説教「与えられている賜物」

お知らせ

〇鈴木羊子について

日本のNHKがスペインの駅で鈴木羊子がピアノ演奏されているのを取材し、

日本でも放映されることになりました。

    11月3日(金)19時45分から20時29分まで、

    NHK BS 1「駅ピアノバルセロナ」と題して放送されます。

 

 

2023年10月22日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第22主日

                      

説教・「与えられている賜物」、鈴木伸治牧師

聖書・士師記7章1-8節

   ヘブライ人への手紙11章32-12章2節

   ルカによる福音書19章11-27節

賛美・(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

   (説教後)讃美歌21・457「神はわが力」

 今朝は聖霊降臨節の最後の歩みとなります。キリスト教は大きくは三つの歩みがあります。クリスマスはイエス様の出現に関して信仰が導かれます。その歩みが降誕節の歩みです。その後、イエス様の十字架への歩みがあり、復活のイエス様を示されます。その歩みが復活節の歩みとなるのです。そして、イエス様が天に昇られ、聖霊として再び現れたとき、聖霊のお導きの時代となるのです。今年は5月28日に聖霊降臨祭を迎え、以後は聖霊降臨節として歩んでまいりました。その聖霊降臨節は今朝で終わり、次週の10月29日からはイエス様の降誕、クリスマスを見つめながらの歩みとなるのです。それで、今朝は聖霊降臨節の最後となり、聖霊に導かれて天国に導かれる喜びを示されるのです。そういう意味でも10月は聖霊降臨の最後の歩みとして「世界聖餐日」が与えられ、人々がイエス様の聖餐を与えられて共に歩む者へと導かれるのでした。さらに第一日曜日は「世界宣教の日」でもありました。世界の人々がイエス・キリストの十字架の救いを与えられて共に歩むことなのです。そして、第二日曜日は神学校日であり、伝道献身者奨励日でありました。イエス様の救いの喜びを人々に伝える存在を育てることでした。そして、それに続いて第三日曜日は信徒の皆さんがイエス様の救いの喜びを人々に伝えることを示されたのでした。さらに子ども達もイエス様の御心によって成長するようお祈りするのでした。このような意義を持ちつつ過ごした聖霊降臨節の終わりにあたり、イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことは、天国の導きを与えられていることを示されるのでした。天国に導かれる歩みをするとき、与えられている「賜物」を十分生かしながら歩むことを示されるのであります。

 イエス様の福音をいただいて生きる人々は、まさに祝福された人生を歩んでいると示されています。日々の歩みがいつも喜びであるのです。今朝の聖書は、この世の人生を「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜く」ことを教えています。そのために「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」歩みなさいと教えているのです。主イエス・キリストを見つめながら生きることが祝福の人生なのであります。

 旧約聖書は、神様の御心をもって生きる人々を示しています。士師記は一時的に現れた指導者を記しています。士師記ヨシュア記の次に置かれています。モーセの後継者ヨシュアと共に、聖書の人々は神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンに侵入し、定着するのです。その時、神様はカナンに侵入するにあたり、皆殺しにしなさいと命じています。古代の生き残る術でもありました。しかし、ヨシュアは無益と思える殺生はしませんでした。従って、定着後、生き残った現地の人々が力をもち、聖書の人々を悩ますことになるのです。まだ、国家ではなく、12部族の連合体でありましたので、部族ごとの歩みでありました。襲ってくる周辺の国々に対抗するために立てられるのが士師と言われる人々です。ヘブライ人への手紙にも記されていますように、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ等の人々が士師として登場したのです。

 今朝はギデオンの働きです。聖書の人々はミディアン人と戦いをしていました。その戦い方を今朝の聖書は示しているのです。聖書の人々は32,000人の軍で戦おうとしています。その時、神様はその人数は多すぎるから民を帰らせなさいと言うのです。「恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ」と言うのです。なぜ帰らせたか。「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と神様は言われました。救いは神様が導くことであり、自分で切り開くことで、傲慢とおごりが出ると言うのです。結局、22,000人が帰り、10,000人が残ります。しかし、神様は10,000人でも多いというのです。そこで、この10,000人の戦いの姿勢を調べるのです。10,000人を川の水辺に連れて行き、水を飲ませるのです。その飲み方が焦点になります。川の水にいきなり動物のように口をつけて飲む人は除かれたのです。水を手にすくって飲む人300人が選ばれたのです。動物のように口を水につけて飲む人は、外敵が迫っているのに気が付きません。しかし、手にすくって飲む人は、目は周囲に向けている訳ですから、外敵が襲ってくればすぐに分かるのです。こうして300人が選ばれたのであります。

 この300人をもってミディアン人と戦うのですが、まさに神様の御心に従いつつ戦ったのであり、だから自らの力の強さで勝利を収めたとは思わないのです。神様の導きに委ねたということです。「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と神様が言われた通りです。御心に従う人生が祝福であるのです。

 御心に従う姿勢を主イエス・キリストは教えています。ルカによる福音書19章11節以下が今朝の新約聖書の示しです。11節の前の段落、1節からは徴税人のザアカイさんがイエス様と出会い、御心による生き方を示されたことが記されています。今朝の聖書は、イエス様はまだザアカイさんの家にいるのです。11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された」のであります。従って、ザアカイさんの主の御心に生きる決心は人々も聞いていたのです。ザアカイさんはイエス様だけに告白したのではなく、社会の人々にも告白しているのです。このようなザアカイさんの告白を聞いて、イエス様はたとえをお話されました。ここでは「ムナ」のたとえ話です。マタイによる福音書25章で「タラントン」のたとえ話をしています。同じような内容ですが、ムナとタラントンは大きな違いがあります。タラントンは莫大なお金です。それに対してムナは普通の生活で使われるお金なのです。タラントンのお話は3人の人に額が異なるお金を預けています。ムナの場合は10人の人に同じようにお金を預けているのです。ルカによる福音書の場合は10人の人に一ムナずつ預けたのでした。

 「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、10人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った」という例えと、そこから続く国民の感情のお話は違うことをお話されています。ムナをお弟子さん達に預け、「これで商売をしなさい」と言われているのは、御心により歩みなさいと示しているのです。そうすれば十ムナを得るほど祝福があると言う教えです。弟子の務めを奨励しています。並行して国民の感情をお話しているのは、イエス様を救い主ではないとする人々を示しているのです。たとえは、ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つのですが、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせるのです。しかし、このたとえは、王の位を受けて帰ってきます。そして、反対した人たちへの審判があるのです。明らかに主イエス・キリストを示しています。遠い国とは神様の御もとであり、十字架にお架りになって復活し、その後昇天されますが、再びお出でになるとは聖書の証言であり、再臨信仰になっています。この神様のご計画に対して、人間は自分の都合で事を進めようとしている訳です。最後は自分たちの成果であると誇ることになります。ギデオンの300人選びのメッセージで示される通りです。人間を救うために主イエス・キリストをこの世に出現させ、十字架の救いを完成されました。その十字架の救いの完成に対して、人間は口をはさむことはできないのです。救いを信じ、御心に従うことが人間の生きる道なのです。そのために一ムナを与えられています。このムナは神様の御心であり、力であり、その人の生きる基であるのです。人間に、神様は同じように賜物を与えてくださっているのです。人間はその賜物を用いて、与えられた人生を歩むのです。神様の賜物として歩むとき、豊かな祝福ヘと導かれるのです。

在任していた幼稚園から連絡があり、私が送りだした卒業生が天に召されたということです。そのお友達は20歳にもなっていました。実は、このお友達については、忘れられない姿がありました。園長として、朝、お友だちの登園を迎えるために門に立っています。かなり離れたところから、いつも親子で並んで歩いてくる姿がありました。多くの場合、他のお友達はお母さんの前を歩くか、後ろを歩いています。手をつないでいる場合もあります。遠くから歩いて来るお友達は、お母さんの横にぴったりと並んで歩いているのです。このような歩き方がとても印象的で忘れられないのです。それで、お子さんを亡くされたお母さんにお悔やみの手紙を書いたのですが、そのお母さんの横にぴったりと並んで歩くお子さんであり、これからもお子さんは天国に行かれてもお母さんの横にぴったりと歩いているでしょう、と記したのでした。共に歩むこと、これはイエス様の御心であり、私達へのお導きなのです。共に歩むことが大きな祝福へと導かれるということです。イエス様からいただいた賜物によって歩むということなのです。天に召されたお友達は賜物によって歩んでいたのです。神様の御心は人と共に歩むことであるのです。「神の国は、人と人との間にある」とイエス様が教えてくださいました。

<祈祷>

聖なる御神様。お導きを感謝致します。与えられた賜物を用いつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。

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