説教「祝福をいただく」

2019年9月15日、三崎教会
聖霊降臨節第15主日

説教・「祝福をいただく」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言25章2-6節
   ルカによる福音書14章7-14節
賛美・(説教前)讃美歌21・156「目を上げ、わたしは見る」
   (説教後)讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」


 明日の9月16日は「敬老の日」とされています。昔は「敬老の日」は9月15日であり、固定的になっていました。しかし、祝日法案が決まり、祝日は日曜日の翌日、月曜日にして連休にしたのです。1月の「成人の日」、7月の「海の日」、9月の「敬老の日」、10月の「体育の日」等が月曜日になり、毎年日程が変わることになります。
 「敬老の日」は一般的に70歳以上の皆さんをお祝いし、慰労するという方針です。先日、床屋さんに行きましたら、その床屋さんは町内会の世話役をしているということで、敬老の日についてお客さんと話していました。町内には70歳以上の人が80人位おり、それらの人たちにお祝いの品物を配布することについて話していました。町内には高齢者が多くいるのに、中学生までの子供は20人位だというのです。まさに高齢化時代であるわけです。
 大塚平安教会で牧会していた頃、長寿者のお祝いをしていました。教会の慶弔規定に、75歳になったら高齢者としてお祝いするということなのです。そしたら、75歳で長寿者としてお祝いされることに抵抗を覚える方がおられました。それで80歳、85歳、90歳、95歳の皆さんをお祝いしていたのでした。教会では単に高齢者のお祝いではなく、信仰の証を残されているお祝いということです。だから教会の高齢者のお祝いをお受けくださることが大切です。人間的なお祝いではなく、神様からの祝福であるからです。
高齢者に関していろいろ考えさせられていますが、今朝の聖書は高齢者に限らず、神様から祝福をいただくことの示しになっています。人間的な評価、栄誉、称賛等がありますが、人間ではなく神様の栄誉、評価、祝福こそ求めなければならないのであります。

 今朝の旧約聖書箴言の示しであります。箴言の「箴」は「針」の意味であり、「チクリと胸を刺す」言葉ということになります。いわゆる、警告の言葉ということになりますが、昔からの「言い伝え」に関わることもあるのです。日本には「ことわざ」がありますが、昔から言い伝えられてきたことが格言となって、生活の知恵になっているのです。例えば、「井の中の蛙大海を知らず」という「ことわざ」があります。狭い世界の中に安住して、それを最も良いと思っている独りよがりの姿を戒める言葉です。自分の住んでいる世界以外のことは、基本的には知ることができないが、書物や体験によって広い世界を知ることになるのです。それから「人間万事塞翁が馬」という「ことわざ」があります。塞のそばに住んでいる老人の馬が逃げてしまいますが、やがて北方の良い馬を連れて帰ってくるのです。老人の息子は喜んでその良い馬に乗りましたが、落馬して足を悪くしてしまうのです。ところが、それが幸いして兵役を免れたのでした。幸福だと思ったことが不幸になり、不幸だと思うことが幸福になるという、人の思いを超えることがあるということです。格言とか「ことわざ」は生活の途上、教訓になる事柄が言い伝えられて固定的な教えとなるのです。
 箴言は格言、「ことわざ」的な要素がありますが、そこに神様の御心が示されているということで、単に格言ということにはならないのです。ソロモン王の言葉として示されているのです。旧約聖書では、ソロモンという王様は神様から知恵をいただき、人々に神様の御心として示しましたので、箴言はソロモンが与えたとされています。しかし、もちろんソロモンではなく、後の賢者がその時代に神様の御心として示したのでした。そのためには長い年月を経て箴言という形になって行ったのです。
 今朝の箴言25章は王様の立場あるいは上に立つ者の示しであります。「ことを隠すのは神の誉れ、ことを極めるのは王の誉れ」と示しています。王様は示されている事柄を権威を持って極め、実行することが務めなのです。しかし、神様は人間に対してまだまだ御心を隠しておられるということです。人間は示されていることを、極め、実行することだと教えているのです。関連する聖書の言葉は、申命記29章28節に「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、掲示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」と記されています。モーセが人々に語っている説教です。神様の御心は計り知ることができないが、示されている神様の御言葉があり、その御言葉を行うことが人間の務めであると教えているのです。
 6、7節の言葉、「高貴な人の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くように言われる方が良い」と言われていますが、この言葉は新約聖書で主イエス・キリストが引用している言葉でもあります。箴言では、神様の御心を深く受け止め、実践することが私達の生き方であると、ソロモンの名を借りて教えているのです。

 今朝のルカによる福音書14章7節以下に示されているイエス様の教えです。この日は安息日でありましたが、イエス様は病気の人を癒しました。そこには律法の専門家やファリサイ派の人々がいました。彼らは律法に忠実に生きようとしていますから、安息日を厳格に守っていたのです。律法によれば、安息日は何もしてはいけない、一切働くことを禁じているのです。しかし、イエス様は安息日は喜びの日であることを示し、病気の人を癒したのです。そのことから、安息日は私たちの永遠の生涯の安息であることを示されたのでした。
 この同じ食事の席で、食事に関してのお話をしています。一つは食事に招かれること、一つは食事に招くことのお話をしているのです。イエス様はファリサイ派のある議員の家で食事の席についているのです。律法学者もおり、かなりの人が共に食事の席にいたのでしょう。その食事は招待された人々で、イエス様も招待されたということです。イエス様は招待された人たちが上席を選ぶ様子を見ていたのです。日本の私達はいつも下座を選びますから、下座はいつも満席で、上席とは言いませんが、前の席ががらんと空いているのです。あるいは下座に座りたがり、後から来た人を上座に据えようとして、互いに譲り合いをしている様を見かけます。聖書の世界では、ファリサイ派の議員に招待されたので、自分は身分的にも上であると思っているのでしょう。そのような光景を見られたイエス様は、「へりくだる」ことを教えているのです。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたを招いた人が来て、『この方に席を譲ってください。』と言うかもしれない。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」とお話されました。そして、結びとして、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と言うことでした。食事の席の座り方に着いて教えていると言うのではなく、へりくだること、自分の行動が人に評価されないことを教えているのです。評価は神様がするのであり、人の評価を求める生き方ではなく神様の評価を求めて生きなさいと教えているのです。日本の結婚式の場合は、招待する人が席を決めるので、自分から上席に座るということはありませんが、定められた席に座ることで、自分の立場を考えさせられるわけです。自分ではなく人の評価がそこにあるということです。それで満足する場合、不満に思う場合がありますから、やはりイエス様の教えを受け止めなければならないということです。
 人々を食事に招くことについての教えは、神様の愛を広く実践しなさいとの教えになります。食事の席に招くのは、友人、兄弟、親類、近所の金持ちではいけないと言うことです。これは自分の世界の人々であり、神様の愛を広く実践しなければならないとの教えです。食事に招かれるにしても、食事に招くにしても、神様の評価、神様が祝福してくださることを求めて行うことの教えです。食事に招くのは、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と教えます。その人たちは、あなたにお返し出来ないからだとしています。自分のしたことに対して、人の評価を求めること、人間の素朴な姿であります。自分の行為が何らかの形で帰ってくるという期待でもあるのです。
 主イエス・キリストは、「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えています。愛を持って生きなさいと教えているのですが、愛を持って生きることに、評価を求めるとしたら、愛の実践にはなりません。それは自分のためになってしまうからです。愛の実践は自分を捨てることなのです。ルカによる福音書18章24節以下で、お弟子さんのペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」とイエス様に尋ねています。その時、イエス様は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と答えています。家族や畑を捨てると言われていますが、自分を超えるということです。家族や生活の場には自分の思いが込められているのですが、自分を超えるということで、「あなたの隣人を愛する」歩みが導かれて来るのです。家族や畑を捨てなさいというのではなく、自分中心を超えなさいと教えているのです。人の評価を求めるのではなく、神様の評価、誉れ、祝福を求めることなのです。

 映画「最後の忠臣蔵」を見ました。スペインへ赴く飛行機の中で見ました。大石内蔵助は、いよいよ主君の仇、吉良上野介を打つべく江戸に向かうのですが、その時、大石は自分の隠し子を一人の家来に託します。まだ、赤子でしたが、その家来は田舎に引っ込んで育てるのです。周りの人たちは、その家来が大石と共に討ち入りをしなかったことで、罵り、さげすむのです。その家来はいかなる暴言、乱暴を受けても耐えています。育てている大石の子供が成人し、どこかに落ち着くまで、一生懸命に育てるのでした。その育てている娘を町の大店の息子が見染めるのです。いよいよ、嫁入りの日、駕籠に乗せて大店の家に向かいます。すると、今まで罵声を浴びせ、乱暴した人々が、このお籠のお伴をさせてくださいと土下座してお願いするのです。この家来が大石内蔵助の隠し子を育てていたことを初めて知ったのです。籠が赴く途上、だんだんのお伴の人々が増えてきます。一様にその家来に誤り、ぜひお伴をさせてくださいとお願いするのです。今や人々の評価が上がり、その家来は有名人になったわけです。ところが、結婚の祝いの席にその家来はいませんでした。家来は自宅に帰り、もはや自分の使命は終わったと、大石内蔵助の位牌の前で自害するのでした。生きていれば、人々の評価で英雄にもなることができたのですが、自分の使命は大石の意思を貫くことであったのです。大石のために生きることが目的であったのです。
 例話としては、あまりふさわしくないかもしれませんが、主イエス・キリストの十字架の救いを喜ぶ人生は、人々の評価ではなく、ただ神様の誉れをいただくための歩み、証人としての歩みをすることであります。隣人を愛して生きることで人々の評価が上がるかも知れません。しかし、人々の評価ではなく、神様の誉れをいただきたいのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。導きを感謝します。何事も神様からの誉れを求めて歩むことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com