説教「救いの時が来たので」

2018年9月23日、三崎教会 
聖霊降臨節第19主日

説教・「救いの時が来たので」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記32章23-33節
    マルコによる福音書14章32-42節
賛美・(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」、
    (説教後)讃美歌21・474「わが身の望みは」


 日本では、本日は「お彼岸」ということで、仏教の皆さんの姿勢を示されます。今日はまた「秋分の日」であり、これからは日が短くなっていくのでしょう。お彼岸は前後3日、計7日間をお彼岸というそうです。もともと「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である「此岸(しがん)」にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち「彼岸」(ひがん)の境地へ到達することが出来るというものです。いわゆる「お彼岸」にお墓参りすることで極楽浄土へ行くことができるということであります。それは、先祖のよき姿を示されて、正しい道が導かれるということではないでしょうか。「彼岸」は「日願」から来ているとも言われています。日々、彼岸を願いつつ生きるということなのです。
 今年は9月23日が「お彼岸」ですから、前後3日間ずつ7日間です。ですから今週は26日まで「お彼岸」が続いているということです。仏教の「お彼岸」は極楽浄土への思いを深めることになりますが、キリスト教では永遠の生命への信仰と言うことであり、その思いは重なることになります。しかし、仏教の場合は、今の「お彼岸」の時期に極楽浄土への思いを深めるのであり、春の「お彼岸」を除いては、日々の生活の中で極楽浄土への思いは薄らぐということになるでしょう。その意味では、キリスト教は日々の生活において「神の国」に生きることが願いであり、また「神の国」に生きる喜びを与えられているのです。昔、聞いた落語の中で、「なんまいだ、なんまいだ、死んでも命がありますように」と言いながら生きている人のことを面白く語っていました。「死んだら命はありません」と落語が言っているのですが、だから笑いを誘う訳です。しかし、死んでも命があるということは人間の素朴な願いなのです。極楽浄土にしても永遠の生命にしても、人間が死にゆく者として、平安を与える教えとなるのです。
 私達は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、日々の生活の中で主の御心を実践して歩むことにより、現実が神の国としての歩みが導かれ、そのまま永遠の生命に導かれて行くという信仰を持っているのです。キリスト教は日々神の国に生きるものですから、毎日が永遠の生命をいただいているのです。「お彼岸」と言うことで、私達も一層、主の道を歩むことを示されるのであります
 9月23日は秋分の日であり、これからは日がだんだん短くなっていきます。今でも午後6時頃は暗くなっています。この時、主イエス・キリストの言葉が意味深く示されてきます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(ヨハネによる福音書9章4節)。この言葉はイエス様が生まれつき目の見えない人を癒す時に言われた言葉です。人間は誰もが日のあるうちに働き、働くことができない夜に備えることを教えているのです。神様の御心を喜びつつ行いなさいと教えています。これからは日が短くなっていくのです。神様の御心を行う時間が少なくなっていくのです。そういう意味合いにおいて、今後の主の道を歩みたいと願うのであります。
 私達の日々の歩みは、神の国を生きて行くことですが、神の国に生きるには、いろいろな状況を受け止め、重荷となりますが、私の十字架として背負っていくことです。主の道を生きるということは十字架を背負いつつ生きるということであります。私の十字架は何か、その十字架を共に担ってくださるイエス様に導かれたいのであります。

 旧約聖書は創世記32章23節以下、ヤコブの召命が示されています。「ペヌエルでの格闘」と題されていますが、この格闘を通してヤコブがみこころに従う者へと導かれていくのであります。ヤコブは聖書でも初期の人でありますが、極めて人間的に生きた人であります。その意味でヤコブを批判したくなりますが、しかしヤコブはこの私の自分の姿であると示されるのであります。聖書の最初の人物はアブラハムであり、ついでイサクに継がれ、そしてヤコブの時代になります。ヤコブはイサクの双子の子どもとして生まれますが、弟になります。ヤコブは自分が弟であることが面白くなく、兄エサウから兄の権利を奪ってしまうのであります。兄の怒りから逃れるために、ヤコブは母の兄ラバンのもとに逃れる事になります。ここで平和な生活をすることになりますが、伯父さんの羊を飼う仕事は、いくら働いても自分の財産とはならないのであります。そのため、伯父さんの羊とは別に、自分の羊を飼うようになり、それも随分と多くの羊を飼うようになるのであります。このこともヤコブの人間的に巧みな生き方でもありました。ヤコブは、年月を経ていよいよ故郷に帰ることにしました。しかし、故郷には騙した兄がおり、その兄のもとに帰ることの危険がありますが、やはり故郷へと帰って行くのであります。故郷を前にして、ヤコブは兄エサウへ沢山の贈り物を届けさせました。そして、明日は兄エサウとの再会というとき、ヤコブは家族や僕たち全員をヤボク川の向こうに渡します。そして、その夜は一人ヤボク川のこちら側で夜を過ごすことにしたのであります。
 そこで今朝の聖書になります。もはや夕刻でありますが、ヤコブが一人でいると、何者かが現れ、ヤコブと格闘をしたと言うのであります。その辺りは詳しく記されません。一晩中格闘したと記しています。「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」と記しています。するとヤコブと格闘している人は「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言いました。するとヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言いました。すると、格闘していた相手は、ヤコブの名を確かめ、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言われたのでありました。
 ここに示されていることは、何かよく分からない面があります。ヤコブと闘った相手は神様であるということは、ヤコブ自身が分かるようになります。そして、自分と闘っている存在が神様であるとき、ヤコブは相手に祝福を与えてくれるまで離さないと言いました。まさに、今まで人間的に狡猾と思える生き方でありました。今までは人間に対しての生き方でありましたが、今まさに神様と向き合うことになったということであります。人間ではなく、神様に向くとき、神様の祝福をいただかなければならないのであります。イサクの双子として生まれ、弟であるので家を継ぐことはできません。家を継ぐのは兄であり、父からの祝福をいただかなければなりません。ヤコブは兄をだまし、その祝福を狡猾な手段でもぎ取ってしまったのです。人間に対しては祝福をもぎ取ることはできました。しかし、神様の祝福はもぎ取ることはできないのです。だから、「祝福を与えてくださるまで離さない」というとき、「みこころに適うことをさせてください」と願っているのであります。そのように願うヤコブに、神様は「お前の名はなんというか」と尋ねます。「ヤコブです」とはっきり答えているのであります。ヤコブが自分の名は「ヤコブです」と答えたとき、それまでのヤコブの生き方がありました。人間的に狡猾に生きてきたヤコブです。自分の望む通りの生き方でありました。「ヤコブです」と答えたヤコブは、自分の人生のすべてを神様に申し上げたのであります。こういう私ですが、みこころに適うことを、させてくださいと願っているのであります。そのようなヤコブでありますが、神様はヤコブに御心を示しました。ヤコブは、もはや個人ではなく、イスラエル国家の中心になって行くのであります。神様のみ心に適うことを求め、また実践する者へと導かれていったのであります。そう、ヤコブに「救いの時が来たので」、もはや今までのヤコブではなく、御心を求める存在へと導かれたのでした。

「救いの時が来たので」と示しているのは主イエス・キリストであります。マルコによる福音書14章32節以下はイエス様が「ゲッセマネで祈る」ことが示されています。もはや主イエス・キリストの十字架の救いの時が、目の前に迫っている状況であります。マルコによる福音書は1章15節でイエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、宣教を開始しました。そして、ガリラヤで伝道を始められたのであります。まず、4人の人をお弟子さんにしました。シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネであります。汚れた霊に取りつかれている人をいやし、多くの病人をいやしました。さらにお弟子さんを加え、12人のお弟子さんと共に神の国の実現のために伝道されたのであります。そのイエス様の前に立ちはだかり、イエス様の伝道を批判するのは、時の社会の指導者達、律法学者やファリサイ派の人々でした。イエス様はユダヤ教の宗教社会の中で、新しいキリスト教を広めていったというのではなく、神様のお心に導かれ、現実を神の国として生きるということでありました。しかし、人々は主イエス・キリスト神の国の福音を示されながらも、現実を神の国として生きることができなかったのであります。神様は人々の自己満足、他者排除をお救いになるために、旧約聖書以来、戒めを与え、預言者を通して教え導いて来ましたが、人間は救われない存在でありました。ついに神様は主イエス・キリストにより救いを完成させるのであります。主イエス・キリストの十字架による贖いであります。人間の自己満足による他者排除を十字架により滅ぼされることでした。主イエス・キリストは神様の御心を知ります。神の国の実現のために伝道を致しますが、救いの原点がない限り人間は救われないことを示されるのであります。ご自分が十字架にお架りになることであります。神の国の福音を述べ伝えながらも、十字架の道を踏みしめて進むことになるのであります。そして、ご自分が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とお弟子さん達にお話するようになりました。このことは三度もお弟子さん達にお話致しますが、お弟子さん達はその都度、「そんなことがあってはなりません」とイエス様に進言したりしていました。その救いの時が迫ってきました。
 今朝の聖書はイエス様の救いの時、十字架の救いの時が間近に迫ったことが記されているのであります。マルコによる福音書14章は、イエス様がお弟子さん達と最後の晩餐をします。そこで記念となる聖餐式の原型をお示しになりました。そして、食事の後、お弟子さん達と共にゲッセマネというところに参りました。イエス様は、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、少し離れたところでお祈りするのであります。イエス様は地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにお祈りされたのであります。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください」とお祈りします。イエス様は一人の人間としてこの世に現れているのです。苦しいことは同じように苦しいのです。死にゆくこと、苦しみつつ死ぬことの恐れはあるのです。いよいよ、この時が来たのです。この時を見つめながら、神の国に生きる喜びを人々に示されてきたのです。しかし、ご自分の十字架の贖いがない限り、人々が神の国に生きることは実現できないのです。いよいよ、その時になりました。「この苦しみを過ぎ去らせてください」とお祈りしています。しかし、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とお祈りされています。神様の御心のままにしてくださいとお祈りしているのであります。すべてを神様に委ねておられるのであります。このことにより、「救いの時が来たので」あります。
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 「救いの時が来たので」家族がみな救われた、そのような記録が聖書にいくつか記されています。まずヨハネによる福音書4章に、イエス様がカファルナウムに来たとき、王様の役人が、息子が死にそうなので助けてくださいとお願いします。その熱心な求めにイエス様は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのです。その役人が急いで家に帰ると死にかかっていた息子は生きる者へと導かれていたのです。それにより、その役人も家族もこぞって信じる者になったと証しています。使徒言行録16章には、紫布を商うリディアという婦人が、パウロの話しを聞いていたのであります。リディアはパウロの話しを信じました。話というのはイエス様の十字架の救いであります。イエス様は人々をお救いになるために十字架にお架りになり、人々の中にある自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。イエス様が人々の救い主であることをパウロは話したのです。そこには、他にも大勢の婦人たちがいましたが、リディアは心から信じました。そして家族にもイエス様の十字架の救いを示し、家族全員で洗礼を受けたのであります。その後、パウロは捕らえられて投獄されます。すると天使の導きですべての牢屋の扉が開かれるのであります。それを知った看守は、自分達の責任として自殺しようとするのです。しかし、牢の中にいたパウロは、看守に対し「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と言い、牢からは誰も逃げていないことを示すのでした。その牢の看守はパウロに、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねます。その時、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」と示したのです。看守も家族もみな洗礼を受けたのでした
 「救いの時が来たので」、私たちは十字架のイエス様を信じ、洗礼を受ける者へと導かれたのです。いつまでも救いの出来事を見ているのではなく、救いの中に身を置きたいのです。「救いの時が来たので」、救いの中に身を置くことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えられて歩むことができ感謝致します。救いの時が来ていることを確信させてください。主イエス・キリストによりおささげします。アーメン。