説教「新しい命をいただきつつ」

2020年6月14日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第3主日

 

説教、「新しい命をいただきつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記6章16-25節

   ローマの信徒への手紙10章9-17節 
   ヨハネによる福音書3章1-15節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・161「イマヌエルのきみのみ」
   (説教後)讃美歌54年版・501「生命のみことば」



 前週は三位一体主日であり、私たちが信じる神様を示されました。すなわち、「父なる神、子なるイエス・キリスト、助け主なる聖霊」であります。その神様を信じて生きる私たちは、いよいよ信仰に生きる喜びを与えられています。この信仰に生きる喜びを人々に証ししなければなりません。信仰に生きる喜びとは、十字架の救いが与えられていること、神様の愛が常に注がれていること、永遠の命が与えられていることであります。
 今まで信仰の歩みを共にされた皆さんが、今は永遠の命を与えられていることを示されています。特にその中で宮城県の教会で出会った方を示されています。佐々木シゲルさんと言う方と佐瀬春子さんと言う方です。特にお二人を示されるのは、お二人はいつも夜の祈祷会に出席され、お祈りを共にささげましたので、心に示されています。宮城県古川市にある教会です。古川は冬になると雪が積もるということは少ない地域です。しかし、寒さは身に応えるのでした。その様な寒さの中でもお二人は祈祷会に出席されていたのでした。佐々木シゲルさんは長く学校の先生でしたが、教会に導かれるようになりました。しかし、聖餐式はまだ洗礼を受けておられないので、聖餐に与ることはできなかったのです。自分も聖餐に与りたい、その様な思いで信仰の道を求めて歩まれたのです。日本基督教団の中で未受洗者への配餐問題の議論が起きました。同じ礼拝に出席していながら、洗礼を受けていないということで、聖餐を受けさせない、ということは差別ではないかという意見です。特に地方教会は、地域や家族の関わりで洗礼を受けたくても受けられない人がいるのです。だから礼拝に出席はしている人は、全員に聖餐を受けてもらっています。しかし、日本基督教団は規則の中で、聖餐式に与るのは洗礼を受けた者と定めています。洗礼を受けていなければ、聖餐式の意味がありません。聖餐式に与りたいために信仰を求めた佐々木シゲルさんのお証が示されています。
 もう一人の佐瀬春子さんは、私達が陸前古川教会に赴任するため、東京から向かったのですが、教会に到着すると、玄関でただ一人、お迎えくださったのが佐瀬春子さんでした。お知らせしておいた日には到着できないで、松島に一泊したのです。上の子どもが3歳、下の子供が1歳で、無理をしないように向かったのです。そして、翌日、教会に到着すると、佐瀬春子さんがお迎えくださったのでした。佐瀬春子さんは子ども達を孫のように受け止めてくださり、いつもお世話になっていたのです。この佐瀬春子さんの思い出も心に深く示されています。秋には召天者記念礼拝をささげるのですが、その時、説教の中でキリスト教の死生観についてお話しいたしました。佐瀬春子さんは、感銘深く受け止めてくださり、「これで安心して天国に行かれます」と言われていました。永遠の命を与えられているお二人をまず示されたのであります。

今朝の旧約聖書申命記は、永遠の命をいただくために、神様の命令を守るように示しています。もっとも旧約聖書には「永遠の命への希望」はありませんで、「神様の民となる」ことが大切なのであります。聖書の人々はエジプトで生きること400年間でありました。そして、その中で奴隷の境遇となり、苦しみつつ生きるようになったのであります。その苦しみの声を神様が受け止めました。神様はモーセを選び、奴隷の人々をエジプトから脱出させたのでありました。モーセは聖書の人々を奴隷から解放し、神様の約束の地カナンへと導く使命がありました。それと共に、人々を神様の真の民へと導く使命もあったのであります。そのため、神様は十戒を与えました。モーセはその十戒に関連する戒め、定めを人々に与え、しっかりと守るように示すのであります。そうすれば神様の真の民となることを示すのであります。「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる」と示しています。ここで、「戒め」「定め」「掟」が示されています。みな同じように思われますが、違った意味合いとして示されなければなりません。「戒め」は十戒により示されました。十戒は人々の基本的な生き方を示しています。例えば、「あなたは殺してはならない」と戒めています。戒めとして示されなくても、人を殺すことは良くないことは誰もが思っていますが、しかし、やはり人殺しが行われているのです。その他、「あなたは盗んではならない」、「嘘を言ってはならない」、「人のものを欲しがってはならない」、「父、母を敬いなさい」と示されています。当たり前のような教えです。しかし、人々の生きる基準というものであります。この基準が実は守られない現実があるのです。この戒めに対して、「定めと掟」を守るように示されています。これは「決まりごと」の示しであります。この「決まりごと」は申命記12章以下に示されています。12章1節に「これから述べる掟と法は、あなたがたの先祖の神、主があなたに与えて得させる土地で、あなたたちが地上に生きている限り、忠実に守るべきものである」と記されています。つまり生活上の決まりというものなのです。この「戒めと定めと掟」は守るということが神の民になることでありました。だから、子ども達にも教えなければなりません。申命記6章21節以下が子ども達に教えるもので、これを唱えること、すなわち信仰告白をすることが、神様の民に導かれていくのであります。神様の民となるということは、歴史を通して神様が私を導いていることを確認し、さらに神様のお心を頂いて歩むということであります。
 この申命記におきまして、歴史の回顧と新たなる決意をするように示しています。
「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主はこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」と告白します。神様の民として祝福の人生が与えられるのです。歴史の回顧と新たなる決意こそ神様の民であり、新しい人間なのです。

イエス・キリストは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と示しています。新約聖書ヨハネによる福音書3章は、イエス様とニコデモさんの対話が記されています。ニコデモさんはユダヤ人の議員でありますから、社会的にも指導的な人でした。人々が喜んでイエス様のお話しを聞いているので、自分もイエス様と話したいとの思いをもっていました。しかし、昼間、人々の前でイエス様とお話するには気後れがありました。指導者達はイエス様を批判していたからであります。それで、夜になってイエス様を訪ねたのです。ニコデモさんは言います。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言いました。それに対してイエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのです。ニコデモさんとの対話が食い違っているようです。ニコデモさんはイエス様の言われていることが理解できず、イエス様が「新たに生まれなければ」と言われたので、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言うのでした。そこで、イエス様はさらに言われました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と示されているのであります。ここでもニコデモさんとの対話が食い違っているようですが、イエス様は「永遠の命」について示されているのです。「水と霊によって生まれなければ」と言われていますが、明らかに洗礼を受けることであります。救いを信じて水で清められますが、霊の洗礼によって生まれるということです。この霊は聖霊降臨祭でも示されましたが、天に昇られたイエス様が、私達を天国に導くために、天からお戻りになったイエス様なのです。このイエス様によって新しく生まれる者へと導かれるのであります。永遠の命へと導かれるのであります。
 ヨハネによる福音書が「神の国」として示すのは、今朝の聖書の二箇所だけです。それに対してマタイ、マルコ、ルカによる福音書は、神の国についてのイエス様の教えが多く示されています。もっともマタイによる福音書は「天の国」であります。それに対して、ヨハネによる福音書は「永遠の命」を示しているのであります。今朝の聖書の後、3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示しています。さらに、6章40節「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と示しています。ヨハネによる福音書のイエス様の示しは、私たちが永遠の命に導かれることなのであります。
15節「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と示されて今朝の聖書はしめくられています。「それは」というのは、前の14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」ことの意味であります。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章4節以下に記されていることであります。奴隷の国、エジプトから脱出して荒れ野をさまようとき、聖書の人々は神様の導きと恵みを忘れて常につぶやいていました。そのとき、神様は蛇によりつぶやく人々に審判を与えました。人々はモーセに許しを求めます。モーセは旗竿の先に青銅の蛇を掲げました。人々が蛇にかまれても、旗竿の蛇を仰ぎ見ると命を得たのであります。その出来事は主イエス・キリストの十字架の救いと重なるのであります。イエス様は十字架に上げられました。私たちは十字架を仰ぎ見るのです。イエス様の十字架の死と共に、私の中にある罪の姿が滅ぼされたと信じるのであります。永遠の命が与えられるのであります。
申命記におきましては「戒めと定めと掟」を守りなさい、そうすれば神の民へと導かれることを示されました。新しい命を与えられるからであります。私たちも主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることにより、新しい命が与えられるのです。

 先ほども宮城県古川市にある教会でお二人のお証を示されました。お二人についてはいろいろな思い出がありますが、祈祷会のお二人の信仰が基となっています。このお二人と私達夫婦がいつも祈祷会でお祈りしていたのです。寒くても暑くてもいつも出席されていました。ところがある日、お二人ともご都合で出席はされなかったのです。夫婦二人の祈祷会になりました。祈祷会の終わり頃になると、古川で生まれた三番目の子ども、3歳頃になっていましたが、決まってやってくるのです。上の二人は家でテレビを見ています。牧師館と教会はつながっていますが、途中幼稚園の園舎を通り、そして教会に来るのですが、電気も消えているし、慣れた道順なので、部屋から来ることができるのです。いつもは二人の婦人と私達夫婦の祈祷会です。祈祷会が終わるとお茶をいただきながら懇談するのです。その頃になると、決まって三番目の子どもがやってくるのです。この日は私達夫婦の他は誰もいないのを見て、「今日は、お客さん来ないねえ」というのでした。「今日はご用があって来られないのだよ」と言ったものでした。このエピソードを、教団書記になって、教団新報という新聞のコラム欄で書きました。その時は大塚平安教会に赴任していたのですが、そこでも祈祷会の出席は多くはありませんでした。祈祷会前、夫婦で皆さんをお待ちしているのですが、開会時間になっても、どなたも来ていません。ふと古川時代のことを思い出すのでした。その時、玄関を開ける音がして、何かホッとした思いをコラム欄に記したのでした。「お客さん、来ないねえ」とのタイトルです。このコラムは意外に反響があり、岡山県の牧師から電話をもらいました。説教で紹介したというのです。どこの教会も祈祷会の出席が少なく、そういう中で、牧師夫婦二人のお祈りがささげられていること、教会員をお客さんと表現したこと、いろいろと考えさせられ、教会の皆さんに報告したというのです。お手紙で感想をお寄せくださった牧師もいました。
 「永遠の命を与えられる」、その信仰の歩みを導かれています。いろいろな状況がありますが、イエス様が天からお戻りになって、私達を永遠の命へと導いてくださっているのです。「今日は、お客さんがいっぱいだねえ」と言われる礼拝であり、永遠の命を喜びあいたいと願っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。
 <祈祷>
神様、永遠の命を与えてくださいまして感謝いたします。いよいよ十字架を仰ぎ見、神様の民とならせてください。イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。

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