説教「与えられている導き」

2023年10月1日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第19主日

                      

説教・「与えられている導き」、鈴木伸治牧師

聖書・アモス書6章1-7節

   ヤコブの手紙2章1-9節

   ルカによる福音書16章19-31節

賛美・(説教前)讃美歌21・405「すべての人に」

   (説教後)讃美歌21・430「とびらの外に」

今朝は「世界聖餐日」としての礼拝であります。世界の人々が共に聖餐に与ります。主の聖餐が世界の平和の基となります。エフェソの信徒への手紙2章15節、「キリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と示されています。十字架を仰ぎ見る、世界の平和の基があるのです。主イエス・キリストを記念とする聖餐をいただくことにより、神様の御心を与えられ、新しい歩みへと導かれるのです。

今朝は「世界聖餐日」と共に「世界宣教の日」として示されています。世界の人々へキリスト教の福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。2006年に開催された日本基督教団の第35回総会で、それまでは「世界宣教協力委員会」との名称でありましたが、「世界宣教委員会」と変更されました。2006年まで日本と北米六教団が協力して日本の宣教を担ってきました。その日北米宣教協力会(JNAC)が解散となりました。今までは協力のもとに宣教師を迎え、また派遣してきましたが、日本基督教団が主体的に宣教師を迎え、派遣することになったのです。現在、日本基督教団には外国からは約80名の宣教師が日本の伝道を担っています。日本基督教団からは世界の各地に約30名の宣教師を派遣しています。世界の人々が主の聖餐をいただくために、世界の宣教を祈らなければなりません。

 実は私はこの世界聖餐日に洗礼を受けました。高校3年生の時です。毎年、世界聖餐日になると、自分の新しくなったことを示されています。洗礼を受けてからは、常に永遠の住まいを目指す歩みを導かれているのです。祈りつつ主イエス・キリストの示された歩みへと導かれているのです。今朝は改めて「与えられている導き」の歩みを示されたいのであります。イエス様の聖餐を与えられることは、導きを与えられるということです。

人間は自分勝手に、都合の良い道を歩んでしまうものです。旧約聖書に登場する預言者は、人々が勝手に生きようとすることに対して、いつも警告を与えていました。預言者と言われるイザヤにしてもエレミヤにしても、自分勝手に生きている人々に警告を与えているのです。たとえば、エレミヤは神様の御心を示しています。「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」ということです。

神様は人々に御心を示しているのであり、昔からの人々の歩みを示されるならば、祝福の導きは与えられているのです。だから、その神様の導きの道は現実にも与えられているのであり、自分の思いに歩むことを厳しく警告しているのです。エレミヤがこのように警告しているとき、指導者達は平和がないのに、「平和、平和」と叫んでいると示しています。指導者たちは時代の流れを見極めないで、自分勝手に解釈し、楽観的に歩もうとしていたのです。だから、バビロンという大国が攻めてきたとき、我々はエジプトに応援を頼めば大丈夫なのだと言い張っていたのです。それに対して、エレミヤはバビロンに対してエジプトの応援を得て戦うのではなく、それはむなしい抵抗であり、バビロンに降伏して生き延びることであると示すのです。実際、頼みにしていたエジプトは応援してくれるどころか、途中で引き上げてしまうのです。それによってバビロンに滅ぼされる結果になって行くのです。預言者たちは神様の御心を示し、人々に歩むべき方向を示したのです。人々は預言者の導きの言葉に聞き従わなければならないのです。しかし、自分勝手に生きようとしたのでした。

本日の旧約聖書アモス書6章であります。ここにも御心に従わない、特に指導者たちの姿が示されています。アモス書はエレミヤが警告した人々より前の時代の人々に警告しています。この時代はアッシリアの大国でした。そのアッシリアの大国が迫りつつある状況でも、指導者たちは「安逸をむさぼっている」と示しています。国は危機にある状況なのに「長椅子に寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛をとって宴を」開いていると示しています。贅沢三昧に過ごしていることを警告しているのです。アモスという人は牧畜を仕事としていました。牧畜の仕事は波風もなく平和な生活でありました。しかし、その彼が御心を示されたのでした。人々が神様の御心を無視した歩みをしていることを示され、人々に御心を語りなさいと導かれたのです。聖書は神様の御心を聞き、その導きに従って歩むのか、そのように厳しい姿勢が求められています。基本的にはモーセを通して与えられた「十戒」を守ることです。十戒は特別な戒めではないのです。人間が普通に生活するように示しているのが十戒です。しかし、人間は普通の生活ができないのです。十戒には「汝、殺すなかれ」と戒められています。表面的には人を殺さないでしょう。しかし、心の中で人を憎み、排除すること、それも人を殺しているとイエス様は教えています。真実に十戒を守るよう導いているのが主イエス・キリストなのです。

ルカによる福音書16章19節以下31節には「金持ちとラザロ」との内容でイエス様のたとえ話が示されています。イエス様がこのたとえ話をするとき、それがそのまま天国と地獄の教えではありません。さらに金持ちは地獄に落ち、貧しい者は天国に迎えられることを教えているのでもありません。むしろ、金持ちとか貧しい者とかを考えないほうが良いのです。そもそもイエス様がこのたとえ話を示したのは、前の段落、14節以下に記されるように、そこにいるファリサイ派の人々がイエス様のお話をあざ笑ったからでありました。何故あざ笑ったのか。イエス様が「不正な管理人」のたとえ話をしたからでした。あざ笑ったのは、イエス様の教えばかりではなく、聖書は15章1節からの状況が続いているのであり、イエス様が罪人といわれる人々と交わっていたからでもありました。

このようなファリサイ派のあざ笑いに応えて教えたのが「金持ちとラザロ」のたとえ話でありました。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた」と記されています。ここに金持ちがいます。イエス様はこのお話をしたとき、金持ちが紫の衣や麻布を着ているから悪いと言っているのではありません。また、ぜいたくに暮らしているから悪いといっているのでもありません。だから地獄に落ちたとは言ってはいないのです。問題は、ここに貧しい人ラザロがいるということであります。食べるものがなく、残飯で飢えをしのごうとしており、全身できもので痛みを持ち、苦しんでいる人がいるのです。しかし、金持ちはラザロを見なかったし、気がつくこともありませんでした。あるいはそのような人が大勢いるので、見慣れた風景であったのでありましょうか。イエス様がこのたとえ話をしたのはその点なのです。金持ちの前にラザロがいるのに気がつかなかったということであるのです。

やがて金持ちもラザロも死にました。ラザロは天国に迎えられ、金持ちは地獄に落ちたとしています。このことから、私たちは、この世で良い思いをし、幸せに生きたものは、あの世で苦しみが待っていると思う必要はありません。この世で苦しみ、貧しく生きたものが、あの世で幸せになるということを示しているのでもありません。私たちは金持ちであっても良いのであり、どんなに財産があっても良いのであります。そういうことではなく、私たちが隣人にどう向くかが問われているのであります。もし、私たちが隣人に対して無関心でいるなら、神様も私たちに無関心であります。この世で隣人の声を聞かないなら、神様も私の声を聞かれないのです。「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は教えています。

貧しきラザロ、それはまた私たち自身であります。この私という貧しきラザロをいつも見つめてくださり、こころにかけてくださるイエス様がおられます。私という貧しきラザロがイエス様のお心にとめられているように、私たちも隣人の貧しきラザロさんに心を向けなければなりません。隣人の生き方を受け止め、隣人を見つめるものが神様の祝福に与るのです。その生き方を導くのがイエス・キリストの十字架であります。「金持ち」のように貧しきラザロを見ない私たちでありますが、その私のためにイエス様は十字架にお架かりになり、私の「金持ち」を滅ぼされたのです。

金持は陰府の国で、せめて兄弟たちが自分と同じようにならないために、天国にいるラザロを兄弟たちのところに遣わしてください、と天国のアブラハムに願っています。すると天国のアブラハムは、「生きている者はモーセ預言者がいる」と言うのでした。つまり生きているものには神様の御心が与えられているのであり、いつでも御心を聞くことができると示しているのです。生きている者は与えられている神様の御心をしっかりと受け止めること、イエス・キリストの十字架の救いをしっかりと信じて生きることであると記しているのです。生きている私達には神様の御心がいろいろな道筋で与えられているのです。何よりも十字架を仰ぎ見ることにより神様の御心を示され、人生の基とするのです。

<祈り>

聖なる御神様、導きを与えてくださり感謝いたします。十字架の救いの言葉を信じて歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

 

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