説教「人生設計の基本になること」

2019年9月22日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第16主日



説教・「人生設計の基本となること」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記下18章28~19章1節
   ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節
   ルカによる福音書14章25~35節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」、
   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 


 日本では一昨日から「お彼岸」になっています。秋分の日の前後3日、計7日間をお彼岸というそうです。もともと「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である「此岸(しがん)」にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち「彼岸」(ひがん)の境地へ到達することが出来るというものです。いわゆる「お彼岸」にお墓参りすることで極楽浄土へ行くことができるということであります。それは、先祖のよき姿を示されて、正しい道が導かれるということではないでしょうか。「彼岸」は「日願」から来ているとも言われています。日々、彼岸を願いつつ生きるということなのです。
 今年は9月23日が秋分の日、「お彼岸」ですから、前後3日間ずつ7日間です。ですから26日まで「お彼岸」が続いているということです。今日あたりも墓参に行く人も多いことでしょう。
 仏教の「お彼岸」は極楽浄土への思いを深めることになりますが、キリスト教では永遠の生命への信仰と言うことであり、その思いは重なることになります。しかし、仏教の場合は、今の「お彼岸」の時期に極楽浄土への思いを深めるのであり、春の「お彼岸」を除いては、日々の生活の中で極楽浄土への思いは薄らぐということになるでしょう。その意味では、キリスト教は日々の生活において「神の国」に生きることが願いであり、また「神の国」に生きる喜びを与えられているのです。昔、聞いた落語の中で、「なんまいだ、なんまいだ、死んでも命がありますように」と言いながら生きている人のことを面白く語っていました。「死んだら命はありません」と落語が言っているのですが、だから笑いを誘う訳です。しかし、死んでも命があるということは人間の素朴な願いなのです。極楽浄土にしても永遠の生命にしても、人間が死にゆく者として、平安を与える教えとなるのです。
 私達は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、日々の生活の中で主の御心を実践して歩むことにより、現実が神の国としての歩みが導かれ、そのまま永遠の生命に導かれて行くという信仰を持っているのです。キリスト教は日々神の国に生きるものですから、毎日が永遠の生命をいただいているのです。「お彼岸」と言うことで、私達も一層、主の道を歩むことを示されるのであります
 9月23日は秋分の日であり、これからは日がだんだん短くなってきます。今でも午後6時頃は暗くなっています。この時、主イエス・キリストの言葉が意味深く示されてきます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(ヨハネによる福音書9章4節)。この言葉はイエス様が生まれつき目の見えない人を癒す時に言われた言葉です。人間は誰もが日のあるうちに働き、働くことができない夜に備えることを教えているのです。神様の御心を喜びつつ行いなさいと教えています。これからは日が短くなっていくのです。神様の御心を行う時間が少なくなっていくのです。そういう意味合いにおいて、今後の主の道を歩みたいと願うのであります。

 旧約聖書ダビデの苦悩を示しつつ、神様の御心に生きることを示しています。サムエル記下18章28節以下が今朝の聖書です。ダビデは名君と言われた王様になりますが、王様に至る道はなかなか困難でした。もともと聖書の人々は王国ではなく、ヤコブの12人の子供たちがそれぞれ部族を形成し、その12部族の宗教連合体をイスラエルと称していたのです。イスラエルとはヤコブの別名であり、神様から与えられたのです。王国ではないので、なかなか一つになって戦うことは困難でした。それを反省して、一人の王を立て、王国として周辺の国々に対処することにしたのでした。最初の王様はサウルでした。しかし、サウルは、はじめは神様の御心をもって治めていたのですが、次第に自分の腹で支配するようになるのです。それで神様はサウルを見限り、次なる王様としてダビデを選ぶのです。しかし、選ばれても現実にはサウル王が居る訳で、サウルに仕えることになります。ところがダビデは戦いを通して目覚ましい働きをするので、人々はダビデを高く評価するようになります。それを知ったサウル王は面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。サウルから逃れて生きるようになりますが、そのサウルはペリシテ人との戦いで死んでしまいます。それにより、ようやくダビデは王様になるのです。
 今朝の聖書は王様としてのダビデでありますが、人間的な苦悩に生きるダビデの姿です。今朝の聖書では、ダビデが「わたしの息子アブサロムよ。わたしがお前に代わって死ねばよかった」と嘆き悲しんでいるのであります。ここだけ読んだのでは、父親の子どもへの悲しみなのですが、アブサロムは父のダビデ王に対して反旗を翻したのです。従って、父と子が戦うことになったのです。アブサロムが父と戦いをしなければならなくなった状況は、聖書に細かく記されています。ここでは割愛しますが、ダビデはアブサロムが戦いを挑んできたとき、愛する子供との戦は避けており、むしろダビデは逃げて隠れるのでした。そういう状況でしたがアブサロムの軍とダビデの軍が決戦となり、ダビデの軍が勝利をおさめます。アブサロムは逃亡の中で発見され、殺されることになるのです。その知らせを聞いたダビデは身を震わせて泣いたというのです。戦いの相手は自分の息子アブサロムでした。しかし、戦いの相手であっても、愛する息子なのです。それでダビデは悲しみに暮れるのです。
 このダビデの悲しみは、親子であるので当然でありますが、ダビデに従い、反旗を翻したアブサロムの軍と戦ったダビデの家来たちからすれば、自分たちの戦いは何であったのかと言うことになります。ダビデ王様のために、反旗を翻したアブサロムと戦ったのですから、死んだアブサロムの故に嘆き悲しむダビデ王様が分からなくなってしまう訳です。そのため、軍隊の長であるヨアブはダビデに家来の心境を話すのでした。それでダビデは、極めて人間的にふるまったことを反省し、王としての道を歩むことになるのです。王として生きる責任があります。しかし、王であると共に家族を持つ者として、極めて人間的な姿を持つのです。ダビデは愛する家族のアブサロムでありますが、王としての生き方が求められているのです。その生きる道は神様の御心が今後の人生設計の基本になることを示されているのです。

 主イエス・キリストは、私たちにキリスト者としての生き方をはっきりと示しています。今朝の新約聖書ルカによる福音書14章25節以下は「弟子の条件」として、イエス様が信仰に生きる姿勢を教えているのです。このことに関しては、前週も「祝福をいただく」との説教でも主イエス・キリストを信じて生きる姿勢を示されています。そこでは「永遠の命」をいただく者としての歩みを示されたのでした。ルカによる福音書18章24節以下で、お弟子さんのペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」とイエス様に尋ねています。その時、イエス様は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と答えています。今朝の聖書は同じような示しでありますが、「十字架を背負う」と言うことで、キリスト者としての生き方を教えているのです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と示しています。18章では「家族を捨てる」と言っていますが、今朝の14章では「家族を憎む」と言っているのです。口語訳聖書はどちらも「捨てる」と言う言葉で訳されています。言葉そのものは違うのですが、聖書全体からして「憎む」より「捨てる」として理解した方が良いと思います。
 イエス様の弟子へと招かれたペトロ、ヤコブヨハネの最初の弟子たちは、漁師でありましたが、イエス様の召しにより、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5章11節)のであります。弟子になるには、まず「捨てる」ことでした。そして、今朝の聖書は「弟子の条件」として、改めて「捨てる」ことを教えているのです。何よりも神様がイエス様を「捨てる」のであります。イエス様を捨てることにより、人間の真の救いが与えられたのです。十字架は神様がイエス様を捨てた証であり、その証こそ人間の救いとなったということなのであります。
 救いは「捨てる」ことであるということです。前回も示されましたが、この「捨てる」ということ、家族と訣別するというのではなく、家族に中心を置いている自分を捨てるということなのです。自分の生き方は主イエス・キリストの救いを信じて生きることであり、家族を思うあまり信仰が薄らぐことの警告であるのです。旧約聖書ダビデの生き方に示される通りです。王として生きるのか、家族を心に留めながら生きるのかと言うことであります。家族を捨てるという聖書の教えは、信仰を持たない人には誤解を呼び、つまずきともなります。聖書は良い教えが記されているので、一生懸命読んでいるのですが、この部分の「家族を捨てる」ことの教えとなると、ここで聖書を放り出してしまうのです。こんな教えにはついていけないと思うのです。家族は何よりも自分の大切な存在であるからです。これは文字通り「家族を捨てる」と言うことになるのですが、家族を常に中心としている自分を捨てるということなのです。自分の喜び、自分のもの、自分の世界を捨てなさいということであります。そうでなければイエス様が教えた「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という生き方は出来ないのです。隣人を愛するということは自分を捨てることであり、自分の気持ちを超えて相手を受け入れることなのです。
 仏教の言葉ですが、「慈悲喜捨」があります。これは、「人に情け、あわれみをかけるなら、喜んで自分を捨てなさい」と言う意味でもあります。仏教の世界でも自分を捨てることが教えられていますが、私達は主イエス・キリストの教えとして、自分を捨て、共に生きる者へと導かれるのです。
 主イエス・キリストは、自分を捨てるということは、自分の人生のそろばんをはじくようなものだと教えています。二つのたとえをお話しています。一つは、塔を立てる場合、十分な費用があるかどうか計算する。計算もしないで工事を進めているうちに、お金が無くなって工事を進められなくなると言う訳です。さらに、戦いをする場合、相手の軍隊と味方の軍隊とを比較し、戦うことができるかどうか検討する。不利だと分かれば和解するといことです。何事も計算し、もくろみ、それにより歩むわけですが、それと同じように、あなたがたの人生を計算し、もくろみなさい、そろばんをはじきなさいと教えているのです。自分を捨てる、自分の思いを超えて生きる人生が、どんなにか祝福であるか、そろばんをはじけば分かるであろうと教えているのです。その自分を捨てるということが「十字架を背負う」という教えとなるのです。

 私の書斎には、「ただ一事を務む」と書かれた色紙が掲げられています。これは私が神学校を卒業する時、当時の校長であった岡田五作先生が書いてくださったものです。私達卒業生を招いて夕食をご馳走してくださり、その時、人数分の色紙を差し出されました。みなそれぞれ書かれている言葉が異なりましたが、私は選んでいただいたというより、たまたま手にした色紙をいただいたわけです。この色紙を常に書斎に飾っていました。「ただ一事を務む」との岡田先生のお言葉はイエス様のお言葉でもあるのです。すなわち、自分を捨てなさいということです。「ただ一事」は主イエス・キリストの御心であり、「自分を愛するように、隣人を愛する」一事なのです。この岡田先生には、深い導きをいただいています。
 若いころ、神学校に入るのは23歳でした。その頃、自分の人生設計をいろいろと考えていました。神学校に入らないで、その頃も高齢になっている両親と共に暮らすことも責任として示されていました。しかし、牧師への道を導いてくださったのはイエス様の十字架であると示されているのです。
「ただ一事」の他には、いろいろな思いが募ってくるのですが、これを務めることが十字架を背負うことだと示されているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを感謝します。この救いを「ただ一事」として歩むことができますよう導いてください。イエス様の御名によりおささげします。アーメン。

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