説教「神の国に生きる喜び」

2023年11月5日、六浦谷間の集会

「降誕前第8主日

                      

説教・「神の国に生きる喜び」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記3章1-15節

          ローマの信徒への手紙7章7-13節

          ヨハネによる福音書3章16-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・57「ガリラヤの風かおる丘で」

           (説教後)賛美歌21・303「丘の上の主の十字架」

 

 今朝は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定められています。今は天におられる方々と地に生きる私たちが共に神様を礼拝しているのであります。そして、今は天にある人々が信仰に力強く生きられて証を残されたように、私達もやがて天に召される者として、信仰の歩みをいよいよ踏みしめたいと願うのであります。

本日は11月5日ですが、前週の10月31日は宗教改革記念日でありました。今朝は宗教改革の意義を深く示されたいのであります。宗教改革記念日と申しますと、この日によってプロテスタント教会が存在するようになったのです。それまでの教会をローマ・カトリック教会と称しています。カトリックと言うのは「公同教会」と言う意味です。プロテスタントと言うのは、「プロテスト」、「抗議した」と言うことです。今までのカトリック教会に抗議してできたのがプロテスタント教会と言うことになるのです。16世紀にプロテスタント教会ができたのですが、まだ500年の歴史です。それに対してカトリック教会は紀元313年にキリスト教が公認されてからの歴史だとすると、1300年の歴史を歩んでいたのです。

カトリック教会に対して抗議してできたのがプロテスタント教会なので、今もキリスト教でも仲が悪いのかといえば、そうではありません。今は、お互いの信仰を尊重して歩んでいます。今は新共同訳の聖書を用いている教会が多くなっています。新共同訳聖書はカトリックプロテスタントが共に訳した聖書です。今までは別々に発行された聖書ですが、一つの聖書になったのです。その場合、固有名詞に問題がありました。今まで、カトリック教会は「イエズス・キリスト」でした。それに対してプロテスタントは「イエス・キリスト」と称しています。この固有名詞は他にもありますが、カトリック教会が譲歩したのです。すなわち、社会的にも「イエス・キリスト」が浸透しているので、新共同訳聖書は「イエス・キリスト」にしたのでした。こうしてカトリック教会、プロテスタント教会はお互いの信仰を尊重しつつ歩んでいます。中心はイエス様の十字架の救いなのです。人間的な都合で宗教的に争うのではなく、十字架の救いに原点を置きたいのです。

 ルネッサンスの時代に触れましたが、堕落すること、本来の道から外れること、これは人間が根本的にもっている罪があるからです。その罪とは自己満足であり、他者排除というものです。人間は存在が始まった時から、罪なる姿をもっていたのです。聖書の旧約聖書、創世記3章は人間の原罪を示す聖書です。人間の根本的な罪を示しています。

 聖書は人間創造を記しています。創世記2章7節に記されます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と示しています。ここでは神様が粘土で人の形を造る。しかし、まだ人間ではない。その土の形の顔の鼻に神様の息を吹き入れた。すると人間は生きる者になったと記しているのです。すなわち、人は神様の「命の息」をいただいて生きた者として存在するのですが、その神様の「命の息」から離れ、人の思いに生きるとき、罪が生まれてくることを聖書は示しているのであります。

神様はアダムを造り、そしてエバを造りました。そして、二人をエデンの園に住まわせられるのであります。そして「園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じたのであります。二人は神様の戒めを守りつつエデンの園で過ごしていました。ある日、最も賢い蛇が現われ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と二人を誘惑するのです。二人は今まで神様の戒めだからと、禁断の木には近づかなかったし、忘れてもいたと思われます。しかし、改めて「そうなの?」と聞かれると気になるのでした。そして、改めてその木を見ると「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。神様の「命の息」をいただいているのに、それはどこかに行ってしまい、今は自分の満足をさせることが優先されているのです。食べること、美しいこと、賢いこと、人間の根本的な願いなのであります。これらの人間の欲望を満たすために、つい人を押しのけてしまうのです。人を切り捨ててしまうのです。これが人間の原罪であると聖書は示しているのです。結局、旧約聖書は神様のお心に生きることができない人間の歴史を記しています。神様の「命の息」を保つために十戒が与えられ、あるいは預言者を通して御心を示されましたが、常に人間は欲望に走ってしまうのでした。

神様はそのような弱い人間でありますが、人間をあきらめません。人間が永遠の神の国に生きることができるように、御子イエス・キリストをこの世に出現させたのであります。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節以下に記される神様のお心に希望が与えられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。神様がイエス・キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、イエス・キリストによって世が救われるためであります。イエス・キリストによって神様の「命の息」が人々に与えられ、その「命の息」によって永遠の神様の国に生きるものへと導かれるのであります。その命の息を与えるイエス・キリストを、聖書は「光」として示しています。「光が世に来たのに人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」と示し、闇すなわち人間の原罪に生きる姿を指摘しているのです。こうして原罪を求めて生きてしまう私たちでありますが、光は常に私たちの前にあり、私たちを導いておられるのです。光に導かれた人々が永遠の神様の国に召されるのです。

イエス・キリストが十字架で死ぬのは当時の社会的指導者達のねたみでありました。神の国に人々を導くために現われたイエス様は、十戒として示されていた戒めを改めて教えました。十戒は人間の基本的な生き方を示しています。まず「あなたは、父母を敬いなさい」と戒めています。そして「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人に対して偽証してはならない、隣人のものを欲してはならない」と戒めを与えているのです。これは戒めと言うより、人間の基本的な生き方であります。しかし、人間はこの基本が守れないと言うことでありました。十の戒をイエス様は二つにまとめます。「神様を愛し、人々を愛する」ことが十戒の基本であると示します。そのイエス様の教えが人々に受け入れられていくとき、指導者たちは人々がイエス様に傾いていくことを恐れ、殺してしまうのでありました。しかし、神様はイエス様の十字架の死を救いの基としたのであります。イエス様の死と共に人間の原罪を滅ぼされたのでした。従って、イエス様が私の自己満足、他者排除を滅ぼされ、神様の「命の息」によって生きるよう導いておられることを信じるのであります。十字架の贖いを信じて生きる者がキリスト者なのです。

 「世が救われるために」聖書の導きをいただいたのでありますが、世界が平和になることは言うまでもありませんが、私たちが永遠の命を得るために主イエス・キリストが十字架の救いを与えてくださいました。私たちがイエス様を信じるのは永遠の命をいただくためです。イエス様によって、「永遠の命」に生きる者へと導かれますが、イエス様は「今」において「神の国」に生きることを導いているのです。死んでから「永遠の命」に導かれる喜びでありますが、今が「神の国」に生きているので「永遠の命」に導かれる喜びが与えられるのです。「神の国はどこにあるのか」と問われたイエス様は、「神の国は、人と人との間にある」と答えています。他者を受け止め、共に歩むことこそ神の国であると示しているのです。

 時々、天に召された方のお証を示されますが、今朝は召天者記念礼拝でもありますので、前任の大塚平安教会時代、一人の方のお証がいつも心に示されていましたので、再び示されます。

証「77年目のイエス様のお招き」 伊藤雪子

 「私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。どうか神様のお心を頂いて、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈りいたします。いつまでもイエス様の十字架を見上げつつ歩んで行くことができますように。」

 十字架の導きが、私達のあらゆる行いを神の国に生きる歩みとしてくださいます。現実を神の国に生きる喜びとしてお導きくださっているのです。

<祈り>

聖なる神様、命の息を与えてくださり感謝致します。この世の神の国を歩ませてください。イエス様の御名によっておささげいたします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com