示されているのです。神様に愛されているのですから、今、与えられている自分の歩みを、神様にお応えするつもりで、与えられた職務を担いたいと思っているのです。私たちは、神様に愛されている存在であるということです。

 旧約聖書はサムエル記上16章1節以下の示しであります。今朝の聖書はダビデの王としての選任であり、ダビデへの油注ぎが記されています。聖書の国、イスラエルの最初の王様はサウル王でした。しかし、彼は神様の御心から離れて、自分の思いで支配するようになり、神様は次なる王の選任を祭司サムエルに命じたのです。それが今朝の聖書です。 今朝のサムエル記上16章1節以下、「主はサムエルに言われた。『角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとへ遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した』」との示しを与えられます。「角に油を満たす」とは、おそらく牛の角を切って、その中に油を入れるということです。そして、王様とか指導者になる人の頭に油を注ぐのであります。油注がれた者は神様の御心として立てられた者なので、神様のお心によって人々を導くことが使命であります。それによって人々は平和に過ごすことができるのであります。従って、油注がれた者・メシアは「救い主」と言われます。メシアは人々を救うことが大切な使命になるのであります。
 さて、サムエルはベツレヘムのエッサイの家に行きます。まず、サムエルは一番上の息子エリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思います。ところが、神様はサムエルに言います。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われるのであります。その次の息子アビナダブ、その次の息子シャンマも神様の御心ではないことを知ります。エッサイは結局7人の息子をサムエルに引き合わせますが、いずれも神様の御心ではないことを知るのであります。「あなたの息子はこれだけですか」とサムエルが尋ねるので、エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と言います。サムエルはぜひその子を連れてくるように言いました。そして、サムエルが末の子、すなわちダビデを見たとき、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と言われます。その時、神様の声が聞こえ、このダビデに油を注ぎなさいと言われます。サムエルは早速、油の入った角を取り出し、ダビデに油を注いだのであります。「容姿や背の高さに目を向けるな」と言われていますが、結局、選ばれたダビデは「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」というわけです。この辺りの聖書を読むと、なんか、日曜学校の先生を思い出してしまうのです。「ダビデか選ばれた」だけで良いのです。ダビデは神様から愛されている者として、自覚を強め、人々を平和に導いたのでした。選ばれた者として、神様から愛されている者として、その愛に応えたのがダビデであったのです。

 そのことは、イエス・キリストもまた、神様に愛されていることが根底になっていました。新約聖書は、神様に愛せられているイエス様の歩み出しを示しているのであります。クリスマスにお生まれになったイエス様でしたが、時の王様ヘロデは新しく生れたという王なる存在を殺そうとしました。しかし、天使の導きのもとに、ヨセフはマリアと幼子を連れてエジプトへ逃れ、しばらく滞在することになりました。そしてヘロデ王が死ぬと、再びイスラエルに帰ってきますが、ガリラヤ地方のナザレの町に住むことになったのです。
 今朝は成人した主イエス・キリストヨルダン川で洗礼を授けているヨハネのもとにやってきたということです。そして、そのヨハネから洗礼を受けるのであります。ヨハネは主イエス・キリストより先に生まれ、そして先に人々の前に現れて、神様のお心をいただいて生きるように教えたのであります。ヨハネの宣教については3章1節以下に記されています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていたといいます。当時でも異様な姿です。その彼が人々に、「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と荒々しく人々に示したのでありました。その悔い改めのしるしとして洗礼を授けたのであります。そこへ主イエス・キリストも来て、洗礼を受けたのであります。洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、ではイエス様も罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と断る方向でした。それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後の4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。イエス様は、人々の前に現れるとき、神様から愛されていることをしっかりと受け止めたのでした。その愛に押し出されて、十字架の死に至るまで従順でありました。イエス様はゲッセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、すべては御心に委ねたのであります。神様に愛せられている者として、すべてを神様に委ねられたのでした。

 先ほどもヨセフさんに触れました。私はヨセフさんになれなかった脇役でした。私は今ではヨセフさんの脇役をうれしく思うようになりました。何よりもヨセフさん自身が脇役でありました。ヨセフさんとマリアさんに与えられた子としてのイエス様です。しかし、マリアさんが主役になるのは、マリアさんからイエス様が生まれたからでした。ヨーロッパのカトリック教会は、軒並みマリア教会です。いろいろなカトリック教会を見学しましたが、多くの場合、マリア教会でありました。一方、西洋の美術館を見学しますと、マリアさんの絵が圧倒的に多いということです。マリアさんと共にヨセフさんも描かれていますが、それこそマリアさんの周りでうろうろしているヨセフさんなのです。しかし、人々にとってヨセフさんは脇役ですが、イエス様が生まれて以来、マリアさんとイエス様を守ってきたのはヨセフさんなのです。イエス様が生まれて間もなく、ヘロデ王が生まれた赤ちゃんを殺しているというので、ヨセフさんは天使の導きのもとにエジプトへ逃れます。そこでどのくらい滞在したのかは定かでありませんが、ヘロデ王が死んだというので、マリアさんとイエス様を連れてガリラヤ地方のユダヤに住むようになりますが、ヨセフさんの責任においてマリアさんとイエス様を守ってきたのです。そして、大工をしながらイエス様を育てたのです。そういう意味ではヨセフさんは脇役ではありません。しかし、後の人々はヨセフさんを脇役にしているのです。脇役のヨセフさんですが、ヨセフさんは神様に愛されているという、信仰があったのです。婚約中のマリアさんから男の子が生まれることを天使から示されたとき、ヨセフさんはそのお導きをしっかりと受け止めたのであります。そこに神様から愛せられているとの信仰がありました。どのように人々から言われようとも、神様から愛されているとの信仰が、新しい事実を受け止め、歩みだしていったのです。ヨセフさんも脇役である自分を受け止めていたのでしょう。この脇役的な自分を神様が愛してくださっているとの信仰を、ヨセフさんから示されています。
 そのように示されるとき、サグラダ・ファミリア教会の存在をうれしく思っています。カトリック教会が、マリアさんの教会が多い中で、サグラダ・ファミリア教会はヨセフさんの教会なのです。サグラダ・ファミリア教会がヨセフさんの本山であることは、あまり知られていません。同教会の建設が始まるのは1882年であり、それも3月19日の「ヨセフの日」に着工されたのでありました。建設は民間のカトリック団体「サン・ホセ協会」であります。ホセとはスペイン語でヨセフです。ヨセフさんに心を寄せる民間団体であります。ヨセフさんの信仰を根拠にしている人々が新しい教会を建設したのです。サグラダ・ファミリア教会を日本語で言えば「聖家族贖罪教会」であります。贖罪とは主イエス・キリストが十字架により、人間の根源的な罪を救われたということであります。イエス様、マリアさん、そしてヨセフさんを含めた聖家族が人間を救われる教会がサグラダ・ファミリア教会なのであります。
今朝は旧約聖書ダビデ新約聖書のヨセフさん、そしてイエス様を通して、神様が愛されている信仰の証しを示されたのですが、私たちも神様から愛されている信仰を導かれているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)と示されています。私たちは神様から愛されているのであり、例えば、脇役的な存在でも、人目に付かない生き方でも、神様に愛されている者として、重要な存在であると示されるのです。そうであれば、自分勝手に、自分を卑下してはいけません。神様に愛されている者として、今与えられている歩みを、喜びつつ踏みしめていかなければならないのです。主イエス・キリストの十字架の救いこそ、神様が私たちを愛してくださっている印なのです。十字架を見つめましょう。神様の愛が、この私に迫っていることを示されるのです。十字架を見つめるほどに神様から愛されている自分を示されるのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。常に御心をくださり感謝します。常に祈りをささげ、新しい心を持って歩むことを得させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。