説教「生きた神の言葉」

2012年2月12日、六浦谷間の集会
「受難節前第2主日」 

説教、「生きた神の言葉」 鈴木伸治牧師
聖書、詩編26編1-12節
   ヘブライ人への手紙4章12-13節
   ルカによる福音書8章4〜15節
賛美、(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」、
   (説教後)讃美歌21・481「救いの主イエスの」


 最近、ブログには神社仏閣について書くことが多く、キリスト教の牧師が何で神社仏閣に興味を持つのかと懸念される方があると思います。ブログにも書きましたが、神社仏閣を芸術として見ているからで、その造り、佇まいには鑑賞してあまりあると思っています。そのため神社仏閣があると、道を歩いているときでも、足を止め、わざわざ境内地に入って見学するのでした。その点、キリスト教の教会は町に存立していても、見学に入る人はほとんどいません。信仰をもっている人が、時には「お祈りさせてください」と言いつつ教会に入ってくる程度です。だいたいどこの教会も境内地という場所はなく、教会の建物、駐車場、幼稚園の園庭という具合で、佇まいを鑑賞することもないのです。神社仏閣はイベントでもない限り、ひっそりと静まり返っており、その静寂の中に身を置く時、改めて自分を見つめることになるのです。これが有名な神社仏閣になると、見学する人が多く、観光地の思いですが、市町村の神社仏閣は静寂に身を置くことができるということです。
 ところでこれらの神社仏閣にお参りしている人を、時には見かけるのですが、いろいろな思いを持ちつつお祈りをしているのでしょう。神社仏閣にお参りしても、そこでいただく示しというものはないのです。自分の願いを祭られている存在に申し上げるのであり、その存在からは何も示されないということではないでしょうか。しかし、そうは言っても、神社仏閣の前に頭をたれることで、何らかの示しをいただく人もいるでしょう。そのような礼拝を示されながら、教会における礼拝は、何よりも神様の御心が示されることなのです。自分の思いをささげる前に、まず聖書により神様の御言葉が示され、生きる指針を与えられるのです。そこに違いがあるということです。
 仏教には仏典があります。仏教の経典は、お釈迦さん自身が教えを文書化することを許されなかったと言われます。教えは暗記によって保持されました。体で覚えるということだからです。お釈迦さんが亡くなってからは、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」という出だしで始められているのです。その後、お釈迦さんの教えが文書化されていきますが、仏典には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていないということです。だいたい仏教の信者でも、仏典から直接指針を与えられる人は少ないと言えるでしょう。浄土真宗は葬式等で和尚さんが仏典に基づいてお話します。また、講和がお寺で開催され、仏典のお話があるようです。しかし、仏典を手もとにおいて学ぶ人は少ないということです。その点、キリスト教の信者は聖書を座右の銘としており、日夜聖書を読み、礼拝において御言葉を示される生活をしているのです。礼拝は御言葉をいただくためであり、自分の思い、願をささげるために教会に集まるのではありません。御言葉を示されて、その上で自分の思い、願いをささげるのです。
 私達は神様の御言葉で日々の生活が導かれているのです。「生きた神様の御言葉」をいつもいただきながら歩みたいのであります。それにより神の国を生き、永遠の生命へと導かれる喜びを持つのであります。

 そのような信仰の歩みを導くのが詩編であります。詩編は150の詩歌集ですが、単に歌を歌っているのではなく、その歌は神様に向けてささげられているのであり、それは「賛美」であるのです。もともと原典は「賛美」というヘブライ語の書名でした。それぞれの詩編には楽器によって歌われたと説明がありますので、歌集の意味が強くなり、さらに詩編という名称を用いるようになりましたが、もともとは「賛美」でありました。賛美でありますから、喜びの歌をささげているようでありますが、むしろ嘆きの歌が多いということです。「敵をやっつけてください」と歌う詩編もあります。例えば、「主よ、立ちあがってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち、わたしの魂を助け出してください」(詩編17編13節)と歌うのです。嘆きの中に生き、苦しみの中に生きる時、自分を救うのはただ神様であることを知るのです。嘆きこそ、体内から出る叫びであり、また賛美であるのです。
 そのような詩編の基本的な内容ですが、今朝の詩編26編は、少し異なるのではないかと思われるのです。ここには嘆きの言葉はなく、むしろ詩人が神様の御心を歩み、誇っているかのようにも聞こえるのです。「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いて来ました。主に信頼して、よろめいたことはありません」とあたかも自慢しているような歌です。この詩編を読むとき、何となくファリサイ派の人の祈りを思い出します。ルカによる福音書18章9節以下でイエス様が実際に示していることなのです。ファリサイ派の人の祈りは、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈るのです。そこにいた徴税人は、遠くに立ち、目を天に上げようともせず。胸を打ちながら祈ります、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。イエス様はこの二人の祈りを示しながら、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と示しています。詩編26編の詩人はこのファリサイ派の人のようだと申しましたが、そうではありません。
 詩人はひたすら神様に向かって自分を告白しているのです。一方、ファリサイ派の人は、常に他者と比較して、自分の存在を評価し、お祈りとしているのです。詩人は他者との比較ではなく、ただ神の前にいる自分を神様の前に差し出しているのです。「主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩み続けています」と神様に訴えているのです。あのファリサイ派の人の祈りのように、神様の戒めをもって歩んだので、だから神様の祝福があるはずだと祈っているのではありません。ひたすら神様に心を向けている詩人の祈りなのです。「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います」と信仰の告白をしています。礼拝をささげながら、神様にいろいろと自分の願いを求めているのではなく、まず神様の御心をいただきたいということです。「あなたのいます家」、「栄光の宿るところ」は神殿であります。神殿を心からしたい、その神殿で神様の御心をいただくことを心から求めているのです。

 自分の思いを神様にかなえてもらうことではなく、神様の御心によって、この私が生きているか、これが今朝のメッセージです。主イエス・キリストは御心に生きる姿勢として、今朝はルカによる福音書8章4節以下を示しています。
 今朝の新約聖書の示しは「種を蒔く人」のたとえを通してイエス様が教えておられるのです。大勢の群衆が集まりましたので、イエス様はたとえを用いてお話されました。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言う設定です。蒔いているうちにある種は道端に落ちました。道端ですから、固い地面であり、種は土の中に入れません。そのため人に踏みつけられ、やがて空の鳥が来て食べてしまいます。また、ほかの種は石地に落ちますが、芽が出るものの、水気がないので枯れてしまったというのです。石地というのは畑の端の方です。そこはよく耕してないので、土の下は石が多いのです。水気がないということです。そして、他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草です。雑草が生えているから、そこでは芽が出て伸びるのです。しかし、ほかの雑草に覆われて、太陽の恵みを得ることなく実をつけることができないのです。「他の種はよい土地に落ちた」と言われますが、種蒔きはよい土地に蒔いているのですから、ほとんどの種はよい土地に蒔かれているのです。道端、石地、茨に落ちた種はたまたまそこに落ちたということです。種蒔きが種を蒔く時、聖書の世界では、種はばらまく蒔き方です。日本の農業のように、畑を耕し、種を丁寧に蒔くというやり方ではありません。岩波書店の商標マークが「種蒔く人」ですが、種を放り投げるようにして蒔いています。だから、風が吹いて来ると道端に飛んで行ったり、石地に落ちたり、茨の中に飛んで行ってしまう場合があるのです。「よい土地に蒔かれた種は、生え出て、百倍の実を結んだ」とイエス様はたとえ話を締めくくっています。そして言われたことは、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということでした。この言葉が大切なのです。御言葉をしっかりいただく姿勢であるのです。
 たとえ話を聞いたお弟子さん達は、このたとえ話にはどんな意味があるのかと尋ねました。するとイエス様は、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」と言われました。つまり、このたとえ話をしているのは大勢の群衆に向けてであります。お弟子さん達がたとえの意味を聞いていますが、本来は大勢の群衆が、このたとえの意味は何であるのか、と思わなければならないのです。イエス様は、「彼らは見ても見えず、聞いても理解できない」と言われています。たとえの意味を理解しない人々を示しているのです。つまり、イエス様に大勢の人々が集まってきますが、御心を求めて来ているのではなく、自分の心が喜ぶお話しか求めていないのです。
 このたとえの意味を尋ねたお弟子さん達に、イエス様は11節以下で説明をしています。「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である」と言われました。神様のみ言葉を人々がどのようにいただくかということです。「道端の種」は御言葉をいただいてもはねつけてしまう人だと言われます。心が固く、御言葉が心に入って行かないのです。「石地の種」は、御言葉をいただきますが、心からいただいていないので、試練に遭うとみ言葉の支えを忘れてしまうのです。「茨の種」は、御言葉を確かにいただいて芽が出てくるのですが、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実を熟するには至らない人だと説明されています。そして、言うまでもなく、よい土地に落ちた種は、「立派な善い心で御言葉を聞き、善く守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と示しているのです。
 詩編の詩人が、「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います」と賛美の歌を歌いましたように、御言葉をいただく姿勢を示しているのです。「聞く耳があるか」、「立派な善い心で御言葉を聞き、善く守り、忍耐して実を結ぶか」を示しているのです。このたとえ話を示されて、自分を「道端の種」とか「石地の種」、「茨の種」と決めつけてしまわれないことです。「私は道端のような人間だから、神様の御言葉が育たないのだ」と思ってしまわないことです。最初から自分を決めつけるのではなく、このたとえ話のように、「聞く耳をもつこと」であり、「立派な善い心で御言葉を聞く」姿勢をもつということです。私達の中には、ある場合には「道端的心」、「石地的心」、「茨的心」があるのです。そういう私達ですが、詩人が賛美するように「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います」との歩みをしたいのです。教会に導かれ、賛美の歌をささげ、御言葉に耳を傾ける時、百倍の実を結ぶようになるのです。
 ルカによる福音書10章38節以下に「マルタとマリア」のことが記されています。マルタさんとマリアさん姉妹の家にイエス様が来ました。そこでイエス様は人々に神様の御心のお話を致します。マルタさんは人々への接待で忙しくしています。しかし、マリアさんはひたすらイエス様のお話を聞いているのでした。そこで、マルタさんは「主よ、わたしの姉妹はわたしにだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平を言うのでした。するとイエス様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言われたのでした。マルタさんの言い分は正しいのですが、茨の中に落ちた種のようでもあるということです。マリアさんに蒔かれた種は、良い土地に蒔かれた種として、百倍の実を結ぶことになるのです。

 昨日の2月11日は「建国記念の日」でした。多くの人が誤って理解していると思いますが、この日を「建国記念日」、国が造られた日としていることです。しかし、「建国記念の日」は、この日に建国されたことを示しているのではなく、「建国をしのび、国を愛する心を養う国民の祝日」であり、日本の建国を覚え、記念する日なのです。1966年に定められています。これに対して、特に宗教界ではこの日を「信教の自由をも守る日」としています。建国ということから、神武天皇即位と重ね、天皇国家主義が復活することを危惧しているのです。ですから、このような祝日を反対している訳です。そのため各地で反対集会や学習会が開かれました。前任の大塚平安教会時代、湘北地区はこの日を「信教の自由を守る合同祈祷会」としていました。抗議集会やデモ等が行われていますが、何よりも神様の御心を求めることこそ大切なのであります。教会によっては、例えば教会建築を始めるにあたり、一週間連日の祈祷会をしたと聞いています。諸計画をもつにしても、人間的な思いではなく、神様の御心を求めることが大切なのです。「生きた神様の言葉」が現実に与えられ、力強い歩みへと導かれるのです。良い土地に落ちた種になるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。良い土地へのお導きを感謝致します。百倍の実を結ぶため、御言葉に向かうことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により、アーメン。