説教「永遠の住まいへのお導き」

2023年9月24日、三崎教会

聖霊降臨節第18主日

                      

説教・「永遠の住まいへのお導き」、鈴木伸治牧師

聖書・アモス書8章4-7節

          ルカによる福音書16章1-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

          (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこび」

 日本では、本日は「お彼岸」ということで、仏教の皆さんの姿勢を示されます。お彼岸は9月20日に彼岸入りとなり、9月26日が彼岸明けと言うことになります。昨日は「秋分の日」であり、これからは日が短くなっていくのでしょう。お彼岸は秋分の日の前後3日、計7日間をお彼岸というそうです。煩悩と迷いの世界である「此岸(しがん)」にある者が、「悟りの世界」すなわち「彼岸」(ひがん)の境地へ到達することが出来るというものです。いわゆる「お彼岸」にお墓参りすることで極楽浄土へ行くことができるということであります。

 仏教の「お彼岸」は極楽浄土への思いを深めることになりますが、キリスト教では永遠の生命への信仰と言うことであり、その思いは重なることになります。しかし、仏教の場合は、今の「お彼岸」の時期に極楽浄土への思いを深めるのであり、春の「お彼岸」を除いては、日々の生活の中で極楽浄土への思いは薄らぐということになるでしょう。その意味では、キリスト教は日々の生活において「神の国」に生きることが願いであり、また「神の国」に生きる喜びを与えられているのです。昔、聞いた落語の中で、「なんまいだ、なんまいだ、死んでも命がありますように」と言いながら生きている人のことを面白く語っていました。「死んだら命はありません」と落語が言っているのですが、だから笑いを誘う訳です。しかし、死んでも命があるということは人間の素朴な願いなのです。極楽浄土にしても永遠の生命にしても、人間が死にゆく者として平安を与える教えとなるのです。

 私達は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、日々の生活の中で主の御心を実践して歩むことにより、現実が神の国としての歩みが導かれ、そのまま永遠の生命に導かれて行くという信仰を持っているのです。キリスト教は日々神の国に生きるものですから、毎日が永遠の生命をいただいているのです。私達も一層、主の道を歩むことを示されるのであります。私達の日々の歩みは、神の国を生きて行くことですが、神の国に生きるには、いろいろな状況を受け止め、重荷となりますが、私の十字架として背負っていくことです。主の道を生きるということは十字架を背負いつつ生きるということであります。私の十字架は何か、その十字架を共に担ってくださるイエス様に導かれたいのであります。

 旧約聖書アモスという預言者はいちじくを栽培する農民でした。神様はこのアモスを伝道者に選び、御心を人々に示したのです。聖書のこの時代は北イスラエルと南ユダに分かれていますが、北イスラエルの荒廃ぶりは南ユダに住むアモスの耳にも聞こえていました。当時のというのは紀元前8世紀の時代ですが、北イスラエルはヤロブアム2世が王様の時代でした。宗教的にも社会的にも堕落していたのです。その堕落ぶりは今朝の聖書で示す通りです。「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」と叫んでいます。不正な商人たちが「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ」と言っていることを指摘します。「新月祭」は、月の始まる日を新月としてお祝いしていました。この習慣は聖書の人々がカナンに定着する以前からカナン地方でお祝いされていました。聖書の人々もこの習慣を取り入れ、むしろ新月祭は神様の示された日として聖なる日としていました。従って、この日は聖なる日ですから仕事を休んで、聖なる神様を崇めたのであります。「安息日」は土曜日になります。神様が天地を造られたのが日曜日から金曜日までで、土曜日は神様が安息された日であり、神様の創造の御業を仰ぎ見る日でした。そのため一切の労働が禁じられていたのです。商人たちは寸暇惜しまず商売をして金儲けをしたいのです。それも不正な金儲けでした。「升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」と言いつつ商売をしているのです。升を小さくするということは、同じ値段で少ししか与えないということです。分銅を重くするということは、同じ目盛りでたくさん仕入れるということです。しかも靴の値段で人間を買い取るというのです。くず麦を売るとも言われています。不正を働いてはならないということは、そもそも十戒に示されている掟であります。そのため、レビ記19章35節以下、「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導きだしたあなたたちの神、主である」と教えているのです。アモスは北イスラエルの人々が、この基本的人間の生き方を忘れていることに対して、声を大にして叫んでいるのです。本当に価値あるものは、歴史を通して示されてきた十戒を中心とする神様の御心です。神様の御心は他者を見つめ、自分の心に入れ、共に生きることであり、聖なる者になるということです。その歩みが「永遠の住まいへのお導き」なのです。

 主イエス・キリストは十字架の贖いにより、人々をお救いになりましたが、それは最後の導きになります。社会に現れたイエス様は、旧約聖書の示しのように、聖なる者となることの教えを人々にしているのです。

 ルカによる福音書16章は、イエス様が「不正な管理人」のたとえを通して聖なる者になることを教えています。「ある金持ちに一人の管理人がいた」とお話を始めています。この男が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言う。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言うのです。そこで、管理人は生き伸びる策を立てます。管理人は主人に借りのある者を一人一人呼びます。最初の人は主人から油百バトス借りています。一バトスは23リットルですから、かなりの量になります。それを百バトスではなく、50バトスに書き直させるのでした。今度は小麦百コロス借りている人には80コロスと書き直させるのでした。一コロスも23リットルです。たくさんの小麦を借りていることになります。こうして出入りの商人に便宜を計って上げます。ところがこの不正なやり方を見た主人は、管理人の抜け目のないやり方を褒めたのであります。ここまではたとえですが、後のことはイエス様が教えとして言われていることです。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる」と言われます。

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 この「不正な管理人」の教えをどのように理解されるでしょうか。主人の財産をごまかしているのですから、確かに不正な事をしています。ここで主人と管理人との関係を理解しておかなければなりません。マタイによる福音書25章14節以下で、イエス様は「タラントン」のたとえをお話されています。ルカによる福音書は19章11節以下に記していますが、マタイによって示されます。ある人が旅に出るにあたり、自分の財産を僕たちに預けます。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを委ねました。5タラントン預けられた人も2タラントン預けられた人も、それで商売をして、倍の利益をもたらしたのです。主人の財産を勝手に使って良いものかと思いますが、用いなければならないのです。そのまま持っているのではなく、有効に用いるということです。このタラントンから「タレント」という言葉ができるのですが、人には皆タラントン、賜物、能力、才能が与えられているのであり、それを生かしつつ生きることが人間であることを聖書は示しているのです。管理人は主人の財産の管理です。それは財産を十分用いることです。

 管理人は出入りの商人に便宜を計ってあげました。それなのに主人は管理人を褒めているのです。誰かが損をしていることになるのです。もちろん出入りの商人ではありません。主人でもないのです。主人は受けるべき収入があるのです。従って、損をしているのは管理人になるのです。便宜を計り、主人には利益を渡すと、自分の収入がなくなるということです。自分の利益を犠牲にして、出入りの商人を喜ばせてあげたのです。そこでイエス様は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と教えています。ここで「小さな事」と言われていますが、人間関係のことです。毎日の営みの中で、他者の存在をしっかりと受け止めて生きること、小さな事ですが、これこそ「本当に価値あるもの」なのです。忠実に小さな人間関係を生きるとき、「本当に価値あるもの」をいただけるのです。「本当に価値あるもの」とは主イエス・キリストの御心です。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との御心を示され、実践しつつ歩むことなのです。「不正にまみれた富」と言われていますが、私達は金銭で生活をしているのですが、その金銭は、ある場合には不正にまみれているのです。いわゆる詐欺と言われ、人をだまして巻き上げる金銭ですが、その同じ金銭を用いることで神様の豊かな祝福へと導かれるのです。不正にまみれた金銭ですが、神様に祝福される、「永遠の住まいへのお導き」になるのです。


<祈祷>

聖なる御神様。永遠の住まいへのお導きを感謝いたします。いよいよ御心により歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。

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