説教「生きる道を示される」

2014年2月9日、横須賀上町教会 
降誕節第7主日

説教・「生きる道を示される」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記下12章1-4節、
    マルコによる福音書4章21-34節
賛美・(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」、
    (説教後)讃美歌21・444「気づかせてください」


 2月の歩みが導かれていますが、今年は復活祭、イースターが4月20日になりますので、受難節を歩むのが遅くなっています。昨年の場合は2月13日から受難節が始まり、イースターは3月31日でした。昨年はマレーシア・クアラルンプールのボランティア牧師を務めていましたので、現地の皆さんと共に受難週、イースターを迎えたのでした。日本では寒い冬から春になって行く時に受難週を歩み、春と共にイースターを迎えますので、受難節、イースターは日本の気候に準じているようで、肌に感じつつ教会暦を歩んでいるのです。ところがマレーシアは常夏の国ですから、気候に関係なく教会暦を歩むことになりますので、感覚がなんとなく馴染めない思いを持っていました。今年は日本の気候に準じて受難節、イースターを迎えることになりますが、それにしても、今年は受難節が遅くなっています。いつもは主のご受難を見つめることでありますが、今年は主イエス・キリストの教えをいただきつつ歩んでいるのであります。私共の六浦谷間の集会における礼拝では、前週の御言葉はマルコによる福音書1章40節以下に記される「病を患っている人を癒す」イエス様について示されています。その聖書を「御心をいただくために」と題してみ言葉を示されました。病の人がイエス様に、「病を癒してください」とお願いする前に、この人が「御心ならば」と申しあげていることに焦点を当てて示されたのでありました。まず御心を求める姿勢が祝福されたということです。今朝も「生きる道を示される」としていますので、受難節前はイエス様から私達の信仰について示されているのであります。
 今週は2月11日を迎えています。日本では「建国記念日」としていますが、キリスト教の世界では「信教の自由を守る日」として、いよいよ信仰を強める日としています。信仰を強めることでありますが、キリスト教界におきましては日本の軍国主義を危惧しつつ、平和憲法を守る機運が高くなっています。安部内閣憲法を変えようとしていることで、軍国主義に傾いているのではないかと案じているのです。そのような安部内閣の姿勢に対して中国、韓国が批判していることはうなずけるのですが、それにしても最近の中国や韓国の日本に対する姿勢は友好とは思えない激しさがあるようです。ここで政局を論じるのではありませんが、私達が真にイエス様を信じて歩める国でありたいのです。
 2月11日は各地で集会が開かれ、国の姿勢に対して抗議のデモ等が行われます。そういう中で、大塚平安教会に在任の頃、湘北地区では2月11日に学習や抗議活動を行うことも大切ですが、この日は祈りの日としたのでした。すなわち「信教の自由を守る合同祈祷会」として集会を持つようになっています。講師の講演を聞いた後は、それぞれグループでお祈りをささげるのです。憲法改正の機運がある中で、まず神様にお祈りをささげ、神様の御心を求めること、私達の務めと言わなければなりません。神様は私達の歩みに対してはいつも御心を示してくださっているのであり、自らの思いではなく、神様の御心をいただくことが大切なのであります。

 神様の御心を示されて、心から悔い改めたのはダビデでありました。ダビデは聖書の歴史において、立派な王様として人々から称賛されました。そして後々までダビデの存在が喜ばれ、後の時代でも、再びダビデの登場が待望されたのであります。しかし、人々から尊敬されたダビデでありますが、人間的には至らない姿を持っていました。
 ダビデは王様として人々を支配していました。その頃も戦争をしており、部下達は他の国と戦いをしていました。あるとき、ダビデは王宮の屋上を散歩していました。屋上ですから城下町が一望できるのです。ふと見ると、一人の女性が水を浴びているのが見えたのです。その女性は大層美しかったのです。それでダビデは家来にその女性について調べさせるのであります。その女性は、今、敵の国と戦いをしている兵士ウリヤと言う人の妻でした。王として権力のあるダビデは、ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしたいと思うのです。それで戦いの隊長に手紙を発します。兵士ウリヤを戦いで死なせることでありました。戦いの長はダビデの指示通り、ウリヤを激戦地で戦わせ、戦死させてしまうのです。ウリヤが戦死しましたので、ダビデはこのバテ・シェバを自分の妻にしたのでした。
 そこで今朝の聖書になります。「ナタンの叱責」としていますが、ナタンは預言者であります。ダビデに対して、いつも神様の御心を示していました。ダビデが神殿を造ろうとしたとき、神様はこのナタンを通じて神殿造りを思いとどまらせています。ダビデは、自分は城の中に住んでいるのに、神の箱が幕屋、テントの中に収められていることはよろしくないと思うのです。神の箱の中にはシナイ山で与えられた十戒が収められているのです。それで神の箱を収める神殿造りを思い立ったのでした。しかし、神様は預言者ナタンを通して、神殿造りを思いとどまらせたのであります。そして今またナタンがダビデの前に現れたとき、それはダビデの罪を暴くためでした。それは今朝の聖書に記されているとおりであります。二人の男がある町にいます。一人は豊かで、一人は貧しかったと言われます。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていたのです。しかし、貧しい男は一匹の雌の小羊の他には何一つ持っていなかったのであります。彼はその小羊を養い、小羊は彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようであったのです。ところが、豊かな男のところに客があり、豊かな男は客をもてなすために、自分の羊や牛ではなく、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振舞ったのであります。これはナタンがダビデにしたお話です。
 ダビデはこの話を聞くと激怒し、ナタンに「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言うのでした。四倍の値は掟に定められているのです。出エジプト記21章37節に、「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わなければならない」と規定されています。ダビデはこの規定を十分知っていました。ダビデの激怒を聞いたナタンは、すかさず「その男はあなただ」と指摘するのです。神様が御心を示してダビデを導いてきたのに、ダビデは自分の思いの故に神様の御心が見えなくなってしまったのです。今、御心を示されたダビデは深く悔い改めるのであります。神様は常に御心を示し、愚かな自分を導いてくださっていることを知るのであります。御心を求めることです。自分の計画を実現する前に、まず御心を祈り求めなければならないのであります。神様によって「生きる道を示される」のであります。神様に祈り求めるとき、神様は御心を示してくださるのであります。

 主イエス・キリストは人々に御心を示されています。その場合、イエス様は「たとえ話」で御心を示しているのです。イエス様がたとえ話をするにあたり、「たとえを用いて話す理由」をお話されています。まずそこから示されます。この4章10節以下です。イエス様はお弟子さん達に向かい、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われています。それは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである」と言われているのです。「赦されることがないためである」と言われていますが、赦さないことは神様の御心のように思えます。「ため」であると言われているのはなぜなのかと思います。イザヤ書6章9節、10節にこのように記されています。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。この民をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」と記されています。ここでも「ため」にと言われています。これは神様の御心に対して、人々が耳を閉ざし、聞く耳を持たない姿勢に対しての言葉なのです。
 モーセがエジプトで奴隷の人々を救い出す時、いろいろな神様の御業を行いました。エジプトに災いがあると、王様のファラオは奴隷の解放を赦すのですが、すぐに心を翻します。その時、ファラオがかたくなであるのは、神様がそのようにしているのであると記されているのです。「分かった」と言いながら、その場限りであり、表面的にしか理解しないということです。だから神様がファラオの心をかたくなにするのでした。そして、本当に分かるのは恐ろしい審判を受けてのことでした。「赦されることがないために」と示しているのは、表面的な理解、受け止め方ではいけないことを示しているのです。御心を全身で受け止めなさいとイエス様は教えておられるのです。だから「たとえ話」で御心を示しておられるのですが、人々は良い話であったという感想で終わっているのです。このたとえ話は神様の御心としてどのように受け止めるのか、御心としてどのように語られているのか、と言う姿勢を持たなければならないのです。
 そこでイエス様のたとえ話に向かいましょう。「ともし火」のたとえは、「ともし火を升の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか」とお話されています。ともし火は神様の御心です。御心は人々にかざさなければならないのです。それはイエス様が人々の前に現れたことを意味しているのであります。神様は御心をイエス様によって人々に現されたのでありました。「何を聞いているかに注意しなさい」とも言われています。御心として聞くならば、更に祝福となると示しているのです。「成長する種」のお話は、決まっていることをお話しているようです。種を蒔けば、やがて芽が出て成長する。そして収穫の時には鎌を入れて刈り取る、と言うことです。人々にとっては当たり前のこととして聞くでありましょう。成長すると言うことは御心により成長すると言うことです。収穫の時期に鎌を入れると言うのは、終末を示しているのです。当たり前に生きているのではなく、終末に祝福される人生を歩みなさいと示しているのです。さらに「からし種」のたとえをお話されています。からし種はどんな種よりも小さいのです。しかし、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作るほどになるとお話されています。これを聞いた人々は「そうだ、そうだ」と頷くでしょう。たとえの意味を理解しないのです。からし種は神様の御心なのです。御心は大きく広がっていくと言うことであり、御心をしっかりといただくならば祝福の人生へと導かれることを示しておられるのです。
 こうしてイエス様はたとえ話を持って神様の御心を示されているのです。しかし、聞く人々は感心するだけで、たとえ話の意味を理解しようとはしなかったのでありました。「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は示されています。そして、イエス様は私達をお救いになるために十字架にお架りになり、私達の内面にある自己満足、他者排除を滅ぼされました。私達はこのイエス様の十字架の贖いを信じて救われました。しかし、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とパウロが証しているように、世の人々は十字架を見ても、その意味を知ることなく、信じることもないのです。
 一昨年、娘がスペインのバルセロナに滞在していますので、二ヶ月間過ごしてまいりました。その時、娘はパリの三大美術館に連れて行ってくれました。ルーブルオランジュリー、オルセー美術館です。ルーブル美術館を見学した時、主イエス・キリストの十字架の磔刑画が展示されています。実にいろいろな人がイエス様の十字架を絵画にしているのです。これでもか、これでもかと、次々に展示されているのです。中には気持ち悪くなってしまう人があるでしょう。これでもかと展示されていても、単に絵画としてしか鑑賞しないのです。聞く耳のある者は聞きなさい、見える目のある人は見なさいとイエス様は言われています。私達の人生は神様の御心によって導かれるのです。イエス様によって「生きる道を示される」のであります。

 皆様も日々御言葉によって導かれております。御自分の愛唱聖句が力なっていることでありましょう。大塚平安教会時代、2009年は創立60周年でありました。1999年は創立50周年であり、記念誌を発行し、教会員の証も合わせて掲載しています。そして、60周年におきましても記念誌を発行しました。その時も証を掲載しましたが、皆さんの愛唱聖句と愛唱讃美歌も掲載したのです。ですから皆さんの証は愛唱聖句と結びついた内容になりました。これまでの歩みにおいて、聖書の言葉が力となり、支えとなり、希望となっていることを皆さんが記しています。ある方は、お子さんが重度の知的障害者であり、その子と生活をする中でも、いろいろな困難がありました。そして自分自身の心身の不調等があり、希望を無くしてしまいそうな時、いつも示されるのは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)の御言葉でした。まさに聖書の言葉により「生きる道を示される」のです。イエス様のたとえ話を見つめましょう。私達に深い意味を示し、「生きる道を示される」のであります。
<祈祷>
聖なる神様。生きる道をお示しくださいまして感謝致します。いよいよ御言葉をいただきつつ歩むことを得させてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。