説教「神の国に生きる」

2023年10月15日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第21主日

                      

説教・「神の国に生きる」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記6章5-8節

   フィリピの信徒への手紙1章3-11節

    ルカによる福音書17章20-27節

賛美・(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」

   (説教後)讃美歌21・579「主を仰ぎ見れば」

 今朝の日本基督教団の歩みは、本日から信徒伝道週間、教育週間になります。信徒と言いますのは、キリスト教の教えを信じ、信仰に生きる人々です。どこかの教会に所属しますが、教会には牧師がおり、牧師の説教に励まされながら歩んでいるのです。キリスト教という宗教ですが、自分が信じて歩む喜びがありますので、人々にも伝えたいのです。しかし、原点はイエス様の大伝道命令です。マタイによる福音書28章19節以下にイエス様のお言葉があります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と示されています。イエス様を信じる者はこの大伝道命令を示されているのです。信徒伝道週間として、わざわざこのような週を設けるのは、ともすると伝道は牧師に任せ、信徒として教会生活をしていれば良いと考えてしまうので、信徒としての歩みを顧みる時なのです。伝道というと、キリスト教の集会を開いて人々を誘うことだと思う人がいますが、もちろんそれは伝道ですが、信徒の一人一人が自分の信仰の歩みを証しすることなのです。だから、何をするのでもなく、普通の生活をすればよいのですが、イエス様を信じる人は、自然に信仰に生きる喜びを表しているのです。そういう生き方が伝道なのであり、大きな集会も伝道ですが、一人一人が信仰に生きる姿を人々に証しすることなのです。

旧約聖書は創世記6章5節から8節で、ノアの時代の洪水の物語が始まるところであります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と記されています。「神様が後悔する」という言い方は面白い表現でありますが、これは物語であり、書いているのは人であり、神様の思いとして記しているのであります。それほど悪が栄えていることを示しているのです。神様は天地、宇宙万物をお造りになったのは、神様のご栄光のためでありました。その造った人間が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」ので後悔しているのであります。そこで、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」と言われていますが、しかし「ノアは主の好意を得た」と記し、この後に「ノアの物語」が始まるのであります。ノアを通して新しい人の世界を造られるのでありました。ノアは神様に命じられて大きな三階建ての箱舟を造ります。造り終わると、神様はノアと家族、そして他の生き物、動物たちを二つずつを箱舟に入れて舟の扉を閉めなさいと命じます。ノアが言われるままにすると、雨が降り出し、四十日四十夜雨が降り続きます。そして、洪水が起きます。洪水は四十日間地上を覆います。それにより、箱舟にいる生き物以外はすべて死に絶えてしまうのです。その後、水はなくなり、ノアと家族、生き物たちが地上に降り立ったとき、ノアは祭壇を築き、神様に礼拝をささげるのでありました。その時、神様は約束を与えます。それは9章13節以下に記されます。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われ、虹によりあなた方を心に留めると言われているのであります。虹は恵みの雨の後に現れる現象でありますが、それは神様の恵みを証しているのであります。こうして、ノアの洪水物語は神様の恵みの導きを示しているのでありますが、恵に生かされている私たちは、神様に後悔されていないかと言うことも、聖書は問いかけているのです。旧約聖書は虹をもって救いの証を示しました。この旧約聖書の示しを新約聖書イエス・キリストの十字架こそ、神様の恵みの証であると教えているのです。

新約聖書ルカによる福音書17章20節から37節です。この部分の表題を「神の国に生きる」としています。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた」ことが導入になっています。ファリサイ派の人々はユダヤ教の社会において、中心である律法、戒律を厳格に守って生きている人々です。いわば社会の人々の模範生でもありました。そのファリサイ派の人々は、イエス様が律法、戒律を新しく教えなおしていることに警戒しており、いつもイエス様のそばにいて教えを聞いていたことが考えられるのであります。神の国については、イエス様は常に示していました。それで、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのであります。イエス様は答えて言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と教えておられます。神の国と言いますから、やはり死んで彼方の世界と思っています。あるいは、神の国はメシヤが現れて、地上を平和にしてくれると言う希望でもあるのです。ファリサイ派の人々が尋ねているのは、神の国の到来ですから、昔現れたダビデのような偉大な王様が、今はローマによって苦しんでいるので、その苦しみから解放してくれるときが、神の国の到来と言うことになります。その神の国がいつ到来するのかと尋ねているのです。

神の国は見える形では来ない」と教えています。ここにある、あそこにあると言えるものでもないとも言われています。では何処にあるかと言えば、「神の国はあなたがたの間にある」と言われるのです。「あなたがたの間」、すなわち人と人との間に神の国があるということです。ノアの時代に、神様はどうして人を造ったことを後悔したのか。それは、人が「常に悪いことばかりを心に思い計って」いたからでありました。そこには人と人との間が無いのであります。自分の事ばかりを考えているからであります。自分の前には人がいないと言うことであります。人を人とも思わないから、そこには人との関係が生まれないのであります。私たちの前に人がいなければ、神の国には導かれないのであります。従って、私は人とのお付き合いが嫌いであるから、家で聖書を読み、お祈りをささげ、賛美の歌を歌うことは、確かに平安な日々でありますが、イエス様が示す神の国に導かれてはいないのであります。イエス様は私たちが共に生きるときにこそ神の国の到来があることを教えているのです。

その後、イエス様はまた不思議なことを言われています。「あなたがたが、人の子を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」と言われています。ここで、「人の子」とは救い主を示しており、その救い主をひと目見たいと望むが、できないと言われている意味は、現に救い主がいるのに、心に見えないからでもあります。まして、この後、イエス様は十字架への道を歩むことになりますが、いよいよお弟子さん達も救い主が見えなくなってくるのであります。あなたがたは人と人との間に生きて神の国に生きなさいと教えつつ、やがて到来する終末をしっかりと受け止めなさいと教えています。そのために、このルカによる福音書において、旧約聖書のノアの時代の洪水を示し、またロトの住んでいた悪徳の町ソドムの滅亡を示しているのです。神様の審き、それは終末のときでありますが、私たちが人と人との間をどれだけ生きたかを問われるときであるのです。

昔のことですが電車で乗る機会がありました。電車に乗ると「優先席」があります。昔は「シルバーシート」と言っていました。シルバーシートは老人や身体障碍者のために設けられていたのです。しかし、大切にしなければならないのは、老人や身体障碍者ばかりではなく、怪我人、妊婦、乳幼児連れ、ハンディキャップを持つ人等もいます。それで、それらの人々を含めて「優先席」とするようになりました。それで、昔の「シルバーシート」と言われていた頃、その席に座りましたら、窓際にメモ用紙が置かれていました。それとなく読みましたら、「シルバーシート、座るとみんな、目をつぶり」と言う歌が詠まれていました。誠にその通りの歌であると思います。座って眠っていれば、老人が前に立っていても、そのまま座っていられるわけです。目を開けていれば、老人を見て代わらないわけにはいかないからです。それで、電車に乗ったとき、結構電車が混んでいて座るところがありません。吊革につかまっていたのですが、ある駅について座っている人が降りました。しかし、その前にいるのは私より別の人の方が権利があるようです。すぐに座らないので、私が「どうぞ」と言ってあげました。それでその人は空いた席に座ったのですが、すぐに立ち上がって、私に「すいません」と言いながら席を譲ってくれました。その人は座るまで、私の姿を見ていなかったのです。座った瞬間に私を見たのでしょう。いかにも老人と見えたと思います。もはや弁解の余地がありません。老人を差し置いて自分が座ってしまったので、誤りながら私に席を代わったのです。この人が私を見もしないで座っていることもできるわけです。しかし、見るということ、そこに大切な生き方が導かれてきたのです。

さあ、私たちは自分の現実に派遣されます。そこには人がいます。この人はイエス様が、私が神の国を生きるために与えてくださった存在なのです。イエス様の十字架に導かれて、人と人との間に生きて、一人の存在を見つめつつ歩みたいのであります。

<祈り>

聖なる神様、イエス様の十字架のお導きを感謝いたします。神の国に生きる導きを与えてください。主イエス・キリストのみ名により、アーメン。

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