説教「神様の御心はここに、そこに」

2014年1月26日、六浦谷間の集会 
降誕節第5主日

説教・「神様の御心はここに、そこに」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記30章11-14節
    ペトロの手紙(一)1章3-9節
    マルコによる福音書1章21-28節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・121「馬槽のなかに」、
    (説教後)讃美歌54年版・第二編80「み言葉をください」


 昨年の3月から三ヶ月間、マレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会(KLJCF)のボランティア牧師として務めさせていただきました。KLJCFの集会の皆さんとのお交わりも深められ、喜びつつ帰国しました。そのKLJCFに西村正雄さんと信子さんご夫妻がおられ、私達が6月4日に帰国しましたが、それから一ヶ月後くらいにご夫妻は帰国されたようです。しばらくはマレーシアで生活されていたのですが、日本で生活されるようです。KLJCFに諸江修さんという方がおられ、マレーシアのラーマン大学で合唱の指導をされています。その諸江さんがラーマン大学の合唱団を連れて日本公演をされました。昨年の10月2日に新宿文化センターで開催されましたので、私達夫婦も演奏を聞かせていただいたのでした。その時、帰国された西村さんご夫妻ともお会いしたのでした。それ以来お会いしていませんが、数日前に西村信子さんの発信名でメールが入りました。メールの件名が英語で書かれていました。削除してしまったので、はっきり覚えていませんが、「成功の秘訣」というような内容でした。一応メールを開いて見ましたら、文面にはここを開くよう指示されていました。なんかあやしいと思い、マレーシアに滞在しているとき、西村信子さんからいただいたメールのアドレスを確認しました。そうしたら今回送信されたアドレスと同じなのです。それで信用したので、文面にあるURLをクリックしました。そしたら西村さんではなく、やせ薬を売る宣伝でありました。すぐさま削除してしまいましたが、それにしても西村さんのアドレスを使って、このような宣伝を送ってくる手口を危険に思いました。
 テレビでは毎日のように「振り込め詐欺」の被害を報じています。巧みに言い寄っては騙すこと、人間不信に陥ります。人の言葉が信じられなくなっているような社会になっています。詐欺ということでは、私が若い頃、私の母が詐欺にあったことが思い出されます。ある日、私を訪ねてきた若い男が母に「お兄さんいますか」と言いました。母は「伸治のことですか。今は出かけています」と言うと、その男はそれからは「伸ちゃん」というようになり、母はすっかり信用してしまうわけです。結局、幾らかのお金を貸したのでした。もちろんそのような男は知りませんので、交番に母と共に出かけて行き、詐欺にあったことを届けたのでした。今から50年も昔のことです。いつの時代でも、人をだましてお金を巻き上げることがありますが、今の時代は気が遠くなるようなお金が巻き上げられているのです。人の言葉は信用できないのです。まして知らない人の誘いの言葉は信用できないということです。しかし、人間の中に生きているのですから、基本的には人間を信用しなければならないのです。信じるの「信」は人偏に「言う」と書きますから、人の言葉は信じるに値する、ということから「信」の言葉ができているのです。人間の言葉を信用する基となるのは、私達にとって神様の御言葉であるということです。神様の御言葉が基となって、人間の言葉を信用し、共に生きる者へと導かれたいのであります。

 神様の御心が示され、御心により生きること、それが祝福の人生であると聖書は示しています。今朝は旧約聖書申命記の示しであります。申命記との題が付けられていますが、ヘブライ語原典は「言葉」であります.申命記1章1節に「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されていますが、この「言葉」がそのまま題になっていました。日本語で申命記としていますが、これは漢訳聖書から受け継いでいます。申命記の申は「申す」と言うことであり、その「申す」は「重ねて言う」との意味合いがあります。従って、「重ねて神様の御言葉を示す」ことが申命記なのであります。エジプトの奴隷から解放されて、まず人々に与えられたのは十戒でありました。その十戒を基にして神様の御言葉が語られているのであります。この申命記の中で、御言葉を語っているモーセが繰り返し神様のご命令である御言葉を語っているのであります。
 「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と申命記30章11節で示しています。神様が与えた戒めを難しく考えてはいけませんと言うのです。実際、最初に与えられた十戒は、人々が毎日の生活の中で、普通に生活していれば、守っていることの戒めでした。「汝、殺すなかれ」、「汝、盗むなかれ」という戒めなのです。普通の生活をしていれば殺すことも、盗むこともないのです。しかし、自分を中心にすることによって、神様の御心から反する姿が出てくるのです。「この戒めは難しすぎるものではない」と言われますように、生活の中でそのまま受け止めることなのです。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うに及ばない」と示しています。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言われています。御言葉は遠くにあるのではなく、ごく近いところ、あなたの生活の中にあると言われています。
 私の生活の中に御言葉があるのです。わざわざどこかに出かけていく必要はありません。神様が私の生活の中に御言葉を下さっているのです。私が人と話しているときにも御言葉が示されているのです。家庭で家事をしているときにも御言葉は示されているのです。社会の中で働いているときにも御言葉は私の中に置かれているのです。その御言葉か突然響いてくるのです。突然、私に迫ってくるのです。実に御言葉は常に私に与えられていることを認識しなければならないのです。30章16節には「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」と示しています。神様を愛すること、すなわち神様に心を向けること、それにより神様の御声がはっきりと聞こえてきますよと述べています。それが、まさしくあなたの命であると言うのです。神様に心を向けていることにより、私の生活の中にはいつも御言葉があると言うことです。
 申命記は神様の約束の地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にして、モーセが人々に示した神様の御言葉なのです。神様が繰り返しモーセを通して語られてきた御言葉なのです。申命記は繰り返し示されることでありますが、繰り返し神様の御言葉を示されることであります。聖書の人々、奴隷の苦しみに生きていた人々がいました。神様の救いの歴史が始まるのであります。そこに人々がいる。救いの御言葉が与えられ、歴史が始まっていくのであります。私たちも今朝、礼拝に導かれて十字架の救いの御言葉を繰り返し示されているのであります。十字架の救いの言葉は私の生活の中にあると言うことであります。

 新約聖書マルコによる福音書は主イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ、宣教を開始されたことが記されています。そして、すぐに4人のお弟子さんをお選びになり、町々、村々に教えを開始して行ったのであります。イエス様の福音が始まっていったのであります。
 今朝は1章21節からであります。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」のです。会堂はユダヤ教の会堂です。イエス様が教えを始められましたが、ここでキリスト教として教え始めたのではありません。時の社会に現れた主イエス・キリストは、今まで律法により生きている人々に、改めて律法による生き方を示しているのであります。しかし、今まで通りではなく、改めて律法の示すところを見つめなおし、神様の御心を示したのであります。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書5章17節)と言われています。イエス様の一行がカファルナウムに着き、安息日に会堂で教え始められたと聖書は記していますが、今まで人々が示されていた律法を見なおし、律法を心から守って生きるように教えておられるのであります。人々はその教えに非常に驚きました。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたのでありました。
 その権威ある教えについて、マルコによる福音書は記していないので、マタイによる福音書により示されます。マタイによる福音書5章21節以下、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と示しているのです。「汝、殺すなかれ」は十戒の戒めです。その後、人を殺した者は裁きを受けることを加えているのです。普通の生活をしていれば、人を殺すということはありません。ですから人々は、自分は戒律を守っていると思っているのです。しかし、神様はもっと深い意味で示されています。表面的には殺していなくても、内面的には殺している生き方を注意しているのであります。兄弟に、他の存在に腹を立てるということも殺人だというのです。律法、戒律というものは、人が生きる結果でしか判断できません。相手を傷つけた、相手を殺した、そこで律法の効力が出てきます。しかし、人の内面については律法、戒律の及ぶところではないのです。だから内面において、相手を憎み、ののしることがあっても律法、戒律で裁かれることはありません。イエス様はその点を示しているのです。人が内面的にどんな姿でも良いというのではないのです。内面的にも律法に適う生き方が必要なのであります。ここでは「仲直り」について示しています。つまり、相手の存在を尊重すること、相手の存在を受け止めること、それにより表面の生き方が導かれてくるのです。
 イエス様が権威ある者として教えておられると、汚れた霊に取り付かれた男が叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と言いました。そこで、イエス様はその汚れた霊を追い出すのであります。イエス様は人の内面にある罪ある姿に焦点を当てているのです。それが汚れた霊でした。汚れた霊に取り付かれている人々が多くいますので、イエス様は福音を宣べ伝えるのであります。福音が始まりました。多くの人々、汚れた霊の人たちがイエス様によって癒されていくのであります。私の中に御心が置かれること、御心によって生きること、それが今朝の示しであります。モーセ申命記において繰り返し神様の御心を示し、教えました。主イエス・キリストは人間の汚れた霊、すなわち自分中心の生き方、内面にまで律法の光を当てたのです。「あなたがたは神様を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と教えておられます。

 主イエス・キリストによって福音が始まりました。イエス様は繰り返し、繰り返し教えておられます。人々は喜びながらも、福音を真に受け止めることができませんでした。結局、イエス様を十字架により殺してしまうのであります。その十字架が真の救いになりました。主イエス・キリストの十字架の死と共に、私の内面にある汚れた霊も滅ぼされたのであります。私たちはイエス様の十字架の救いを信じています。そして、その救いを人々に示しています。繰り返し、繰り返しイエス様の十字架を示されるのです。しかし、人々は示されてもなかなか福音に生きることはないのです。神様の御言葉は私達が十字架の贖いの救いを仰ぎ見るとき、私の生活の中で、ここに、そこに与えられるのです。
 神様の御言葉は私達の生活の中に示されています。生活の途上、人々の関わりの中で、神様の御言葉が導いてくださっているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」と今朝のペトロの手紙は示しています。私達の信仰の原点であります。「天の財産」は永遠の命です。その永遠の命を目指して生きている私達は、イエス様が導いてくださっている、現実を「神の国」として生きているのです。神の国に生きているのですから、神様の御言葉は現実の生活の中にあるのです。神様の御言葉はここに、そこにあるのです。
 神様の御言葉はどこにあるのか、「ここに」とか「そこに」というのは何所か、素朴に思います。神様の言葉が物体のように、何所かに置かれているようです。それを見つけようとしているのでしょうか。時々、お祈りについて示されることがあります。その時、「大福」のたとえをお話しています。太郎さんが大福を食べたいので、いつも「大福を与えてください」とお祈りしているのです。しかし、太郎さんは大福を食べる機会がないのです。神様はお祈りを聞いてくれないのだ、と思ってしまうのです。しかし、神様はお祈りを聞かれないのではなく、別の形でお応えになっているのです。大福に代わる食べ物です。小さい子供が、寝る前に甘い食べ物をお母さんにねだりますが、お母さんは与えないでしょう。その代わりお水を少し飲ませてあげるとか、添い寝して本を読んで上げるとか、子供の願いに答えているのです。この例話と同じです。神様の御心を求めている私達は、自分の思っているような神様の御心を待っているのです。自分の思いではない、神様の御心は「ここに」、「そこに」示されているのです。この現実の中に御心が与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様が神様の御心を教えてくださいました。生活の中に与えられている御言葉で導いてください。イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン。