説教「慈しみをいただきつつ」

2014年8月24日、三崎教会
聖霊降臨節第12主日

説教・「慈しみをいただきつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書54章4-10節
    マルコによる福音書10章13-16節
賛美・(説教前)讃美歌21・152「みめぐみふかき主に」
    (説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」


 8月の聖書日課は、第1聖日には「平和聖日」として聖書を示されましたが、広島や長崎に原子爆弾が落とされ、8月15日の敗戦記念日等があり、平和を祈る月でありました。それと共に、この8月は「家族」を示される月であると示されています。今朝の聖書も家族について示されているのであります。もはや民族の大移動が終わりましたが、いわゆるお盆休みで故郷に帰省される家族が多く、車の大渋滞、満員の電車、空の便の報道が終わったばかりです。8月の半ばころがお盆休みということになります。家族として帰省するのですが、仏教的には先祖も家に帰ってくるということです。私は、両親は浄土真宗の信者でありました。お盆になりますと「迎え火」「送り火」と言いまして、玄関先でわらを燃やし、なすやきゅうりに足をつけて、いわゆる牛や馬にして先祖を迎え、また送り出すということをしていました。家族が帰省して、先祖まで帰ってきて、お互いに生きていることを確認することは、これは意味があることであります。スペインでは、11月1日は聖人の日とされています。その日には焼き芋や焼き栗を食べ、天国にいる聖人を示されるということです。先祖と交わること、素朴な思いですが、世界的にも行われていることです。従って、お盆はとても大切なことであると、私はキリスト教の牧師ですが、仏教の行事を受け止めているのです。
ところで以前のニュースで、100歳以上の人が30名も所在が分からないと報道されていました。最近は連絡してないから、どこにいるか分からないという家族の言い分です。家族としてというより、子どもとして親の所在、安否が心配にならないのでしょうか。今は子どもの所在が分からないということで問題になっています。
私は大塚平安教会在任時代、社会福祉法人である知的障害者施設に出かけては共に礼拝をささげていました。30年間で二つのホーム合わせて50名位の方が召天され、葬儀を司ってまいりました。ホームに入所していますが、家族が一度も面会に来ない人もいます。そういう人が亡くなりますと、今まで一度も来なかった家族でありますが、葬儀には家族として来ることになります。しかし、必ずしも葬儀でくるのではなく、亡くなった方が所持していたお金が目的であることも事実です。遺産を渡したら遺骨を置いて帰ってしまったということもありました。そこでホームでは家族が遺骨を持ち、帰る時になって遺産というものを渡すことにしているということでした。
愛する家族でありますが、肉体的に別れの時があり、離れていくものですが、精神的にも離れて行くこともあるのです。家族であっても音信がないということ、全然気にしないということの現実があります。家とは何であるか、家族とは何であるのか。聖書が示す普遍的な家族を示され、家族の喜びを持ちながら、この人生を歩みたいと願っています。

 旧約聖書イザヤ書による示しであります。今朝の聖書の背景は苦しみに生きる人々を励まし、慰めているのであります。すなわち、聖書の人々はバビロンという大国に囚われの身分であります。紀元前587年、聖書の南ユダの国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。その時、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そのバビロンで囚われの身分として生きなければならなかったのであります。
 聖書の国は小さな国であり、当初はイスラエル国家でありましたが、お家騒動で国が二つに分かれ、北イスラエルと南ユダの国になりました。北イスラエルは紀元前721年にアッシリアという国に滅ぼされています。そして南ユダも滅ぼされてしまうのです。聖書は滅ぼされる原因は、確かに外国の力によるものですが、聖書の人々の不信仰を示すのであります。すなわち、神様の御心、神様の力により頼むのではなく、外国の力に頼もうとしたのであります。バビロンに対してはエジプトに力を要請しながら対抗しようとしたのであります。そうした人間の思い、人間の力に依存する姿に対して、神様は審判を与えています。むしろ神様が囚われの身へと追いやったことも示されるのであります。今、希望を持たない人々にイザヤは神様の御心として示しています。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」と示しているのです。きわめて人間的な姿を神様に当てはめています。人間も気持ちの持ち方で一人の人を近づけたり、遠ざけたりします。人間的な思いで神様の人間への迫り方を記している訳です。
 人間的な神様を記していますが、旧約聖書はしばしば神様と人間との関係を家族と結びあわせて示しています。今朝の聖書では5節に「あなたの造り主があなたの夫となられる」と示し、神様と聖書の人々が夫婦の関係として、それだけ密接な関係であると示しているのであります。神様と聖書の人々の関係を夫婦として意味深く示したのはホセアという預言者でありました。ホセアはゴメルという妻がいますが、そのゴメルがホセアを裏切り、他の男性のもとへ行ってしまうのであります。本来、そこで夫婦の関係は無くなるのでありますが、ホセアはこの妻を捨てず、彼女を迎え入れたのであります。それは自分の体験を通して、神様の深い導きを示されたからであります。すなわち、聖書の人々が歴史を通して神様に導かれてきました。それは神様と聖書の人々には密接な関係があったということです。ところが、聖書の人々は偶像の神に心を向けて行くのであります。真の神様に導かれているのに、他の神に心を向けること、姦淫であります。姦淫を行う聖書の人々に対し、心を改め、神様のもとに立ち帰るならば、神様は赦しを与え、再び恵みと慈しみを与えてくださることを示したのがホセアでありました。ホセアは自分の体験を通して神様の御心を示されたのであります。むしろ、姦淫の妻を受け入れるのは神様の導きであったのであります。
 このように神様と聖書の人々との関係は家族であることを示していますが、実際の家族の姿は、ドロドロとした姿が示されています。最初の人であるアブラハム、そしてその妻サラの姿が示されます。「あなたがたに天の星のように子孫を与えると」との約束を神様から与えられますが、現実には子どもが与えられません。そして次第に年齢を重ねていく夫婦は、もう神様の約束をあてにせず、サラに仕えている女性ハガルから、アブラハムにより子どもを生まれさせるのであります。ハガルは自分が身ごもると主人であるサラを見下すようになるのです。それで、サラはハガルを追放するということになります。しかし、神様はもはや高齢のアブラハムとサラにイサクという子どもを生まれさせるのであります。神様の約束は実現したのです。イサクの時代になりますと、妻リベカの間にエサウヤコブの双子が生まれます。イサクはたくましく育つエサウを愛し、母のリベカは優しく育つヤコブを愛すのであります。エサウヤコブの相続争いがあり、家族の崩壊が示されています。そして、ヤコブの時代でありますが、ヤコブの二人の妻、そしてそれぞれに仕える女性から12人の子供が生まれるのです。父親のヤコブは11番目の子供、愛する妻ラケルの子供、ヨセフを溺愛いたします。他の兄弟たちは父のヨセフへの愛情に妬みを持ち、ヨセフを殺す計画を持つのであります。結局、ヨセフは兄弟たちによりエジプトに奴隷として売られてしまうのであります。ここにも家族のドロドロとした姿が見えてくるのです。しかし、聖書はそのようなドロドロとした家族の中に導きを与えておられます。追放されたハガルと子どものイシマエルに生きる道を与えています。ヤコブが相続権を勝ちとってしまいますが、兄のエサウにも生きる方向を定めています。兄弟たちの妬みでエジプトに売られてしまうヨセフでありますが、それは神様の導きであり、ヨセフはエジプトの大臣になってヤコブの一族を救うのであります。ドロドロとした家族の関係の中に、神様の導きがあることを聖書は示しています。そういう歴史を示しながら、神様ご自身が家族の中心であることを示すようになるのか預言者たちの働きでありました。
 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とイザヤは示しているのであります。神様がくださる「平和の契約」があなたの家族を祝福すると示しているのであります。

 家族を導くのは主イエス・キリストであると聖書は示しています。イエス様が人々に神様の御心をお話しているところに、人々が子供を連れてきました。イエス様に触れていただくためであるということです。子供たちが親と一緒に来て、その周りで遊んでいたというのではなく、イエス様に触れていただくために子供を連れてきたのです。しかし、イエス様のお弟子さん達は子供を連れてきた人たちを叱ったのです。イエス様が神様の御心をお話しているのに、子供はうるさいというわけです。しかし、イエス様はこれを見て「憤り」ました。イエス様が憤ったという表現は、聖書の中ではこのマルコだけであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じ出来事が記されていますが、イエス様が憤るという表現はありません。イエス様が人間的な感情を現すことの表現は避けたということです。しかし、マルコによる福音書の著者はイエス様のありのままを記しているのです。それだけにイエス様の示しが強いということであります。
 イエス様が憤られた背景には、既にイエス様の子供に対する示しが与えられてたいたからであります。9章33節以下に「いちばん偉い者」についてお弟子さん達が論じあいました。弟子たちの中で、誰がいちばん偉いのかという議論でありました。その議論を知ったイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。そして、一人の子供を抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と教えられたのであります。このように教えられていながら、子供たちをイエス様に近づけない姿勢を見て、イエス様は憤られたのであります。「子供を受け入れる」ことを教えたばかりなのです。イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と示されています。子供を受け入れなさいと示されています。その子供は純真に神の国を受け入れているのであります。今、イエス様が人々にお話しているのは神の国に生きるということであります。何よりも子供たちが神の国に生きることを受けとめているということであります。イエス様はそのように示されながら、イエス様に触れていただくために子供を連れてきた親に対して、祝福を与えたと示されるのであります。家族に神様の祝福が与えられることを願っている人々を顧みられているのであります。

 私たちは家族の幸せを祈っていますが、家族のために何一つできないことも確かであります。家族は自分の思い通りの存在ではありません。家族は自分ではなく、一人の人格を持った存在であります。私達はその家族のために祈ることなのであります。
 エフェソの信徒への手紙6章1節以下の示しは「親と子」についての示しであります。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」と教えられています。これは十戒の第五戒でありますが、聖書では親であるから両親に従いなさいと教えているのではなく、両親は自分より長く生きており、それだけ神様の御心を示されて生きてきているのです。両親に従うということは神様の御心に従うことなのであります。次に聖書は、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と教えています。ですから、親としても自分の気持で子供を育てるのではなく、神様の御心において育てることを教えているのであります。
 前任の幼稚園で父親の会を開きました。お父さんは仕事があり、従って夜の集いでしたが、それでも10名くらいのお父さんが集いました。その時、まず礼拝をもって始めたのですが、今朝示されている聖書の言葉、エフェソの信徒への手紙6章をもってお話しました。ここに示される「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」との示しを、一人のお父さんが感銘深く受けとめられました。そして、次の日曜日には夫婦で一緒に礼拝に出席されたのであります。そして、それからは毎週のように礼拝に出席され、クリスマス礼拝では夫婦揃って洗礼を受けたのであります。このお父さんは教会学校の先生にもなり、子供たちを祈りつつ信仰の歩みをされていました。この祈りは必ず祝福されると思っています。
 祝福の家族の基は主イエス・キリストの十字架の救いであります。旧約聖書におきまして、思い通りに行かない家族を自分の思いのままにしたり、ドロドロとした家族の関係でありましたが、神様が家族の状況にお導きを与えられました。祝福が与えられたのであります。私達の家族状況の中にイエス様の十字架の救いと導きが与えられています。祝福の家族へと導かれるのであります。私達の家族には神様の慈しみが与えられていると示されなければならないのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私達の家族のためにイエス様が十字架におかかりになられました。祝福の家族へとお導きください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。