説教「祝福の人生を歩むために」

2014年2月16日、三崎教会 
降誕節第8主日

説教・「祝福の人生を歩むために」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言2章1-15節、
    マルコによる福音書4章1-9節
賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」、
    (説教後)讃美歌21・433「あるがままわれを」


 二週続いての大雪に、皆さんも大変であったでありましよう。家の周りの道路の雪かき、家のベランダにもたくさんの雪が積もり、処理するのが大変でした。今日は雪かきと言う慣れないことをしたので、体中の痛みをもっています。一週間前の2月8日の大雪は、経験したことのない人が多く、大変な日となりました。翌日は日曜日であり、天気になりましたが、雪の片付で大変でした。当日の礼拝は横須賀上町教会の礼拝に赴くことになっており、いつもは車で出かけていましたが、追浜駅まで歩き、電車で行くことになりました。駅までの道も、朝なのであまり人が歩いてなく、雪が積もった道を歩かなければなれませんでした。我が家の子供達の勧めで杖をもって歩くことにしました。杖の効用は大当たりで、滑りそうな時に大いに役に立ちました。教会の皆さんも、大雪で礼拝に出席できない人がおられました。こちらの皆さんも礼拝に出席できなかった方もおられるのではないかと思います。横須賀上町教会は横須賀中央駅から坂を登って行きます。まさに上町であります。そのため、坂はまだ滑りやすいのでバスで向かったのでした。幸いバスは動いていました、それほど待たなくても乗ることができたのであります。
 雪道を杖の支えで歩くこと、何か人生の指針を与えられるようであります。私の連れ合いも最近は杖を持って歩いていますが、杖が歩行の支えとなると思うと安心できるのです。私の持っている杖は登山用のもので、折りたたみ式になっています。登山をするときは、山の起伏を歩くときには、大いに杖を頼りに歩くことができるのです。歩く支えとなることは大切なことであります。雪道を杖の支えで歩いたことから、人生の支えと言うことをつくづくと示されたのであります。私達は自分の人生を歩く時、何かの支えを持っています。それは家族の支えであり、友人の支えであります。そして、自分に指針を与えてくれるような格言でもあります。趣味を喜びとすることも人生の支えであります。この自分が支えを基として生きること、そこに勇気と希望が与えられて歩んでいるのです。
 私達にとって人生の支えはイエス・キリストの十字架の救いであります。聖書に証しされている救いの事実をしっかりといただき、人生の支えてしているのであります。本日も私達はイエス様によって示される御心を支えとして示されるのであります。
 2月の半ばを歩んでいますが、教会の暦はこの時期になると受難節となることが多いのです。昨年の場合、受難節は2月13日から始まっています。40日間、イエス様のご受難、十字架の救いを仰ぎ見ながら過ごすのであります。しかし、今年はイースター、復活祭が4月20日になりますので、受難節が遅くなっているのです。今年の受難節は3月5日からになりますので、昨年よりも二週間遅くなっています。遅くなっている分、イエス様の教えをいただくことになるのです。私達の人生の支えを示してくださり、御心をお示しくださっては私達に人生の指針を与えてくださっているのであります。

 その人生の指針を旧約聖書が示しています。まず、旧約聖書箴言の示しをいただきましょう。箴言は針の言葉であります。針のようにちくちくと私たちの心を刺します。それは神様の御言葉が真実であるからであり、偽りがある私たちの心を刺すのであります。箴言とはそのような意味合いで記されているのです。箴言は神様の知恵を私たちに示しています。知恵と言う場合、長い歴史の中で培われてきた事柄であり、生きて行く上に大変便利であり、生活の糧になる場合を考えます。例えば、漢方と言い、長い歴史の中で人間のためになる薬草等は知恵の産物でもあります。先祖代々にわたり、培ってきた生き方があり、それらも歴史に育まれた知恵であります。
 私の書斎には「健康十訓」という格言が掲げられています。手ぬぐいに書かれているもので、旅行した際、土産物屋で売っていたので、面白いので買い求め、部屋に掲げているのです。健康のためにこのように努めましょう、というわけです。「小肉多菜」の説明は「お肉ほどほど、野菜たっぷり、健康もりもり」ということです。「少憂多眠」の説明は「くよくよしたって同じ、とっとと寝てしまおう」ということです。その他にもありますが、なるほどと思います。このような人生訓、あるいは格言というものは、生活から生まれてきた人間の知恵でもあります。それはそれで参考になりますが、私たちの命そのものを導くものではありません。このわたしを一人の存在として真に生かす存在、主イエス・キリストの教えに向かいたいのであります。
 聖書で知恵と言う場合、人間の長い経験で生み出されたものではなく、神様の御心をいただくことが知恵ということなのです。箴言2章は「父の諭し」とされています。父親が子どもを諭す設定で神様の御心が示されているのです。「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向って声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」と示しています。御言葉に向う姿勢を導いているのです。示される御言葉に全身を傾け、そこから指針をいただく姿勢です。神様のお示しに全身を向けるなら、「神を知ることに到達するであろう」と示されています。そして、「知恵を授けるのは主」であると断言しています。人間の経験から生まれることではなく、神様のお心が知恵であり、人間が祝福の人生を歩むことへと導かれるのであります。
 「また、あなたは悟るであろう。正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるので、あなたは悪い道から救い出される」と示しています。神様の御心をいただくことが知恵のある生き方なのです。自分の思いや経験では行き詰まりがあるのです。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵のはじめ」と示しています。神様に心を向けることが、知恵ある生き方へと導かれることを示しているのです。従って、この箴言は「父親の諭し」とあるように、親が子に、高齢者が若者に知恵を示し、祝福の人生を促しているのです。その知恵をいただいて生きるとき、ただ教えられたことを聞くのではなく、その教えの意味、その教えの奥にあるもの、それを自らが尋ねるとき、知恵の力が増し加わるのであります。
 旧約聖書では、動物の中で反芻する動物は清いとされ、反芻しない動物は汚れているとしています。反芻は食べて飲み込んだものを再び口に戻して噛み砕くのであります。このことから「先生の言葉を反芻する」と言う言い方がありますが、知恵は示された御言葉を、「はい、分かりました」で終わるのではなく、一度飲み込みますが、再び心に示されて御言葉の意味を示されるのであります。神様の御言葉を繰り返し心に示されることなのであります。このようにして箴言は人々を導き、人生の指針を与えているのです。

 主イエス・キリストは神様の教えを多くの人々に教えて人生の指針を与えておられます。その中で心から御言葉に向かうことを導いておられます。今朝の聖書はイエス様が具体的な教えをされておられます。イエス様の種を蒔く人のたとえを示されましょう。
 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と始められています。種を蒔いていると、ある種は道端に落ちたということです。聖書の時代の種蒔きと言うのは、バラバラと蒔くのです。日本の場合は、畝を作り、丁寧に蒔いていきます。バラバラと蒔くので、種によっては風に乗って別のところに落ちるのです。道端に落ちる種もあります。道端に落ちた種は鳥が来て食べてしまったということです。他の種は、石だらけの土の少ないところにおちました。これは畑の端のほうで、そこはあまり耕してもいないので、土の下は石がたくさんある状態でした。すぐ芽を出しますが。下からの水分がなく、太陽の熱で涸れてしまうのであります。そして、他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草の生えているところです。畑と道端の境が茨の状態です。そこに落ちた種は、茨が生えているくらいですから芽が出るのです。しかし、茨に邪魔をされて実を結ばないのであります。そして、多くの場合、種は良い土地に蒔かれるのです。そこでは芽生え、育ち、豊かな実を結ぶということであります。「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった」と言うことです。このたとえ話をされたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われ、人々へのお話を終えるのであります。このイエス様のたとえ話を聞いた人々は、このお話をどのように受け止めたのでしょう。面白いお話と思う人、当たり前のことを話していると思う人がいたでありましょう。お話しの奥義を求めなければなりません。
 群衆がいなくなった後で、お弟子さん達がイエス様にたとえについて聞きました。その時、イエス様は「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われました。人々が真に聞く耳を持たず、悟ろうとしないからです。そこでイエス様はお弟子さん達にたとえの奥義を示されました。それについては4章13節以下で示しています。すなわち、道端に種が落ちること、道端は固いので種は土の中に入りません。いわば種を受け付けないのです。それは人の心の姿なのです。御言葉をはねつけてしまう姿勢です。石だらけの土地に落ちた種は芽が出ます。それは御言葉を喜んで受け入れる人です。しかし、根を張ることができないので、苦しいことがあるとつまずいてしまうというのです。茨の中に落ちた種も芽を出しますから、御言葉を受け入れる人です。しかし、御言葉をいただくものの、この世の思い煩い、富の誘惑、欲望が心に入り込み、御言葉の成長を止めるというのです。しかし、良い土地に蒔かれた種は芽を出し、健やかに成長するのです。御言葉が成長する姿勢をもっているからです。
 この種を蒔く人のたとえ話は、御言葉にどのように向くかを示しています。神様の御言葉を、よく耕された良い土地として受け止めるならば、祝福の成長があるということです。御言葉をいただく姿勢です。旧約聖書で示されているように、神様のお心に向くこと、それが知恵であり、生きる祝福になるのであります。ここで、注意しなければならないのは、この種を蒔く人のたとえ話を示されて、自分は道端である、石だらけの場所である、茨のような場所であると思ってしまうことです。だから私は御言葉が育たない、信仰が薄いと結論付けないことであります。ある場合には道端のような時もあり、石だらけの土地のような状況にいることもあり、茨の土地のような状況であることもあります。しかし、多くの場合、私たちは良い土地として、御言葉をいただき100倍の祝福へと導かれているのであります。神様に心を向ける限り、良い土地の状況なのです。知恵が与えられる状況なのです。従って、今朝も御言葉をいただくために、この礼拝へと集められているのです。祝福へと導かれています。神様の知恵が与えられているのであります。

前週2月14日はバレンタインデーということで、例によってチョコレートが飛び交いました。前任の大塚平安教会時代、幼稚園の責任担っていましたので、バレンタインデーにはいろいろな方からチョコレートいただいて喜んでいました。幼稚園の子供達からも小さいチョコーレート一個ですが、贈られました。隠退している今、チョコーレートをくださる方はなくなりました。しかし、一人の方がわざわざ贈ってくださり、年寄りながら喜んでいるのです。クリスマスにしてもバレンタインデーにしても、本質がどこかにいってしまって、表面的なことで楽しんでいるのであります。ところで、バレンタインデーについてお話しながら祝福の人生を示されたかったのですが、実は昨年の説教でも触れておりますので、今回は触れないことにします。しかし、この2月14日は前任の大塚平安教会時代、一人の方が召天された日であります。イエス様の御心を示されて、祝福の人生を歩んだと思います。1979年に私は大塚平安教会に就任しました。就任後、1年くらいした時、教会幼稚園を卒業した青年が訪ねて来るようになりました。彼は大学受験の浪人中で、勉強に疲れたと言っては牧師を訪ねて来るのです。いろいろなお話をするのでした。そして春になり、彼は大学受験が合格したのです。合格したら礼拝に出席すると言っていたのですが来ないのです。それで連絡してみると腰痛で入院していたのでした。その後、その腰痛は腫瘍であることが判明しましたが、手遅れであり、下半身麻痺となりました。しかし、車椅子でも元気に過ごしていたのですが、腫瘍は全身に転移していたのです。入院している彼を毎週木曜日にお見舞いしていました。一緒に聖書を読み、その聖書について語り合っていました。そういう中で彼の信仰が導かれていったのです。退院したら洗礼を受けたいと述べていました。しかし、病状が進む中で、彼のお父さんが、もはや退院できないと判断し、病室で洗礼を受けることを勧めたのでした。自分も一緒に洗礼を受けるから、と彼を励ましたのでした。そして洗礼を受けて一ヶ月後に召天されたのです。青年のお母さんもその後洗礼を受けました。両親が信仰へと導かれたのは、愛する息子さんからであったのです。その後、お父さんは教会の役員まで担いました。教会の皆さんと共に信仰の歩み、祝福の人生へと導かれていたのです。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、救いの喜びを増し加えながら、御国へと導かれて言ったのであります。
<祈祷>
聖なる神様。私たちをイエス様により神の国に生きる者へと導いてくださり感謝いたします。日々、御言葉に向かい、100倍の実を結ばせてください。主の名によって。アーメン。