説教「新しい存在ヘと導かれ」

2023年10月29日、三崎教会

「降誕前第9主日

                      

説教・「新しい存在へと導かれ」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記1章1-5節

   ヨハネによる福音書1章1-5節

賛美・(説教前)讃美歌21・425「こすずめも、くじらも」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 今朝は10月の最終の日曜日になり、次週からは11月の歩みとなり、次第にクリスマスが近づいたことを示されるのであります。教会の暦も、日本基督教団の暦になりますが、今日からは降誕前主日としての歩みが始まります。すなわち今までは聖霊のお導きをいただきながら信仰の歩み、証の生活をしていましたが、これからは主イエス・キリストが世に現れることを心にいただきつつ歩むのであります。

 主イエス・キリストがこの世に現れるのは、世の人々を十字架の贖いによってお救いになることであります。十字架の救いは私達を新しい人間に造り変えてくださるのです。人間は生まれたままの姿は、極めて自己中心的であり、他者排除の姿をもっています。絶えず自分の思いに振り回されながら生きることになるのです。しかし、十字架の贖いをいただくことにより、自分を超えた、神様の御心をいただいて生きることになるのです。主イエス・キリストが教えてくださった「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との生き方へと導かれるのであります。クリスマスを示されつつの歩でありますが、十字架への道を歩むためにイエス・キリストはお生まれになられたのであります。クリスマスは十字架への導きなのであります。クリスマスでありますが、十字架の主イエス・キリストに重きを置くのが西洋の歴史でもあります。数年前にパリの三大美術館を訪れました。聖画と言われるキリスト教の絵画が多数展示されていました。もちろんクリスマスに関する絵画も多く展示されていましたが、主イエス・キリストの十字架に関わる絵画が圧倒的に多いのです。これでもか、これでもかと言われるほど、イエス様の十字架の絵画が展示されているのです。歴史において、クリスマスは大切なお恵みのときなのですが、イエス様の十字架の贖いこそ、人間を新しい存在へと導く原点であることを、絵描きの皆さんは信仰をもつて描いているのです。

 クリスマスと十字架を切り離すのではなく、一体であると言うことです。十字架の贖いを与えるために主イエス・キリストは世に現れたのであります。そして十字架により新しく創造し、祝福の歩みへと導かれるのです。

 十字架が私達を新しく創造するのですが、もともと宇宙万物をお造りになられたのは神様であります。旧約聖書のはじめは創世記でありますが、そこに神様が天地を創造されたことが記されています。天地を創造されたのは神様であると言えば、非科学的であると批判されます。箱根の湯本に地球博物館があり、古代の動植物が展示されており、これらが進化して現代になることを示しています。しかし、人間は太古を遡れば遡るほど、天地の始まりについて言えなくなるのです。やはり神様が天地をお造りになったと言わざるを得ないのです。もっとも、創世記の天地創造をもって、天地が始まったというのは非科学的と指摘される通りです。しかし、創世記は天地の意味、人間存在の意味を深く示しているのであり、信仰をもって示されるならば、まさに大きな指針となるのであります。

 創世記1章1節以下、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されます。このような状況を、もちろん見たというのではありません。信仰をもって記しているのです。その何が何だかさっぱり分からない状況に神様が言葉を与えるのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一日の日である」と記しています。この後も神様は言葉を与え、「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ」と言われて、大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けられた。つまり古代の人たちは大空の上にも水があると考えたのです。水を支えているのは雲です。雲が破れて雨となるのです。さらに神様は言葉を与え、陸や海、動物、植物等を造られ、そして最後に人間を造られたのでした。人間が造られた時、神様は人間を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」と言われました。つまり人間は神様がお造りになった創造の世界を支配し、管理する使命を与えられていると創世記はメッセージを与えているのです。

 創世記のメッセージは、神様の言葉が形あるものになると言うことです。何が何だか分からない状況に神様の言葉が与えられる。形あるものが導かれて来ると言うことなのです。この社会、特に最近の災害を思う時、あるいは大雨による洪水や土砂崩れの災害を思う時、一体どうなっているのかと思います。混乱した世界になった時、だからこそ、神様がこの社会に御言葉を与え、導いてくださっていることを示されるのであります。

 太古の神話の世界を信じて、現代が歩めるのかと思うでしょうか。太古ではありません。神様は、たった2000年前に主イエス・キリストをこの世に出現させ、人間をお救いになっているのです。何万年前と言うのではなく、わずか2000年前なのです。決して遠い太古の時代ではないのです。ヨハネによる福音書は、マタイによる福音書ルカによる福音書のように、イエス様のお生まれになる状況、降誕物語は記していません。マタイやルカによれば、イエス様はヨセフとマリアの子として、聖霊によって生まれたと証しています。その後は青年期が一部記されますが、30歳になられた頃に世の人々に現れ、神の国の福音を宣べ伝えられるのであります。しかし、ヨハネによる福音書はマタイやルカのように降誕物語は記しません。神様の言葉として現れたと証しています。しかも、「言葉」ではなく「言(ことば)」としています。「言葉」は人が話をすれば、いろいろなことを言うので、葉っぱのようにたくさんになるわけです。しかし、イエス様は「言」として現れたのです。

 ヨハネによる福音書1章1節以下、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。「言」と言われていますが、「言」を「イエス・キリスト」と読み替えればよろしいわけです。イエス様のこの世に現れた意味を示しているのです。ここで言われているのは、創世記において神様の言が天地を創造されたのでしたが、「言」すなわち主イエス・キリストはそこで創造されたのではなく、もともと神様の存在であり、造られたのでは無いということです。その「言」がイエス・キリストとして2000年前に、この世に現れたと示しているのです。この主イエス・キリストが世に現れ、神の国の福音を示し、十字架の贖いによって人間をお救いになったのであります。主イエス・キリストの十字架によって、人々は新しく創造されるのです。私達の内面的な所にある自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたことを信じるのです。イエス様がこの私をお救いくださったことを信じることにより、私が新しく創造されたということなのです。 

 主イエス・キリストにより、私達は「新しく造られる」のであります。新しくなるということは、古い姿を脱ぎ捨てると言うことです。古い姿とは生まれたままの姿です。自己本位に、自分中心に、他者を排除しつつ生きる姿なのです。これは人間として生まれながらの姿です。人間は成長と共に、切磋琢磨され、生まれながらの姿を修正しつつ生きることになります。それは教育において、人間関係において学んでいくのです。しかし、人間は自分を超えての生き方は、なかなか困難であります。どうしても自分中心になるからです。この時、イエス様が十字架において、私の中にある自己中心を滅ぼしてくださったことを信じるとき、私達は新しく造り変えられるのです。この十字架の信仰は、私達の一生の信仰となるのです。常に十字架の原点に戻されて、新しく造り変えられるのです。主イエス・キリストは「神様のお言葉の実現」なのです。祝福の人生となるのです。

 信仰に生きる皆さんのお証しを示されるとき、多くの皆さんは、聖書の言葉に励まされ、イエス様のお言葉に導かれていると言われます。マタイによる福音書11章28節のイエス様のお言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われています。本当に安らぎを与えられたと皆さんは申しています。このようにイエス様のお言葉は希望と力を与えられるのですが、イエス様から叱られることで励まされたという方もおられます。イエス様のお弟子さん達が最後の晩餐をして、その後、イエス様はペトロ、ヤコブヨハネを連れてゲッセマネの園に行きます。そこで、イエス様はお祈りをするのですが、少し離れたところで三人のお弟子さんは待っています。そのうち、お弟子さん達は寝てしまうのです。そこへイエス様がやってきて、「あなたがたは一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。」とたしなめられるのです。この聖書にいつも励まされていると言われる方もおられます。イエス様がいつも私に注意を与えてくださっているということです。希望の言葉に励まされますが、イエス様が私をたしなめてくださっていると言うことも、「新しい存在ヘと導かれ」ているのです。聖書はイエス様により私達を新しい存在へと導いてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。新しく造り変えてくださり感謝致します。救いの十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。キリストの御名により祈ります。アーメン。 

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