説教「御心をいただくために」

2014年2月2日、六浦谷間の集会 
降誕節第6主日

説教・「御心をいただくために」、鈴木伸治牧師
聖書・歴代誌上29章10-17節
    コリントの信徒への手紙(一)6章12-20節
    マルコによる福音書1章40-45節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・120「いざうたえ友よ」、
   (説教後)讃美歌54年版・494「わが行くみち」


 もはや2月となり、正月の1月は過ぎ去りました。1月は新しい年の始まりで、やはりこの一年を歩む姿勢を示されたいと願うのであります。テレビで報道されていましたが、この寒さの中で寒中水泳をしていました。冷たい海から上がった皆さんは、小さい子供も見られましたが、震えながら焚火にあたり、温かい飲み物を飲んでいました。寒さに負けない強い身体をもって、困難にも負けない歩みをしたい等と述べていました。また、滝籠りというのでしょうか。冷たい滝壺で水を浴びる修業をしている人々がありました。気を引き締めて新しい年を乗り切るということでした。一年の始まりに、まず自分を鍛えて歩み出すということなのでしょう。きっと力強い歩みが導かれるのではないでしょうか。
 昔、若い頃と言っても50歳頃であったかと思います。1月1日に丹沢登山をしました。丹沢登山は時々しておりまして、我が家の子ども、あるいは友人と登っていました。しかし、1月1日に登るということはありませんでした。冬の登山と言っても丹沢なので、いつもの装備で登りました。しかし、やはり冬山でありました。頂上に近づくにつれ、結構雪が積もっていますし、凍結したところもあるのです。そういう場合、アイゼンという登山靴に爪を履かせる物が必要なのです。丹沢登山を軽く考えていたので、そういう物を持参しませんでした。滑りやすい道を恐る、恐るしながら登ったものです。やはり冬山なのですから、それなりの準備が必要でした。深く反省したわけです。
 物事にはそれなりの準備が必要です。綿密な計画が求められるのです。時々報道される火災現場の検証で、設備が整っていなかったり、消防署の警告を聞かないで営業していたことが火災に繋がったことなどが報じられています。耐震診断も、昔は赦されていた基準は、今の地震を想定した場合、大変危険であるという状況になっています。そういう意味でも全国的に見直しがされていること、大切なことであります。常に備えをもって生活することが求められています。これらのことは生活の備えということですが、寒中水泳にしても滝壺に打たれることも精神的な備えでありましょう。
 今朝は、聖書から信仰の備えを示されています。どのようにして信仰が導かれるのか、御心をいただくためにどのようにしたら良いのか、その姿勢を示しているのが今朝の聖書なのです。

 まず旧約聖書の示しをいただきましょう。本日は歴代誌上の示しです。ダビデという王様のお祈りが記されています。ダビデは歴史を通して名君と言われている人です。もともと聖書の人々は王様のいない群れでした。12の部族が神様を信じる宗教連合体でありました。それぞれの地域に住んでいましたが、周辺の国々の侵略を受けたり、攻め込まれたりしていました。そういうときに士師と言われる人が立ち上がり、困難な状況の人々を救済していたのです。それらのことは旧約聖書士師記に記されています。しかし、聖書の人々は、やはり周辺の国々に立ち向かうには王様が必要であると思うようになるのです。それで最初の王様になったのがサウルという人でした。当初、サウルは神様の御心をもって支配しますが、次第に自らの思いで支配するようになります。神様はこのサウルを退け、ダビデを選任します。選任されますがサウルはまだ王様です。そのサウルのもとで仕えるのです。ダビデの働きが人々に称賛されるようになり、サウルはそのダビデに反感を持つようになり殺そうとまで考えるのです。しかし、サウルは戦いで死んでしまい、ついにダビデが王様に就任することになります。ダビデは人間的には過ちがありますが、基本的には神様の御心を実践しつつ支配しましたので、人々から喜ばれる存在になるのでありました。
 あるときダビデは、神殿を造る計画をもちます。その時の気持ちはサムエル記7章に記されています。ダビデ預言者ナタンに言いました。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」と言いまして、神の箱を収める神殿造りを始めようとするのです。神の箱は十戒を収めているのです。その十戒モーセシナイ山で授与されたものです。聖書の人々は奴隷の国から脱出して、神様の約束の土地、乳と蜜の流れるカナンへと導かれていくのです。旅の途上であり、神の箱は幕屋に安置されているのです。幕屋はテントです。移動する時にはテントをたたみ、宿営する時にはテントを張って神の箱を安置するのです。こうして約束の土地に定着しますが、ダビデの時代になっても神の箱はテントの中に置かれていたのです。それでダビデは神の箱を安置する神殿造りを思いたつのでした。すると神様は預言者ナタンを通して御心を伝えるのです。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日まで、家に住まず、すなわち幕屋を住み家として歩んできた」と言い、神殿造りを思いとどまらせたのであります。
 その後、ダビデは神殿造りの準備を始めます。それは子どものソロモンが後継者に決まったからでした。ダビデは神殿造りはできませんが、子供のソロモンが神殿造りをすることになるのです。ダビデは王として多くの戦いをしてきました。多くの血が流されているのです。いわば汚れた身で神殿造りはできないと思うようになっているのです。そして、もはや国は安泰しており、戦いのない時代になっているので、汚れのないソロモンに神殿造りを託したのであります。しかし、ダビデはソロモンに神殿造りを託したとしても、その準備は綿密に行いました。ソロモンは王になったとしても、まだ若く、力もない。だから準備万端でソロモンに託すのであります。そして国民にも協力を求め、必要な物を寄贈するように求めたのであります。そのような準備をしたときに、ダビデは神様にお祈りをささげたのでありました。それで本日の聖書になるのであります。
 ダビデの祈りを示されます。「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者なのでしょう、わたしの民など何者なのでしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈り、準備ができたのも神様のお恵みであるとしているのです。「わたしたちの神、主よ、わたしたちが聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてあなたのものです」とお祈りしているのです。準備万端でありますが、ダビデや人々の力、財産ではなく、すべては神様のお恵みによるものですとお祈りしています。この準備は自分たちの功績等とは言わないのです。神様のお導きとお恵みの故に、この準備が導かれたことを告白しているのです。計画も準備もすべては神様のお導きであるということ、このダビデの祈りは私達の歩みにおいても示されなければならないのです。まだ神殿造りは始まってはいません。しかし、この準備の時から、神様のお導きがあるとしていることです。そこにダビデの信仰を示されるのであります。準備の時から神様の御心を求めるということ、それが信仰者の歩む道であることを示しているのです。

 明日の自分を見つめつつ、今何をすべきかと思います。今年は良い年でありますようにと神仏にお願いすることは人間の素朴な姿であります。もう少し自分の願いが実現するために、そのように思いつつ寒中水泳をしたり、滝壺に打たれたりします。そのような備え、準備をしつつ歩み出しているのです。そういう姿勢に対して、本日は旧約聖書で示されましたように、準備の段階で神様に委ねるということです。自分の力で計画を建てるのではなく、計画の時から神様に委ねることが示されているのです。
 新約聖書はマルコによる福音書1章40節からです。病を持つ人がイエス様によって癒されたことが記されています。その病の人がイエス様のみもとに参りました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とお願いしています。このお願の仕方は、他の人々のお願とは異なります。このマルコによる福音書7章24節以下にフェニキアの女性が、自分の娘が病気なので癒してくださいとお願いしています。その時、イエス様は自分は聖書の人々、イスラエルの人々のために来たのであると言い、女性の願いを断ろうとするのです。それに対して女性は執拗にイエス様にお願いしました。イエス様は女性の信仰を受け止め、娘を癒してあげるのです。イエス様のところに来る人々は、癒してくださいとお願いしております。イエス様の力を信じているからであります。それに対して、本日の病を持つ人のイエス様への願いは異なっているのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。「御心ならば」と言い、まずイエス様の御心を求めているのです。この病の人はイエス様のところに来る前から、イエス様のことについては聞いています。人々が癒されているということです。それを聞いたこの病の人は、それでは私も癒してもらおうと思ったのでしょうか。「御心ならば」という思いが先立っているのです。自分はこのような病を負うものになってしまった。この先、どのように生きて行くのか。その自分に神様はどのように導いて下さるのかとの思いがあったのです。自分のこれからの人生を、神様はどのように導いてくださっているのか、その思いが強かったと言えるでしょう。だからイエス様に対して「御心ならば」と言い、神様の御心は私に対してどのようにお導きになられるのでしょうか、と尋ねているのです。神様の御心であるならば、イエス様が私を清めて下さるとの信仰なのです。いきなり自分の思いを言うのではなく、御心はいかがなのでしょうかとお聞きしているということです。
 イエス様はこの病の人を深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れられたのであります。この病の人は、自分に対して御心を求めているのです。神様の御心は祝福の人生です。悲しみの人生ではありません。自分に対しての御心を求めている病の人に、「御心はあなたが清くなることです」と示されたのであります。しかも、イエス様はこの病の人に触れています。昔は恐ろしい病気でありましたが、そのことに構わず、イエス様はその人に触れられ、神様の御心としてお応えになったのであります。病が治りたい、幸せになりたい、元気になりたい、そのように私達は自分の良き人生を計画しています。しかし、この自分に対して、神様の御心は何であるのかと求めることです。神様の答えは私達が喜ぶこと、それが私達の図式です。願いがかなえられることです。私達の願いは、家内安全、商売繁盛、一家安泰、交通安全、日々健康等であり、それがそのまま答えられることです。神様に対して自分の願いを強引に適えさせようとしていることです。神様を自分のいいなりにさせようとしていることです。そうではないということを今朝の聖書は示しているのです。まず「御心は何ですか」と尋ねることであるのです。ダビデの場合も準備万端であったとしても、このことは御心であり、だから自分の力ではなく、神様の恵みとして受け止めているのです。まず御心を求めることであることを示されているのです。
 本日のコリントの信徒への手紙<一>6章19節に、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と示しています。私達は神殿であり、聖霊が宿ってくださる体であり、だから常に御心を求める生き方が必要であると示しているのです。

 私が30年間牧会していた大塚平安教会は、いよいよ今年は新しい会堂建築が始まります。長い道のりであったと思います。新しい会堂建築は私の在任時代からのお祈りでした。1989年は創立40周年でありました。その時、この期に新会堂を建設する計画を持ちました。その40周年の2、3年前から準備を始めたのです。大塚平安教会の土地は複雑な絡み合いがあり、なかなか困難でありました。その頃、お元気であった佐竹正道さんと土地の問題をめぐって調査したりしました。すぐには解決できないことでもありました。それなら新会堂ではなく、改築ということで進めましたが、それも困難でした。結局、内部の修繕ということにしたのでした。それが今の会堂です。そして60周年を迎え、やはり新しい会堂建設の計画が持ち上がり、設計担当の人々と共に計画を進め始めたのであります。その時にも教会の皆さんで話し合い、いろいろな意見が出されています。今のままで良いと言う人、新しい時代にあった教会建設という意見、今までも論議尽くされている事でもあります。しかし、まず御心を求めての計画ではなかったでしょうか。皆さんが御心を求めてお祈りされたと思います。私が2010年3月に退任する頃は、かなり方向性が定まって来ていました。御心を求めつつ、そしてついに新しい会堂建設は御心であると示されるようになったのであります。
 新しい会堂建設については諸教会の取組みをいろいろと聞いて居ります。ある教会は教会建築を示されたとき、連日祈祷会を開いたということです。この計画は神様の御心なのか、そこから始めたというのです。お祈りをささげているうちにも、これは神様のお導きであると示されて来るようになったということです。人間的な知恵はいくらでもあります。計画はどのようにでもできるでしょう。しかし、人間的な知恵、計画ではなく、まず準備の段階で神様の御心を求めることなのです。私達の人生の準備も御心から始まるのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架を仰ぎ見る人生へと導かれ感謝致します。まず御心を示されて、明日の歩みへと導いてください。主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。