説教「とこしえの喜び」

2013年2月24日、六浦谷間の集会
「受難節第2主日

説教、「とこしえの喜び」、鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書35章1-10節
    ローマの信徒への手紙5章1-11節
    マタイによる福音書12章22-32節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・134「いざいざきたりて」
    (説教後)讃美歌54年版・537「わが主のみまえに」


今年は受難節、レントが2月13日から始まっています。40日間の期間ですが、今朝で10日を歩んでいるのです。主イエス・キリストは十字架への道を歩み、ご受難を通して私達を真に生きる者へと導いてくださったのです。それが「とこしえの喜び」ということです。喜びというものは日々の生活の中で、体験的に与えられています。生活をしながら、そこには不便もなく、苦しみもなく、普通の生活でありますが、心配もなく生活できることが私達の喜びということなのでしょう。そのように普通の生活を喜びとしながらも、東日本の災害により、今も困難な生活を余儀なくされている皆さんを示されます。その皆さんにも、一日も早く普通の生活に戻れるよう祈っているのです。普通の生活をするうちにも、環境が少しずつ変化していき、その変化が普通の生活になっていくわけです。
 最近、京急線上大岡駅を降りて、駅前の周辺を歩いたり、見たりしていますが、上大岡に住んでいる皆さんにとっては、もはや普通の生活なのでしょうが、しばらく上大岡駅を降りていないので、あまりの変化に驚いています。実は、今ごろになると目がごろごろとします。逆さまつ毛のためです。昨年も眼がごろごろし出したので、瀬が粼にある眼医者さんに行き、逆さまつ毛を抜いてもらいました。それで良くなったのです。今年も逆さまつ毛の痛みが出てきたので眼医者さんに行ったのですが、手術した方が良いと言われ、上大岡にある形成外科を紹介してくれたのです。そのため上大岡駅を降りて、周辺を歩くことになったのです。駅の周辺が発展していることでは、大変驚きました。京急百貨店、その他大きなビルがいくつもあり、それらの中にある商店、飲食店、映画館等、賑やかな装いでした。上大岡に住んでいる人々は普通の生活でありましょうが、久しぶりに訪れた者には驚きでもあるのでした。
 昔のことでありますが、私が20歳頃のことですが、その頃は、金澤文庫、金澤八景、追浜、逗子には映画館がありました。いずれの映画館も見て歩いたものです。その後、テレビの普及でそれぞれの町の映画館はなくなってしまいましたが、なければ無いで別の発展があり、それなりに普通の生活になっていくわけです。そのような普通の生活の中で、 希望をもって生きることが私たちの願いです。その希望が現実になることが喜びです。私たちが持つ素朴な思いであります。以前のことですが、相鉄線の電車の中に掲げられていた広告を見て、ほほえましく思いました。相鉄線には「希望ヶ丘」いう駅がありますが、二俣川駅から湘南台駅まで相鉄線が延長されることにより、途中の駅に「ゆめが丘」という名の駅ができました。それで「希望ヶ丘」から「ゆめが丘」の切符を記念として売り出していたのであります。切符というよりは飾り物として販売しているのでした。希望と夢、人々が常に求めているものですが、私たちにとって希望とは主イエス・キリストの祝福をいただく人生なのであります。この受難節のとき、主イエス・キリストがご受難を通して「とこしえの喜び」を与えてくださったことを示されるのであります。

 希望を持って日々の生活をしています。しかし、現実の生活は希望とはかけ離れた生活となっていると思っている方もあるでしょう。希望はあるが、現実は苦しみであり、悲しみであるという方もおられるでしょう。しかし、その苦しみと悲しみの現実に、主が希望を与えてくれることを示しているのが今朝の旧約聖書イザヤ書35章であります。この35章は32章から聖書の国ユダの回復が記されていますが、締めくくりとして35章が記されているのです。背景的には聖書の人々がバビロンに捕われて暮らすこと約50年でありますが、その終わり頃ということであります。50年も捕われの身分で生きているのですから、希望もなく夢も無い状況であります。しかし、苦しみが増し加われば加わるほど、悲しみが募れば募るほど、主なる神様に希望を持ったのが聖書の人々でありました。33章2節以下は記しています。「主よ、我らを哀れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身になるのは、神様の御心に従わなかったからであります。神様ではなく、人の力により頼んだのであります。バビロンが脅威であれば、エジプトに助けを求めました。人間の力により頼み、活路を見出そうとしたのでした。あるいは神ではない偶像に心を傾け、自分達の思いを偶像に投げかけたのであります。神様のお心を求めない聖書の人々に対する審判がバビロンによる滅亡でありました。従って、希望を持つということは、主の御心に自分を変えるということなのであります。御心により頼んで生きるということが希望の基となるのであります。今、神様に希望を持つように示すのがイザヤであり、エレミヤであり、他の預言者たちでありました。
 「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と示しています。レバノンは緑の山脈であり、カルメル山も恵みの山であります。そしてシャロンレバノンとカルメルの間にシャロンの豊かな平野が存在します。旧約聖書の雅歌2章1節に「わたしはシャロンのばら、野のゆり」と記されています。シャロンのばら、美しいばらの花が咲くシャロンの平野を示すのであります。シャロンとは憩いの場であり、平和の象徴でもあるのです。
 私の姉は「シャロン」という逗子にある洋服家さんで働いていました。もともと十字屋ストアーでしたが、名前を変えることになり、店員に名前を募集しました。姉が「シャロン」の名称を提示して採用されたのでした。シャロンとは憩いの場であり、心が休まる緑と花の平野であるのです。もはやその店はありませんが、一時期、逗子の町に「シャロン」があったことを意味深く思い出しています。
 バビロンで苦しみつつ生きている人々にレバノンの栄光、カルメルとシャロンの輝きを示すことは大きな希望に導かれるのであります。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、畏れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。聖書の人々にとって、神様が敵をやっつけてくれることが何よりの願いです。詩編を読むと、神様が敵なる者を裁いてくれることを心から願っています。詩編35編4節以下「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は辱めを受けて退きますように」と祈っています。自分の敵をやっつけてくださいと詩編の詩人達は祈っているのです。現実を苦しめる人間に神様の審判を与えてくださいと祈ります。それにより弱った手に力が入り、よろめく膝が強くなっていくのであります。イザヤは神様の導きを示し、希望に生きるよう励ましているのであります。

敵をやっつけてください、となると、聖書は仕返しの教えなのかと思います。苦しみの中に生きた聖書の人々の素朴な願いでもあります。しかし、私たちが聖書から示されることは、確かに自分にとって良くない存在がいますが、それ以上に私自身の中にある悪の存在なのです。今朝の新約聖書は真実を曲げようとする自分自身の姿を指摘しています。
 主イエス・キリストのもとに目が見えず、口が利けない人が連れてこられました。イエス様はその人を癒します。目が見えるようになり、口が利けるようになるのです。驚くべき御業を見た人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。ダビデの子といえば、人々が待ち望んでいる救い主であります。ところがファリサイ派の人々は人々が言っていることを否定しました。ファリサイ派というのは当時の社会で律法を厳格に守って歩んでいる人々であり、社会的にもエリート的な存在でした。「悪霊の頭ベルゼベルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」というのです。目が見えない、口が利けない、それは悪霊に取り付かれていると考える社会です。昔はそのように考えていました。日本でも、病気になると悪霊を追い出す祈祷師に頼んだりしたのです。イエス様はファリサイ派の人々に対し言われました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも、内輪で争えば成り立たない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と言われました。これは説明しなくてもファリサイ派の人々は分かるのです。イエス様の反論にはもう一つのことが言われています。27節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と言われています。ユダヤ教ではラビ的な存在が悪霊を追い出しているのです。それは神様の力を信じての悪霊退治です。従って、イエス様の悪霊退治は問題ないわけですが、ファリサイの人たちは、人々がイエス様を「ダビデの子」と言っていることで批判しているのであります。まさに力ある業を行うイエス様をそのまま受け入れられないのであります。真実を真正面に見ながらも、それを否定すること、そこに問題があるのです。ベルゼブル論争はそこに焦点があるのです。イエス様はこの論争の結論として言われました。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子にいい逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」。
 若い時、この聖書の言葉が胸に刺さりました。「聖霊に言い逆らう者は赦されない」と示されていますので、自分は赦されないのではないかと真剣に考え、恐ろしくなったことが思い出されます。「人の子に言い逆らう」とはイエス様に言い逆らい、イエス様がメシアであることを認めなくても赦されると言われているのです。しかし、主イエス・キリストが十字架により救いを完成し、神様のみもとに昇られた後、聖霊が下って教会の時代となりました。その聖霊の導きを否定する者が赦されないとしているのであります。ユダヤ教におきましても、「アブラハムの契約を無視し、聖日を守らず律法を歪曲する者は、来るべき世において赦されることはない」と示されているのです。赦されることを前提に考えるのではなく、赦されない生き方がありますよと示しているのであります。
 目の見えない人が見えるようになり、口の利けない人が利けるようになったこと。その御業を示された人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と思ったこと、それは聖霊の導きでありました。ファリサイ派の人々も悪霊退治は見たことがありますが、イエス様の御業は本当に驚いたのであります。だから、人々と共に「ダビデの子、メシアだ」と告白すべきでありました。聖霊の導きがあったのであります。しかし、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と否定したのであります。自分の声に言い逆らったのであります。真実を見ながら真実と言わない姿勢であります。希望が生れないのであります。真実をしっかりと受け止めること、そこに希望が生まれ、喜びが生れてくるのであります。

 大塚平安教会在任中、月に一度、八王子にある刑務所に出かけていました。教誨師という職務であります。教誨というのは教え諭すという意味ですが、宗教によって教え諭すのが教誨師であります。八王子医療刑務所には10名の教誨師がいます。神道宮司さん、カトリックの神父さん、そしてプロテスタントの牧師の他の7名は仏教のお坊さんです。教誨師の世界は仏教が力を入れて担っているのです。キリスト教教誨活動をしていますが、仏教のお坊さんがはるかに多いということです。
 教誨は受刑者が自分の希望で受けます。仏教の教誨を受けたい、神道教誨を受けたいとして希望を出すことによって、その教誨を受けることになります。ある時は4名の希望者がありました。4名の皆さんは、キリスト教は初めてであるということでした。約30分、聖書のお話をしますが、その後は質問を受けたり、感想を聞いたりします。その中で、十戒について尋ねられました。十戒とは何かというわけです。十戒は新しく歩みだす聖書の人々、エジプトから脱出した人々に神様が基本的な生き方を示した戒めであると説明しました。そして、十戒の内容、神様のみ礼拝すること、殺してはいけない、盗んではいけない、偽ってはいけないとの戒めを説明しました。そしたら皆さんうつむいているのです。「そうか、皆さんはこの十戒に触れるんだ」と言いますと、視線を落としたまま頷くのです。しかし、十戒に触れる生き方をしてきたとしても、そのために主イエス・キリストが十字架の贖いによって、真実に生きるよう導いてくださっていることを示しました。深く頷いている人もいました。このイエス様に希望を持つこと、必ず祝福の人生へと導かれることをお話ししたのであります。
 主イエス・キリストは私たちの希望であります。ローマの信徒への手紙5章3節以下の言葉に励まされましょう。「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の御救いへと導き、希望の人生を感謝いたします。この希望の主を宣べ伝えさせてください。キリストのみ名によっておささげ致します。アーメン。