説教「僕として導かれる」

2021年3月21日、六浦谷間の集会

「受難節第5主日

 

説教・「僕として導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記25章27-34節

          ローマの信徒への手紙8章1-11節

          マタイによる福音書20章20-28節                 

賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄の主イエスの」

           (説教後)484「主われを愛す」

 

 本日は2020年度の六浦谷間の集会としては最後の礼拝です。次週の28日は三崎教会に招かれているからです。この六浦谷間の集会は2010年の11月から始めていますので、もう10年を経ています。2010年3月に30年間勤めた大塚平安教会牧師、ドレーパー記念幼稚園の園長を退任しましたが、その4月からは横浜本牧教会の牧師、付属の早苗幼稚園の園長に就任しました。しかし、その務めは暫定的であり、9月をもって退任しました。従って、10月からはどこの教会にも属さない無任所牧師になりました。退任したばかりですので、私たち夫婦の出身教会の礼拝に出席したり、大塚平安教会や横浜本牧教会の牧師就任式があり、その日の礼拝に出席したりしていたのでした。その後どうするか、どこの教会に出席するか、何時も夫婦で話し合っていたのです。その時、導かれたことは、私は現役を退任しても、毎週の説教を作成し、インターネットで公開していましたので、説教は準備されていますし、牧師と信徒がいるのだから、二人で礼拝をささげてもよいのではないかということでした。それで始めたのが六浦谷間の集会でした。2010年11月28日からであります。二回目の集会には近くの追浜の地にお住いの小澤八重子さんと田野和子さんが出席されました。小澤さんは大塚平安教会の近く、座間市の立野台にお住まいでしたが、高齢となられたので追浜に住まわれる娘さん家族と共に住むようになったのです。田野和子さんは浜松にお住まいでしたが、相鉄線の希望が丘付近に住むようになり、大塚平安教会に出席されるようになったのです。浜松では私の知人の小林眞牧師の教会に出席していたのです。そして、紹介されて大塚平安教会に出席されるようになったのですが、私たちが退任したことで寂しく思われていました。それで、六浦谷間の集会に出席されたのでした。その後、小澤さんは召天され、葬儀の司式をさせていただきました。また、田野さんは北海道に帰られたのでした。当初はそのような歩みでしたが、その後、家族や知人が時には出席するようになり、そして今は新型コロナウィルス感染予防があり、諸教会は困難な状況ですが、この六浦谷間の集会のお導きを感謝しているのでした。主の僕として、いかなる状況でも礼拝を捧げつつ歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書は創世記25章27節からであります。エサウヤコブの兄弟争いが記されています。アブラハムが民族の最初の人でした。その子どもがイサクであります。そのイサクにエサウヤコブの双子が生れました。エサウは巧みな狩人で野の人となったといわれます。ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで過ごすのを常としたということです。この二人に対して父親のイサクは兄のエサウを愛したのであります。エサウが狩をして持ってくる獲物を喜んでいたのであります。それに対して母親のリベカは弟のヤコブを愛したのでありました。ある時、ヤコブが煮物をしていると、兄のエサウが疲れきって野原から帰ってきました。エサウヤコブに「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせて欲しい。わたしは疲れきっているんだ」と頼みます。すると、弟のヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」というのです。それに対してエサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言います。「では、今すぐ誓ってください」とヤコブが言うので、エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまうのであります。長子の権利は、その家を継ぐものであり、受け継ぐ財産は他の兄弟に対して二倍なのであります。ヤコブにとって双子として生れてきましたが、自分が弟の身分にならなければならなかったことは、何とも残念というより、悔しい思いでいたのであります。

 ここでヤコブは兄から長子の権利を奪い取ってしまいますが、しかし最終的には父からの祝福がなければなりません。父の祝福をいただいて初めて後継者になるのであります。そのことはこの後の27章に記されています。父のイサクがエサウに対し、「祝福の儀式をするから、狩をして獲物を取り、おいしい料理を作りなさい。それを食べてから祝福を与える」と言っているのを母のリベカが聞きます。そして、エサウが狩に行っている間に、ヤコブにおいしい料理を運ばせ、イサクに食べさせ、祝福を与えられるのです。イサクは年を取り、目がかすんでエサウヤコブかも分からなくなっていたのであります。ヤコブが祝福を与えられた後にエサウがやってきます。父の言いつけのおいしい料理を持ってくるのですが、父イサクは既に祝福は与えているといいます。ヤコブに騙されたと思うエサウですが、自分にも祝福を与えてくださいと願います。しかし、祝福は一度かぎりであるといわれるのであります。この後、ヤコブは兄エサウの怒りから逃れて母の兄、伯父さんのもとに逃れていくのであります。

 物語はそこで止めておきますが、ヤコブが祝福を大事にしたことが聖書の主題であります。長子の権利も同じであります。アブラハム、イサク、そしてその後に続く者が大事なことであります。神様が選んだ民族です。神様のお心を受け継ぐものとしての生き方であります。人間的な思いでいたエサウが失格したということです。祝福を大事にし、神様のお心を担っていくヤコブの姿勢は、霊の思いでありました。人間的な思いなのか、霊の思いなのか、エサウヤコブ物語はそのことを示しているのであります。ヤコブは狡猾に生きていきますが、民族を担っていく使命があるからこそ、自分が霊の思いをしっかりと担ったということなのです。人間的な思いは父のイサクがエサウに希望を持ったことでありました。たくましく生きているエサウこそ民族を担う者だと思っていました。それに対する弟のヤコブは弱すぎると思ってもいたのです。今、私たちは神様の霊の思いなのか、人間的な思いなのか、その生き方が問われているのであります。

 今朝の聖書は「そのとき」と記しています。「そのとき」とは、イエス様が死と復活を述べた後にすぐのことであります。本日の聖書の前の部分は、イエス様が三度も死と復活を予覚しています。もうすでに二度ほど死と復活をお弟子さんたちにお話をしているのです。その受難と復活のお話をしているのに、お弟子さんの中にゼベダイの息子、ヤコブヨハネがいますが、彼らの母親がとんでもないことをイエス様にお願いしたのでした。ヤコブヨハネ、彼らはペトロとアンデレが漁師であったように、彼らも漁師でありました。その二人にイエス様が声をかけられ、お弟子さんへと導かれたのでありました。そのヤコブヨハネの母親が二人の息子と共にイエス様のところへ来まして、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願うのであります。弟子達のイエス様に対する考え方として、これまでも示されてきました。すなわち、イエス様をメシア、救い主として信じていますが、そのメシアは極めて人間的な救い主でありました。イエス様が王様のような権威と権力を持つようになるということです。ですから、この方に従うことは、必ず自分達の栄光になるということなのです。今、ヤコブヨハネの母親が願っているのは、人間的なメシアへの希望でありました。それに対して、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と尋ねました。彼らは何もわからないままに「できます」と答えたのであります。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と示されたのでありました。

 これを聞いたほかのお弟子さんたちはヤコブヨハネに対して腹を立てたと記されています。その時、イエス様は「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と教えられたのです。そして、イエス様ご自身が僕として来られたと示しています。僕となるために十字架への道を歩まれたのでした。十字架はイエス様が私たちに仕えて下さる場所であり、その場所が私たちを救いへと導いてくださるのです。

4 

 主イエス・キリストが十字架への道を示した直後に、お弟子さん達の右大臣、左大臣にしてくださいとの願いは、極めて人間的な思いでありました。この十字架に救いがある、との信仰が、霊の思いであります。霊の思いは永遠の命へと導かれていくのであります。今朝のローマの信徒への手紙8章6節、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と示しています。十字架を飾り物と思うのは肉の思いであります。救いの原点と信じることが霊の思いであります。いよいよ十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。この困難な状況の社会でありますが、主イエス・キリストは厳然とこの状況の中に立ち給うて導いてくださっているのです。イエス様の僕として導かれているのです。

<祈祷>

聖なる神様。私達は十字架により希望が実現されています。十字架の救いを真実いただいて歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com