説教「祝福に至る道」

2013年2月17日、三崎教会
「受難節第1主日

説教、「祝福に至る道」、鈴木伸治牧師
聖書、申命記30章15-20節
    マタイによる福音書4章1-11節
賛美、讃美歌21・298「ああ主は誰がため」、
   讃美歌21・481「救いの主イエスの」

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 今週から受難節に入っております。前週の2月13日が「灰の水曜日」です。この日から40日間の受難節が始まりました。「灰の水曜日」というのは、苦しみや悲しみを持つとき、頭から灰をかぶるのです。そのようなことは私達の生活の中にはありませんが、昔の聖書の世界、中近東の世界の行為でありました。「灰の水曜日」から40日間、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ、イエス様が苦しみを受けられて人間をお救いになられたことを示されつつ歩むのです。40日の中には主の日である日曜日は入りません。日曜日を除いた2月13日からの40日間なのであります。この40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。私たちは「受難節」としての歩みをしていることになるのです。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活を過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。先週も「リオのカーニバル」とかでテレビで報道していました。灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましょうということでカーニバルのお祭りがあるのです。ローマカトリック教会の中で行われた習慣が今に至っても行われているのです。カーニバルは単に「お祭り」という意味ではなく、イエス様のご受難に向かう準備でもあるのです。以前、関わっていた施設が、9月頃でありますが、施設のお祭りを毎年開催しているのですが、その年は特にカーニバルと称して開催していました。それで職員の皆さんに、カーニバルの意味をお話しました。そしたら翌年からは、もはやカーニバルと呼ばないお祭りに戻ったのでした。
 私たちは謝肉祭はしませんが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。主の十字架には決して及びませんが、生活の中で痛みのある生活をすることが必要であるということです。今年はイースターは3月31日です。その前の日曜日が棕櫚の主日です。その日曜日から受難週になるのです。日本の教会は、受難週ですから、主イエス・キリストのご受難を示されながら、いわば質素に過ごすことが奨励されています。昨年の9月から二ヶ月間、スペイン・バルセロナに赴きましたが、一昨年の4月、5月にもバルセロナで生活しました。丁度、受難節、復活祭の時期で、カトリック教会でありますが、受難週の過ごし方を示されたのであります。すなわち、イエス様は都エルサレムにろばに乗って入って行くのですが、人々は歓呼してイエス様を迎えたのです。しかし、人々は歓呼してイエス様をお迎えしたとしても、後に「十字架につけよ」と叫ぶ姿に変わります。人間の弱さをつくづくと示されます。そのような人間の姿を示されながら、棕櫚の主日には人々が歓呼してイエス様を迎える、そのままを実現するのです。受難週は日本では質素に迎えますが、スペインのカトリック教会では華やかにこの日を迎えるのです。普段、教会には来ない子供達は、町には露天商が棕櫚の枝を売っているのですが、その棕櫚の枝を持って教会に集まります。最初は外の庭に集まり、イエス様をお迎えする準備をします。そして神父さんと一緒に教会に入って行くのです。おそらくイエス様をお迎えして教会の中に入っていくという意義があるのでしょう。ミサの中では、その棕櫚の枝の先を床に打ちつけたりして、賑やかにイエス様を歓迎することも演じられていました。受難週をもって十字架の道に至り、そして私達が救われるのですから、受難週は喜びであると言うことです。イエス様のご受難は私達のためであり、私達もイエス様のご受難に与るのですが、このご受難は私の救いなのですから、喜びでもあるのです。この受難節を通して、神様が私達に御心をお示しになっているのであります。御心をいただいて、祝福に至る道を歩むことが、今朝の説教のテーマであります。

 今朝の旧約聖書申命記であります。申命記は、原典は「言葉」との題がつけられました。それはモーセが聖書の人々に言葉を語り聞かせたからであります。すなわち、申命記モーセが、聖書の人々への説教が語られているのであります。苦しいエジプトの奴隷時代から始まって、神様の導きの故に荒れ野の40年間、海の中を渡り、マナという食べ物を与えられながら歩んできたことは、神様の恵みであると語るのです。そういう意味で題を「言葉」にしてありました。しかし、日本語では「申命記」としています。命を申し渡すという意味合いになります。モーセの説教集でありますから、神様の御心を示されることであります。まさに命を申し渡される書でもあります。
 今朝は申命記30章15節以下の示しであります。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」と示されています。命なのか死なのか、幸いなのか災いなのか、それはあなたがたの生き方によりますよというのです。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」と示しています。神様のお心により生きるならば命を得る、祝福の歩みであると示しています。命を得るのでありますが、増えるとも言われています。子孫が増えるということであります。それは最初の人であるアブラハムに約束したことでした。「あなたを祝福し、天の星のように、浜の砂のようにあなたの子孫を増やす」と神様はアブラハムに言われたのでありました。今、モーセも御心に従うならば、命をいただくばかりではなく、子孫も増えると示しているのであります。子孫の繁栄こそ願いなのであります。命を得るために、「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」と示します。「それが、まさしく命である」と示しているのであります。
 主を愛し、御声を聞くとき、私たちは自分の思いを超えなければならないのであります。自分の思いは自分を喜ばすことであり、他の存在を自分の中から消し去ることなのであります。それでは命をいただくことができません。命をいただくとは自分の思いを超えて、ただ御声の導きに委ねることなのであります。今、委ねるということであります。申命記の一つの特色は、「今日」という時間的な示しであります。申命記30章で示されるとすれば、2節「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば」と言い、祝福されますよというのです。11節「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」と示しています。主の御心をいただき、その御心に生きるのは今日であるということです。明日ではないということなのです。今日であり、今という時なのであります。御声、御心は分かっている。それは、「いつか、そのうち、いずれまた」守りますではなく、今なのです。神様のお心をいただいて生きるのは今である、とモーセは聖書の人々に申命記において繰り返し教えているのであります。

 今、命の道を選び、その道を歩むこと、今朝の新約聖書において、主イエス・キリストが実践的に示しております。マタイによる4章1節以下は、イエス様が悪魔、サタンに試みられることが示されています。イエス様はまだ世の人々の前には現れてない状況であります。世に現れる前に40日間の修行をしたのであります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」のであります。最初から悪魔との戦いが予定されていました。40日間、昼も夜も断食し、祈りのうちにすごすということ事態が既に悪魔との戦いであったでしょう。孤独、苦しさ、いろいろな戦いがあったのです。そして、その40日間の修行が終わったときに、本格的に悪魔が出てきたのであります。
 最初は「誘惑する者」が出てきます。どのような存在であるかは定かではありません。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」との誘惑です。40日間の断食において、もはや空腹感はないでありましょう。しかし、これから人々の前に赴き、神様の御声を示し、御心を行うとき、やはり力が必要なのです。体力が必要なのであります。その意味でも食べることの誘惑は100%持っていました。パンの誘惑は当然の誘惑でもありました。イエス様はお答えになります。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えたのであります。イエス様が引用した旧約聖書の言葉は申命記8章の3節の言葉です。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。人は神様のお心をいただいて生きることが命に至る道なのであります。人は何のために生きるのか、と問われることがあります。ただ、食生活が導かれての人生ではなく、神様のお心により力強く生きることが求められているのです。
 次に、今度は「悪魔」と記されていますが、悪魔はイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言うのです。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」というのです。神様が守ってくださるから、この高い屋根の上から飛び降りなさいというのです。その時、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、やはり旧約聖書申命記6章16節の言葉を引用するのです。この引用は、モーセに導かれてエジプトを出た聖書の人々は、マナの恵みを与えられたばかりでありますが、今度は水がないと不平を言うのです。「我々に飲み水を与えよ」と人々はモーセにせまります。モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」というのです。導きと恵みをいただいているのです。そこで、不平を言うことは、神様を試しているのです。神様が助けてくれるのか、くれないのか、試す必要はないのです。今の私が恵みに満たされているからであります。神様の導きがあるからこそ、今の私が存在しているのです。この上、不平を言うことは神様を試していることになるのです。その時、飲み水がないと不平を言う人々に、神様は水をお与えになりました。マサ・メリバの水と記されています。「マサ」とは「試す」ことであり、「メリバ」とは「争い」を意味します。マサ・メリバといえば、神様を試すということなのです。イエス様はマサ・メリバを示しながら、神様の導きと恵みをまず感謝することを示したのでありました。
 今度は、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄振りを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのでした。国々の繁栄、そこに何があるのか。悪魔にひれ伏しているとはいえませんが、繁栄の陰には人間を犠牲にする要因があります。それは悪魔にひれ伏すことでもあるのです。この誘惑に対してもイエス様は申命記6章13節の言葉をもって答えています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」との言葉であります。ここではイエス様が「退け、サタン」と言っています。旧約聖書では、サタンは天使の存在であり、神様のお許しのままに人を試みるのであります。しかし、新約聖書では、サタンは神様に敵対する存在です。誘惑する者、悪魔、サタンを退けた主イエス・キリストであります。
 ところで、ここに登場する悪魔は第三者的に記されていますが、むしろこの誘惑する存在はイエス様の内面的な姿でもありました。これから人々の前に出て行きます。体力が必要であります。神様の絶大なお加護、神様の権威にもとにある保障です。そして、いろいろと必要なものは備えられての姿です。ある意味では人間として、これらの保障のもとに働くならば、さぞ良き働きができると思うのであります。それは極めて人間的な希望なのであります。イエス様はそれらの人間的な保障は一切捨て去って、ただ神様の御心に従ったのであります。主イエス・キリストは命に至る道を、身を持って示されたのです。
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 ところで、先週の2月14日はバレンタインデーでした。隠退しての生活で、「そういえば、今日はバレンタインデーか」ということでした。2010年3月に大塚平安教会を退任したのですが、在任中は、やはり気になっていました。チョコレートを期待しているわけではないのですが、毎年この日にチョコレートをくださる方がおられるので、やはり気になりつつこの日を迎えるのです。幼稚園の園長も担っていましたので、この日は子ども達もチョコレートを持ってきてくれます。だいたいは小さなチョコレートですが、中にはお母さんから「園長先生にも上げなさい」と言われて持ってくる子供もいました。このバレンタインデーは、そんなことで楽しいことは確かです。しかし、起源なるものを見ても、確かな根拠が見当たらないのが事実です。
 インターネットのウィキペディア、フリー百科事典で検索しても、たいした根拠はないようです。ローマ時代には兵士の結婚を禁じたことがあったそうです。結婚した兵士は愛する妻のことばかり考えるので、戦いの士気が上がらないとしてローマ帝国は結婚を禁じたというのです。しかし、若者たちの愛は止めることができません。それでバレンタインという司教が密かに結婚式を挙げてやるのです。それが露見して処刑されたということでもあります。いわばバレンタインは縁結びの司教様でした。他のルートですが、日本基督教団教育委員会が「キリスト教例話集」を出版しました。その中に1972年に発行された「せいとの友」のバレンタインに関することが記されています。私はいろいろな伝説がある中で、そこで紹介されているバレンタインさんのお話を皆さんに紹介しています。
 むかし、ローマの国にバレンタインという修道僧がいました。他の修道僧はイエス様の絵を描いては人々に示して伝道していました。また、他の修道僧はきれいな声で讃美歌をうたい、イエス様の教えを示していたということです。バレンタインさんは、自分は何も特技がないということで悩んでいたということです。しかし、ある日、「自分のできることをしなさい」と言うお告げを受け、いろいろと考えたとき、手紙なら書けると思いました。手紙には神様が私たち一人一人を愛してくださっていることを書いたのです。そして手紙にはちょっとした小さな花束やお菓子等を添えたということです。こうしてバレンタインさんは多くの人々に神様の愛の手紙を書き、人々に喜びと希望を与えたというのです。
バレンタインさんの根拠はいろいろありますが、ここで紹介されている物語は意味あるものと思われます。神様の愛、私達が神様から愛されていることを知ることがバレンタインデーであると示されるのです。それで、今朝の聖書の結論は、私達の日々の生活で、いつも神様に愛されていることを知ることなのです。まず旧約聖書で、神様に愛されている私達は、神様のお心を持って生きるのは、いつか・そのうち・いずれまた、ではなく、今のときから神様のお心、人と共に生きることを実践すると言うことです。そして、イエス様も、常に御心を基にして生きるよう励ましているのです。自らの体験を通して実践的に示してくださいました。自分を満足させようとする方向の中に、悪魔のささやきがあることも示されています。自分の喜びなのか、神様がお喜びになることなのか、今この時、御心に生きることを示されたのであります。そして、主イエス・キリストは私達が御心に生きることができるように十字架にお架りになり、正しい生活の判断ができるよう導いてくださっているのです。祝福に至る道なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご受難により、私たちを命に至る道へと導いてくださり感謝します。命に至る道を踏みしめて、栄光を得させてください。主によって祈ります。アーメン。