説教「お恵みを数えながら」

2019年9月29日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第17主日

説教・「お恵みを数えながら」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記37章3~11節

   コロサイの信徒への手紙3章12~17節
   ルカによる福音書15章11~24節
賛美、(説教前)讃美歌21・127「み恵みあふれる」

   (説教後)288「恵みにかがやき」

 


 今朝の日本基督教団の聖書の主題は「新しい人間」ということであります。私たちは日々、自分の生活を導かれていますが、「新しい人間」として歩むことが示されているのです。そのためには常に神様の御心を求めて歩むことなのです。その歩みが「お恵みを数えながら」の歩みとなるのです。「新しい人間」はいつも神様のお恵みを示されながら歩んでいるのです。
 毎月、月末になるとバルセロナ日本語で聖書を読む会の月報が送られてきます。楽しく、またいろいろと考えさせられながら拝見しています。私たちも何回かバルセロナに滞在しています。娘がバルセロナに住んでいるからです。ピアノの演奏活動をしているのです。滞在中にもバルセロナ日本語で聖書を読む会の集会に出席させていただきました。その集会では説教をさせていただいてもいるのです。もう20年以上も集会を続けています。月に一度ですが、バルセロナに滞在している日本人の皆さんが集まり集会を開いているのです。主催している下山さんという方はクリスチャンですが牧師ではありません。しかし、中心になって皆さんと共に聖書に向き、御心を示されているのです。時にはヨーロッパから伝道者をお招きしてメッセージをいただいています。ヨーロッパは日本において国内で飛行機に乗るくらいの近さであり、2時間も飛行機に乗ればバルセロナに来ることができるのです。そのため、伝道者をお招きしているのです。集会にはバルセロナに滞在している人々、また一時的に滞在している人々がお集まりになり、礼拝をささげているのでした。小さな集いかもしれませんが、その集会を通して御心を示され、新しい人間へと導かれ、日々、お恵みをいただきながら歩んでいるのです。
 私たちは2013年にマレーシア・クアラルンプールに三ヶ月滞在しました。ここにも日本語集会があり、短い期間でしたが、ボランティア牧師として赴いたのでした。この集会もマレーシア在住の皆さんが集会を持っているのですが、商社マンの皆さんがマレーシアに派遣され、そういう中でこの集会を見つけ、出席されるのです。短期間の滞在でも、この集会に出席しては御心を示されているのでした。時々、お便りをいただきますが、いろいろな人々の出席があり、いつも新しい皆さんを示されています。それだけにこの集会が大切なことを示されています。礼拝は現地の基督兄弟団の教会の集会室を借りて、日曜日の午後4時から開かれていました。5時過ぎには礼拝が終わり、お集まりの皆さんとお茶の会が開かれますが、その後は解散となります。その後は有志ですが、いつも夕食を共にしていました。家に帰って夕食の支度をするより、皆さんと共にどこかのレストランで食事をした方がよいのです。そのお交わりも喜びでした。神様の御心を一層示されるときでもありました。日々の生活を喜びつつ歩む、神様のお恵みを数えつつ歩むことを示されたのでした。

 私たちが「お恵みを数えながら」歩むということ、それは私たちが神様の御心に生かされていることを知ることです。今、私が居る状況に神様の御心が与えられていることを知ること、この私が「新しくされて」いることなのです。旧約聖書はヨセフを通して証しています。
 旧約聖書は創世記37章3節から11節まで読まれましたが、本来28節までが今朝の聖書ですが割愛しました。メッセージの中で示されるからです。聖書は最初に神様から選ばれた人としてアブラハムを記します。そして次がイサクであり、ヤコブへと族長時代が続きます。そのヤコブには12人の子供が与えられます。3節に「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」と記されています。イスラエルとはヤコブの別名で、神様から与えられた名前であります。創世記32章23節以下に「ぺヌエルの格闘」が記されています。ヤボクの渡しでヤコブが神の存在と格闘したというくだりです。その時、与えられた名がイスラエルでした。後にヤコブの子供たち、12部族全体をイスラエルと称するようになり、さらにイスラエル国家という名称になっていきます。
 ヤコブには12人の子供たちが居ます。古代のことですから、一人の女性から生まれたのではなく4人の女性から生まれた子供たちです。ヤコブは本来ラケルを愛していましたが、その家のしきたりとして姉のレアと結婚しなければなりませんでした。そして続いて妹のラケルと結婚することになるのです。二人の奥さんが居たわけです。姉のレアは6人の男の子を産みますが、妹のラケルは子供が生まれません。それでラケルは自分の召し使いビルハにより子供を産ませ自分の子供にするのです。ビルハは二人の男の子を産みます。姉のレアはもはや自分には子供ができないと判断し、自分の召し使いジルパから子供を二人産ませるのです。そして、ついにヤコブの愛するラケルからも子供が二人出来ることになります。11番目の子供がラケルの子でヨセフでありました。ヤコブの二人の妻による子供の産み比べにより、12人の子供たちが与えられたのでした。
 今朝の聖書は11番目の子供ヨセフが新しくされていくことを示しているのです。ヤコブは11番目の子供は愛するラケルの子供であり、特別にかわいがりました。聖書にも記されるように他の子供たちは、ヤコブのヨセフへの溺愛を面白くなく、ヨセフを憎むようになるのです。ヨセフも父の愛を受けながら、兄達を見くびっていたのであります。ヨセフは夢をみます。「わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結えていると、いきなりわたしの束が起きあがり、真直ぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」というのでした。これを聞いた兄たちは面白くありません。ますますヨセフを憎むのです。それからまたヨセフは夢を見て、両親や兄弟たちに話します。「太陽と月と11の星がわたしにひれ伏しているのです」というと、父はヨセフを叱るのですが、そのヨセフの夢を心に留めたのでした。ヨセフ自身も夢の意味が分かりません。しかし、次第に自分に注がれている神様の御心に目覚めて行くのです。
 ヨセフは兄弟たちの妬みと憎しみでエジプトに奴隷として売られていきます。そのエジプトで、計らずもエジプトの王様の不思議な夢を解いてあげるのでした。王様はヨセフが与えた夢の解説に満足し、自分の次に位置する大臣に命じます。王様の夢は、7年間の豊作の後に7年間大飢饉、冷害がやってくるので、豊作を大事に貯蔵しなさいということです。そして、まさにその後の大飢饉は大変なものでした。しかし、貯蔵されている穀物によりエジプトは安泰であったのです。飢饉はヤコブの一族が住んでいるカナン地方にもおよび、エジプトには食料があるからと、ヤコブの子供たち、ヨセフの兄弟たちが買い出しにやってくるのです。そこで大臣のヨセフと、ヨセフを奴隷に売り飛ばした兄弟達との対面となります。その時、ヨセフは「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです」と述べたのでした。兄弟たちは、ヨセフが身を明かしたとき、非常に恐れたのでしたが、ヨセフは神様のご計画として、今ここにわたしが居ると示したのでした。今、自分には神様の御心が注がれていることを受け止めているのです。生意気な、憎むべき存在のヨセフでしたが、神様の御心の中にいる存在へと導かれているのです。ヨセフはその神様の現実に与えられる御心を受け止めたのでした。まさにお恵みを数えながら、新しくされたのであります。

 この私に神様の御心が注がれていることを受け止めること、それが「お恵みを数えながら」の歩みであり、新しくされる生き方なのです。主イエス・キリストも一つのたとえ話を示しながら、神様の御心が注がれていることを知り、新しく生まれ変わった人をお話しています。
 新約聖書ルカによる福音書15章11節以下は、「放蕩息子」のお話です。このイエス様のお話は、悔い改める教えとして、良く知られている聖書です。ここで解説しなくても、この聖書をそのまま読めば、神様の御心が示されて来るのです。もちろん、悔い改めに関して示されるのでありますが、今朝は、神様の御心が注がれていることを知ることで、新しく生きる者へと導かれることの示しなのであります。ルカによる福音書15章は、三つのたとえ話が記されていますが、いずれも失われた存在が戻ってくる喜びとして示されています。1節からは「見失った羊」のたとえ話ですが、迷子の羊を羊飼いがどこまでも探し歩いて、そして見つかったということで喜ぶことが記されています。8節からは、「無くした銀貨」を家中探し、見つかったということで、近所の人たちと喜び会うことが記されています。その喜びは人間の喜びですが、天の喜びであると示しているのです。三つ目のお話は、動物とか銀貨ではなく、人間が戻ってくることでした。
 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」と記しています。彼は遠い国へと行ったようです。なるべく父から離れた所と考えたのでしょう。そこで放蕩三昧に過ごしましたので、お金は瞬く間に無くなります。やむなく豚飼いの仕事をします。聖書の人々は、豚は汚れた動物としていますから、豚飼いの仕事は、まさに惨めな姿であり、どん底まで落ちたということです。そういう中で、彼は空腹のあまり、父のところに帰る決心をするのです。それはパンのためです。食べるものが無いから父のところに戻るのです。これが動機です。そして、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」との言葉を言うつもりで帰ってゆくのです。父親は帰ってきた息子をみると、すぐに抱きしめて喜ぶのです。道々、言うべきことを息子は言うことができませんでした。「雇い人の一人にしてください」との言葉を父親は言わせなかったのでした。息子の父のもとへ戻る動機はパンの故です。しかし、どのような姿勢で戻ってこようとも、父はこの放蕩息子を、愛をもって受け止めたのです。この時、この息子は父の御心を知ることになります。自分がどこに生きても、どのような生き方をしても、自分に御心を注いでいるということを知ったのです。もはや、今ここにいるのはパンの故ではなく、自分に御心が注がれていることを知ったからなのです。

 私たちが教会に導かれること、いろいろな動機があります。教会で歌われる讃美歌に心が洗われるようで、それで毎週礼拝に出席するようになるのです。あるいは教会の交わりは楽しいものです。放蕩息子の父のもとへ帰る動機はパンを食べるためです。その時点では悔い改めはありません。そういう動機でよろしいのです。そういう動機で教会に集ううちに、この自分の存在を受け止め、御心を示してくださっている神様を示されるようになるのです。何よりも主イエス・キリストの十字架の贖いへと導かれた時、神様が自分を深く見つめておられ、イエス様により神様が私を導いてくださっていることを信じるのです。
 先ほどはヤコブの子供たちから主の御心を示されました。その父親のヤコブですが、彼は生きることに策略をもっていました。まず兄のエサウをだまして兄の権利を奪いとってしまうのです。兄の怒りから逃れて母の兄ラバンのもとにいますが、そこで巧みに自分の羊を増やしていくのです。非常に狡猾なヤコブですが、そのヤコブが神様の導きを知ることになります。エサウから逃れてラバンのもとへ行く途上、野宿するのですが、寝ている中で、天使が天への階段を上り下りしている夢を見るのでした。さらに神様がヤコブの歩みを祝福していることを示されます。眠りから覚めたとき、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白するのでした。まことに主がここにいて、私に御心を示してくださっているのです。私の現実に主の御心が与えられているのです。
 日曜日に礼拝へと導かれ、賛美ささげ、御言葉を与えられること、新しい一週間の基です。「私は一週間の歩みで、魂がからからに乾いて礼拝に参りました。今日の礼拝で満たされました、一週間の力が与えられました」とお喜びをもちながらご挨拶されて帰られていくかたがあります。そんなに我慢しなくても、毎日御心が与えられているのです。日曜日の礼拝だけが御心を与える日ではなく、日々、御言葉が与えられており、日々、「お恵みを数えながら」歩むことなのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。日々、御心を与えてくださり感謝致します。御心を行う者へとお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。

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