説教「平和な道を歩む」

2015年2月1日 六浦谷間の集会礼拝
降誕節第6主日

説教・「平和な道を歩む」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言3章1-8節
    コリントの信徒への手紙<一>4章14-21節
    ルカによる福音書8章4-15節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・124「みくにをも」
(説教後)讃美歌54年版・234 A「昔主イエスの」


 今朝の聖書日課は「教えるキリスト」がテーマになっています。イエス様の教えをしっかりいただいて力強く歩みたいのであります。そのため、「平和な道を歩む」という題にして御言葉を示されています。またスペインのお話しになります。いろいろな体験をしてきましたので、それらの体験を通して御言葉を示されたいのであります。今回のバルセロナ滞在は羊子の結婚式でありました。サグラダ・ファミリアの神父さんが、プロテスタントの牧師でありますが、一緒に結婚式の司式を提案してくれましたので、この前代未聞の体験させていただいたのです。その時、司式者の一人としてメッセージを取り次ぐことでした。そして聖書を選ぶことですが、神父さんは聖書を選ぶことについては私にお任せでした。それで私は羊子にも関わりのあるヨハネによる福音書10章14節、15節を選びました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」との御言葉です。その時、私は次のように奨励しました。
<奨励>
イエス・キリストはご自身をいろいろなものにたとえています。「わたしは世の光である」、
「わたしはぶどうの木である」、「わたしは命のパンである」等とたとえていますが、本日、ここで結婚式を挙げるイグナシさんと羊子さんに対して、イエス・キリストは「わたしは良い羊飼いである」と示しています。なぜイエス・キリストは良い羊飼いなのでしょうか。それはイエス・キリストが羊である私達を知っているからです。「知っている」のは私の真実の姿であり、他の人が評価している姿ではなく、まさに真実の姿なのです。羊飼いはたくさんの羊を飼っていますが、例えば100匹の羊を飼っている場合、100匹の羊の一匹、一匹を知っているのです。それは誰かから聞いたのではなく、羊飼いであるイエス・キリストが直接一匹の羊を見つめ、その羊の存在を受け止めておられるのです。それは人間である私達に対しても同じであります。
 私達は一人の人を理解する場合、誰かに聞いて理解しようとしますが、それは正しい理解ではありません。まず、自分がその人を見つめ、理解しなければならないのです。そのことをイエス・キリストはご自分と神様の関係として示しているのです。神様はイエス・キリストを見つめておられます。イエス・キリストも神様を見つめておられます。そこで神様の御心がしめされて来るのです。それはイエス・キリストと私達との関係でもあります。イエス・キリストは私を知っています。真実に私を見つめてくださり、私の本当の姿を受け止めてくださっているのです。
私達もまた真実見つめあわなければなりません。それは誰かが言っていることではなく、私が相手を見つめることにより、相手が真実な人であることを知るようになるのです。私はこの人を知っている、この人も私を知っている、そういう関係が祝福の二人なのです。知っているのは、私が真実相手を見つめているからであります。「知ること」、「知られること」、勇気をもってこの関係を築いていかなければなりません。誤解、偏見は私が真実相手を見ていないからです。誰かの理解を自分のものにしてしまっているのです。誰かの理解、助言もすべて捨てて、私の真実において相手を見つめることです。
「あなたはイグナシである」、「あなたは羊子である」とイエス・キリストが見つめてくださっていますから、あなたがたも一人の存在として見つめあいながら歩むことです。そこに二人の夫婦としての祝福の歩みが導かれて来るのです。

以上の日本語の奨励をマドリッドにおられます吉川祥永さんとフェルナンドさんに、スペイン語に訳していただいたのです。その訳したものを羊子が親しくさせていただいているホセ・ルイス神父さんに、結婚式で読んでいただいたのでした。この様なことがありましたので、12月25日に羊子がホセ・ルイス神父さんのカトリック教会におけるクリスマス・ミサに出席したとき、ホセ・ルイス神父さんが、私も一緒にミサを司るよう勧めてくださったのです。短い奨励をしました。それを羊子がスペイン語に訳したのでした。その後、ホセ・ルイス神父さんは皆さんに会うたびにミサの奨励が良かったとお話しくださるのでした。私としては結婚式の奨励にしても、クリスマス・ミサの奨励にしても聖書の教え、イエス様の教えを取り次いだのです。イエス様の教えが喜ばれたと示されています。

 今朝は聖書の「教え」について示されるのであります。「教え」については神様ご自身が旧約聖書において示されているのであります。日本語では箴言と訳されているのでありますが、ヘブライ語は「マーシャール」であり、この言葉をどのように訳すのかは、苦労があるようです。この言葉は「比較」、「類例」などの意味があります。確かに箴言は比較が頻繁に出てきます。深い真理を分かりやすい事柄と対照させて教えていると言われます。格言であり、箴言としてチクリと呼び覚ますのです。
 箴言の冒頭に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とありますから、ソロモンが書いていると思われますが、これは後の人が書いたものです。確かにソロモン王は神様から知恵をいただき、知恵を持って人々を治めました。この箴言の中にもソロモン的な示しがありますが、後の人たちがまとめたものでした。聖書の人々がバビロンに捕われ、苦しい生活をしましたが、この箴言が書かれるのはその後の時代です。もはやバビロンに捕われているのではなく、エルサレムに帰った人々なのです。帰還したものの、社会的にも不安定です。宗教的にも定まらない状況でもありました。そうした中で、真の神様の御心に生きることを示し、神様を中心に生きることが、どのような生き方なのかを示しているのです。神様の御心から離れている人々にとっては、針のようにチクリと来る言葉なのであります。
 今朝の箴言は「父の諭し」として、子供に示しているのであります。「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう」と教えています。「わたしの戒め」とは十戒で示されている人間の基本的な生き方なのです。十戒は第五戒から人間関係の戒めであります。その最初の戒めは、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と教えられています。父と母は、長い人生の中で神様の御心を教えられて生きてきたのです、神様の御心を宿す存在として、御心を教えられる存在として敬うということです。神様の御心を持って生きるならば、祝福の長生きが与えられるということです。第五戒にそれを示しており、その後の「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人について偽証してはならない」、「隣人の家を欲してはならない」と教えられますが、省略されていますが、その後には「そうすれば主が与えられる土地に長く生きることができる」と教えられているのです。神様の御心に生きることは祝福の長生きであるということです。今、この箴言も「わたしの教え、戒めを納めなさい」と示し、「そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられる」と示しているのであります。旧約聖書の基本的な教えであります。

 聖書の基本的な教えを旧約聖書により示されました。基本的な教えは主イエス・キリストも人々に示しているのであります。イエス様の宣教は、ある時には神様の大きな業を示します。奇跡物語であります。そして、神様の御心を優しく人々に示しています。優しく示すのでありますが、イエス様は「たとえ話」をもって神様の御心を示すことが多いということです。ルカによる福音書8章4節以下15節は、「種をまく人」のたとえ話であります。大勢の人々がイエス様のもとに集まってきたので、それらの人々にたとえをもってお話されました。ある人が種を蒔きに行きました。その種が四つの場所に落ちたという設定です。ある種は道端に落ちました。日本の種まきのように、畝を作り丁寧にまくのではなく、種をばらまくようにまきます。岩波書店の商標マークが「種まく人」ですが、空に向けて大きく蒔いている状況です。従って、風に乗って道端に落ちる種もあるのです。道端ですから、人に踏みつけられ、やがて鳥が来て食べてしまうのです。他の種は石地に落ちたと言います。石地は畑の端になります。そこは良く耕されてはいないので、土の下は石がごろごろとあるのです。従って根を張り、芽を出しますが、十分に水分を吸収できないので枯れてしまうのです。他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草です。雑草と共に成長しますが、その雑草に押しつぶされてしまうというのです。他の種は良い土地に落ちたと言いますが、もともとはよい土地に蒔いているのですから、大かたは良い土地にまかれるということであります。中には道端、石地、雑草の中に落ちる種もあるということです。よい土地にまかれた種は百倍の実を結んだとお話されています。
 このたとえ話を聞いた大勢の人々はどのように受け止めたのでしょう。そうだ、そうだと聞いていたでありましょう。よい土地にまかれなければならないのであると感心した人もあるでしょう。そうであれば、このお話は一般的なお話であり、当たり前のことをお話したにすぎません。だから、この当たり前のお話には意味があるのだろうと、お弟子さん達がたとえ話の意味を尋ねたのでありました。そこでイエス様は、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と説明しています。つまりイエス様のお話を真の神様の御心として、真に神の国に生きる喜びが与えられるのです。しかし、人々は単に心に響くお話しか求めていなかったのであります。「見ても見えない、聞いても理解できない」人々、これは私たちも反省しなければならないのです。主イエス・キリストの教えは、私達が神の国に生きるためなのです。
 そこでお弟子さん達に「種を蒔く人」のたとえの意味を示されました。道端に落ちた種は、土の中に入ることができないのであり、御言葉を最初からはねつけているのであります。悪魔が御言葉を奪い去ると説明されています。石地に落ちた種は芽が出ます。しかし、石地ですから根を張ることができないのです。だから弱い存在であり、問題があれば御言葉が無くなってしまうのです。茨の中に落ちた種は、成長するものの、周りに対する気遣いが多く、実を熟することができない状態を示しているのです。そして、良い土地に蒔かれた種は実を結ぶと示しています。注意したいのは、マタイによる福音書、マルコによる福音書にも、このたとえ話が示されていますが、良い土地に蒔かれた種の、実の結び方が異なるのであります。マタイによる福音書は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである」と示しています。マルコによる福音書は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と示しています。今朝、私達が示されているルカによる福音書は、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と示しているのであります。
 マタイは「悟る人」であり、マルコは「受け入れる人」であります。しかし、ルカは「善い心で御言葉を聞く」人なのであります。ただ蒔かれるということではなく、積極的に蒔かれることを待ち望んでいるのであります。そして、「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。そして、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれ、悟り、受け入れても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカは、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。

 私達は御言葉に対して「道端」であり、「石地」であり、「茨」であると決めつけてはなりません。よく、そのように自分をあてはめる人がおられます。「立派な善い心で御言葉を聞く」姿勢を持たなければならないのです。そして、いただいた御言葉を守り、忍耐して生きることが求められているのです。御言葉を聞いたから、すぐ百倍の実が与えられるという短絡的な姿勢であってはならないのです。御言葉をいただいたら、その御言葉によって養われることなのです。信仰生活の実りというものなのです。
 主イエス・キリストの教えは、神様の御心であります。私達は福音書で教えられているイエス様の教えを喜ぶのでありますが、私達は主イエス・キリストの十字架の贖いが根底になっていることを忘れてはならないのであります。十字架の救いが基となって、イエス様のたとえ話をいただかなければならないのであります、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶことができるのは、イエス様の十字架の導きであります。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様の御教えを感謝致します。十字架のお導きにより、教えを実践できますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。