説教「示されている歩み」

2019年9月8日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第14主日



説教・「示されている歩み」、鈴木伸治牧師
聖書・ 出エジプト記23章10-13節

   ローマの信徒への手紙14章1-9節
   ルカによる福音書14章1-6節
賛美・(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」
   (説教後)讃美歌21・81「主の食卓を囲み」

私たちが聖書を開き、示されることは神様の御心をいただくことであります。与えられている命を、祝福のうちに歩むことがキリスト者の歩みなのです。そのために礼拝をささげ、御心をいただき、神様を仰ぎ見つつ生きるのです。私たちが、やがて来るべき永遠の命に召されるためなのです。
 今朝は9月8日ですが、前週の9月4日は前任の教会、大塚平安教会の井馬美恵さんが天に召された日として心に示されています。井馬さんを示されるとき、神様のもとへ栄光の輝きのうちに召されたということでした。92歳でありましたが、9月14日がお誕生日ですから、間もなく93歳になろうとしておられました。生まれたときから神様を仰ぎ見つつ歩まれて、93年間、「示されている歩み」を踏みしめながらの人生でありました。
 私は1979年9月に赴任しましたが、8月末に前任の陸前古川教会からやってまいりました。婦人会の皆さんや大矢幸男さんのお出迎えをいただき、その後、お茶をいただきながらお交わりをしたのです。その時、新しい牧師を心待ちにしておられる方、すなわち井馬美恵さんについて伺いました。その時、目の手術で入院されていたのです。この井馬美恵さんと前任の陸前古川教会の佐瀬春子さんがお友達であることはお知らせいただいておりました。佐瀬さんの娘さん菊地峰子さんが大塚平安教会の教会員であったからです。ですから、全く知らない方ではなく、なるべく早くお会いしたいと思っていました。そして、間もなく相模原国立病院におられる井馬美恵さんを連れ合いと共にお見舞いしたのでした。それが最初の出会いであります。退院されますと、今までのように教会を中心とする歩みを続けられるのであります。礼拝は休むことなく、いろいろな奉仕をされながら信仰の歩みをされていたことが思い出されます。
 その井馬美恵さんの信仰をつくづく示されましたのは、1993年10月18日の信徒伝道日でお証されたことによります。私は、この井馬美恵さんのお証をメモに取っていましたので、1999年に発行された「大塚平安教会50周年記念誌」に掲載させていただきました。その一文を紹介致します。
「私は、毎日、朝起きると共にお祈りしています。人のために生きることができますようにと祈るのです。今は、ご奉仕はしておりません。何年か前まで教会学校の先生をさせていただいておりましたが、病気のため辞めました。従って、今はただ祈るだけです。このまま年を重ね、ボケていくのですが、命の終わりまで光を与えてくださいと祈っております。私の二番目の姉は、礼拝で先生の説教は分からなくなっておりますが、顔は光りかがやいているのです。ボケていても栄光に輝いているのです。私は、だからボケることを恐れていません。世の終わりが先に来ても、また私自身の終わりが来ても、主のみ心のままに召される喜びを持っているのです。」まさに井馬美恵さんは栄光に輝くお顔でした。

 旧約聖書出エジプト記23章10節以下は「安息年」の示しであり、12節以下は「安息日」の示しであります。「安息日」についての示しは、創世記に記されています。創世記1章と2章に天地創造が記されています。1章1節以下に、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。天地の初めについては、誰も見たわけでもないのですが、信仰を持って記しているのです。従って、創世記をもって宇宙万物の始まりということではありません。信仰的に示されなければならないのです。混沌とした状況に、神様が「光あれ」と言葉を与えると、光が現れてくるのです。神様は次々に言葉を与え、天地を造られて行ったということです。つまり神様の言葉が形あるものを創造していくということなのです。何が何だかさっぱり分からない社会だからこそ、神様が言葉を与え、形あるものに導いておられるということです。こうして6日間で創造されたのです。7日目、天地万物は完成され、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されています。そして、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。第七の日を神は祝福し、聖別された」と記しています。
 このことから聖書の人々は「安息日」を大事にすることになります。聖書の人々が奴隷の国エジプトから脱出した時、神様は人々が基本的に神様の御心に生きるよう「十戒」を与えています。出エジプト記20章に「十戒」が記されています。その第四戒は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」との戒めになっています。聖書の人々は、示されたように生きるようになります。いわゆるユダヤ教の中心的な教えとなるのであります。
 今朝の聖書は、改めて「十戒」を教え直しているのですが、「安息日」と共に「安息年」についても示しています。「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目にはそれを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるが良い。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない」と定めています。ここでは一週間の安息日を拡大して、七年間における安息年としているのです。安息日の場合は、牛やろばが休み、奴隷の子供たち、寄留者が元気を回復するために「安息日」を守らなければならないとしています。従って、神様が七日目に創造の業をお休みし、お休みとしたのは、この日に人々が、神様の創造を讃美し、感謝するのですが、それと共に乏しい者が生きるように導いているということなのです。また、労働者達の回復のためであるとしているのです。
 「安息日」、「安息年」と示されるとき、ここに「安息生涯」が示されているということです。六日の間、与えられた賜物により働きます。六年の間、働きが導かれます。七日目、七年目の安息を示されながら、一生の間、「示されている歩み」によって生きるとき、ついに栄光の輝きのうちに天に召されること、ここに真の「安息生涯」が示されているのです。「安息日」の示しは、私達の永遠の生命の導きであるのです。私達にとっては土曜日の安息日ではなく、日曜日の主イエス・キリストの復活日でありますが、私達の安息日であり、礼拝をささげつつ生涯が導かれ、永遠の安息が与えられるということです。

 ルカによる福音書14章1節以下は、「安息日に水腫の人をいやす」イエス様を示しています。水腫といいますが、「むくみ」のような表情です。他の聖書の場合、安息日にイエス様が病気の人をいやしたりすると、時の指導者達、律法の専門家やファリサイ派の人々がイエス様を批判していることが記されます。しかし、ここでは批判される前に、安息日に病気が癒されることの是非について、イエス様が律法の専門家やファリサイ派の人々に問うているのです。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問うています。確かに律法は、安息日には何もしてはならない、と示しています。その日は聖なる日としなければならないからです。律法の専門家達は聖書の教えを知っているはずです。従って、イエス様の問いかけには答えることができないのです。イエス様は水腫を患う人を癒してあげました。そして、イエス様は、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われたのであります。律法の専門家やファリサイ派の人々は何も言うことができませんでした。その通りであるからです。
 今朝の聖書から「示されている歩み」ということを示されています。「示されている」とは神様の御心に従うということです。神様の御心とは、人が共に生きて、神様の創造の恵みを喜びつつ生きることなのです。それでも、神様の御心が分からないというので、神様は「十戒」を与えられたのです。十の戒めですが、この戒めは人間が基本的に共に生きることを教えているのであり、一つひとつの戒めは神様の御心であるということです。「汝、父母を敬え」、「汝、殺すなかれ」、「汝、姦淫するなかれ」、「汝、盗むなかれ」、「汝、偽るなかれ」、「汝、むさぼるなかれ」と教えられています。これは人間関係の戒めです。この基本的な戒めは、戒められなくても当たり前のことなのですが、人間は当たり前の生き方ができないのです。戒めとして、常に守ることを専念して生きることが求められているのです。
 あるお医者さんに電話があり、病人が危篤であるからと病院から招集がかかりました。お医者さんは車を飛ばして病院に駆けつけるのですが、途中スピード違反で警察官につかまってしまいます。しかし、事情を話すと、パトカーが先導して猛スピードで病院に急行したというお話があります。状況的には交通ルールを違反しなければならないこともあるのです。規則通り、定められた通り、戒め通りに生きることが「示されている歩み」とはならないのです。そこに神様の御心があるかということなのです。
 ルカによる福音書18章18節以下に、「金持ちの議員」について記されています。金持ちの議員がイエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。するとイエス様は、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と答えられました。すると金持ちの議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」というのです。それに対して、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と言われました。金持ちの議員は悲しみながら立ち去ったと記しています。掟、戒めを守る時、そこに神様の御心があるかということです。人間は定められた戒めを守ることができないので、主イエス・キリストは十字架にお架りになり、人間の根本的な罪、自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。この十字架の救いを基として生きること、それが「示されている歩み」であります。神様の御心に従う人生が導かれるのであります。

 最初に召天された井馬美恵さんのお証を与えられました。井馬美恵さんは、私が大塚平安教会に1979年に赴任した時、教会学校の教師ではありませんでした。1981年から教師になられています。その頃の井馬さんは62、3歳頃かと思われます。牧師が説教で、奉仕には年齢が無く、ある教会では80歳を過ぎている方が教会学校の教師をしている、と述べたのでした。その説教を深く受けとめられた井馬さんは、早速教師になることを申し出られたのです。御言葉を常にいただき、服従する歩みでありました。井馬美恵さんは92歳で、この数年は介護ホームで過ごされていました。時々、お訪ねしていました。時には私たちが分からないのではないかと思われる時がありました。しかし、「井馬さーん」と呼びかけると「はーい」とお返事をされるのです。そういう姿を見ながら、井馬さんがお証されていた知的後退を恐れないということを心に思い浮かべていました。たとえばそのようになっても栄光の輝きを持っていたいと言われていましたが、まさに栄光の姿であると思いました。ひたすら十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むとき、自ずと栄光に輝く姿へと導かれて行くのです。
 私達には「安息生涯」がありますから、「示されている歩み」を踏みしめながら人生を送りたいのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私たちの人生を祝福へとお導きくださり感謝します。安息の喜びをさらに導いてください。主イエス様の御名によりささげます。アーメン。

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