説教「信仰を深めつつ」

2023年10月8日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第20主日

                      

説教・「信仰を深めつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・レビ記25章39-46節

   フィレモンへの手紙1-25節

   ルカによる福音書17章1-10節

賛美・(説教前)讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」

   (説教後)讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」

今朝は「神学校日・伝道献身者奨励日」として礼拝をささげています。神学校を覚え、学ぶ神学生を覚え、さらに伝道献身者が与えられるよう祈る日であります。私は日本聖書神学校で学びました。この神学校は夜学でありまして、働きながら学ぶ学校でありました。従って、大学を卒業して、社会で働くうちにも牧師への道が示され、入学する人々も多くいました。私は21回生の卒業生で、神学校には6年間在学しました。神学校の創立の頃は学校という校舎はなく、教会を借りての授業であったのです。しかし、その後、広大な土地の寄付があり、木造の校舎が建てられました。そこで、学んでいるうちにも、模様替えが行われ、校舎の部分は一階が店舗で、上がマンションと言うビルが造られました。新しく造られた校舎には半年位、学んだと思います。それで卒業したのですが、その後、その校舎はテアトルと言う俳優養成学校が使うことになり、校舎は奥まったところに造られ、礼拝堂も図書館も、いずれも新しい立派な建物になりました。これらの取り組みは、私達が卒業した後の時代の取り組みでした。毎年、送られて来る神学校の案内書を見ながら、随分とりっぱになったものだと思っていました。そのように思いながらも、懸念することもありました。案内書ですから、いいことづくしの内容を紹介するのは当たり前です。立派な校舎、立派な図書館、素晴らしい礼拝堂、快適な寮生活を豪華な冊子で紹介しているのです。神学校に入る決心をしている人は、この様ないいことづくしの内容を提示されて入るのでしょうか。大学の場合は、たくさんある大学の中から選ぶこともあり、いいことづくしで選ぶ基準になるのかもしれません。しかし、神学生の場合、将来は牧師になるのであり、いいことづくしより、牧師への道を整えてくれる場所であると思うのです。だから、立派な案内書で決めるのではないのですから、そういう案内書は不要だと思っていました。私達の入学当時は、簡単な学習の道筋を記している紙一枚の案内書でした。絶えず良い道を歩もうとするのが私達です。それは当然なことですが、現実を見つめながら、良い生活ではなく、良い方向へと導かれることであります。導入が神学校の良しあしになってしまいましたが、本日は信仰を深めつつ歩む人生を示されたいのであります。

今朝は信仰においてどう生きるかが主題になっています。旧約聖書レビ記新約聖書のフィレモンへの手紙も、ルカによる福音書も弱い存在、他者を受け止めて生きることを示しています。まず、レビ記は同胞の弱い存在を受け止めることの教えであります。聖書の人々はエジプトの国で400年間奴隷でありました。その苦しみを神様はモーセを通して救い出しました。そして、人間として基本的に生きるために十戒を与えたのです。その十戒を基にして、人々の生きる指針、いろいろな掟、戒律がつくられました。それを記しているのがレビ記です。特に今朝の聖書は同胞を奴隷としてはならないと教えています。なぜならば、エジプトでの奴隷から解放されましたが、神様に養われている者として、互いに労わりながら生きなさいと示しているのです。それは、すなわち、神様を信じて生きることであり、神様を仰ぎ見つつ生きるものは平等に生きなければならないと示しているのです。今朝の旧約聖書には「ヨベルの年」について示されています。旧約聖書には、神様が天地万物をお造りになり、七日目に休まれたと記されています。七日目は土曜日なので、その日を安息日としました。その後、七年目を安息の年としています。この安息の年は、畑等も休ませなければならないのです。そして、その安息の年を七回重ね、次の年が50年目になりますが、この50年目を解放の年、ヨベルの年としたのです。ヨベルとは、雄羊の角のことで、この角で作ったラッパが吹き鳴らされるのです。ヨベルの年には解放の年ですから、奴隷は解放され、売られた土地の権利はもとの所有者に変換されるのです。50年は長いですが、必ずやってくるのです。苦しい生活ですが、ヨベルの解放を待ちわびつつ生きたのが聖書の人々でした。聖書では、同じ民族ですから、お金が無くなったとき、奴隷として身を売ることになりますが、雇い主は奴隷ではなく、雇人として扱うことが示されています。これは同胞の民であり、外国人の場合はヨベルは適用されないようです。しかし、人道的な聖書の教えは、外国人、寄留の民にも恵みが行き渡るように示しています。たとえば19章9節以下の教えとして、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と教えています。これらの教えは積極的に隣人を見つめ、共に生きることを示しています。活発な信仰の歩みとして教えているのです。

 この旧約聖書のメッセージは、新約聖書ルカによる福音書17章1-10節により、イエス様が「赦し、信仰、奉仕」として教えておられます。

 「イエスは弟子達に言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。(中略)もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい』」と示しています。私たちは常に罪と戦い、誘惑に負けてしまう自分自身を悲しく思っています。そこで出てくる思いは、私がもっと信仰を強く持つことであります。イエス様のお弟子さん達も同じ思いを持ちました。だから、お弟子さんたちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたのでした。

 本当に、信仰がもっとあったら、私は毎日の生活の中で、くよくよしないと思っています。信仰がもっとあったら、力強く生きているに違いないと思っています。信仰がもっとあったら、礼拝にも祈祷会にも欠かさずに出席していると思っています。信仰がもっとあったら役員でも委員でも引き受けることができると思っています。いつも弱く、心が動揺しているのは、信仰が足りないからだと思っているのです。お弟子さん達がイエス様に、信仰を増してくださいと願っているように、私たちもまた、イエス様に信仰を増してくださいとお願いしているのです。

 信仰とはその様なものなのでしょうか。信仰はそのようなことではありません。信仰が強くなって確信を深め、しっかりと立つのは、自分に依存する姿であって信仰ではないのです。信仰する者は神様を仰ぎ見る、ただそれだけです。神様を仰ぎ見ることは、神様の恵みに頼り、主の御心に自分を委ねることなのです。不安がある、眠られぬ夜が続く、悲しみがある、痛みがある。そういうときに信仰が強くなって不安と戦うのではなく、不安なら不安のままに神様を仰ぎ見ることであります。眠られぬ夜が続くなら、その姿で神様を仰ぎ見ることであります。その姿が信仰なのです。

 私たちは結果をすぐに求めますから、信仰を増してくださいと願うのです。信仰があれば、こうなんだと結果を考えます。そして、信仰の結果においてバラ色の人生を思い浮かべているのです。信仰はただ神様を仰ぎ見ることであります。神様の御心にこの身を委ねることなのであります。「わたしたちの信仰を増してください」とお願いしたお弟子さんたちに、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とイエス様は言われました。 

 今、お弟子さんたちはイエス様が、からし種一粒の信仰があれば力が出ると教えられました。するとお弟子さんたちはどう受け止めたのでしょうか。常識では考えられないことであります。いくら信仰があるからといっても、植えられている木に、抜け出して海に根を下ろせと言えば、その通りになるなんて信じられないのです。そんなことは不可能であると、口には出さなくても思っていたのです。

 イエス様がこのように教えているのは、私たちに自分の力、能力、経験というものを忘れること、それが信仰ですよと教えておられるのです。あなたがたは自分自身なるものから離れなさいということです。自分の信仰の程度や度合いから離れて、神様の御慈しみに生きること、そこに信仰の人生があります。くれぐれも自分の信仰の大きさ、強さ、素晴らしさの中に生きようとしてはなりません。私たちが落ち込んだり、弱さを思うのは、自分の信仰に依存しているからなのです。自分の信仰が強いとか弱いとか、大きいとか小さいとか、そんなことを考えなくてよろしいのです。信仰は神様を仰ぎ見ること、神様の御慈しみを受け止めること、それが信仰であります。信仰の妨げとなっている私たちの力、能力、常識を忘れなさい、とイエス様は教えておられます。

  信仰をましてくださいと願い、信仰があれば主の御心に生きるでしょう。そうすれば主の祝福が与えられる、という人生ではなく、神様を仰ぎ見、恵みに生かされていることを喜び、その恵に導かれて主の御心を行う、そのような信仰の人生を歩みなさいと教えておられます。そして、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもはとるに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエス様は教えています。主の愛に生きる私達は、もうこれで仕事が終わったということはありません。主の御心はもっともっと愛をもって生きなさいと命じておられるのです。くれぐれも信仰が増した上での働きと考えるのはやめましょう。イエス様の十字架のお導きを信じる信仰が 

<祈り>

聖なる御神様。十字架の信仰を与えてくださり感謝いたします。信仰の人生を導いてください。イエス・キリストのみ名により、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com