説教「幸いを得るために」

2014年8月17日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第11主日

説教・「幸いを得るために」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記10章12-22節
    ヘブライ人への手紙12章4-13節
     マルコによる福音書9章42-50節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・268「まごころもて」
    (説教後)讃美歌54年版・531「こころの緒琴に」


 今朝は聖霊降臨節第11主日の礼拝でありますが、先週の8月15日は日本の敗戦記念日であり、今朝も「平和を来らせたまえ」と祈りつつ礼拝をささげているのであります。平和については、日本基督教団は8月の第一日曜日を「平和聖日」としています。1962年12月3日に開催された第2回常議員会において決められたものです。言うまでもなく、日本が戦争をしており、1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされました。当時の広島市の人口35万人のうち14万人が犠牲となりました。9日には長崎に原子爆弾が落とされました。当時の長崎市の人口は24万人であり、7万3千人が犠牲となりました。これは亡くなった方々であり、原子爆弾により、今でも苦しんでいる人々がおります。日本はもはや戦争は続けられなくなり、敗戦を認めたのであります。それが1945年8月15日であります。
 日本基督教団は日本の戦争中1941年に成立しました。それまではいろいろな教派により信仰の歩みをしていました。しかし、国の強制的な政策で日本におけるプロテスタントの教会は一つにされたのであります。その頃の信徒運動も一つになることを目指してもいました。一つになって、名称を日本基督教団としたのであります。しかし、戦争が終わると、再び元の教派に戻っていく教会がありました。その中で、せっかく一つになったのであるから日本基督教団の教会として歩んでいくことことにしたのが、今の日本基督教団の教会であります。そして、日本基督教団は1962年に「平和聖日」を定め、1969年には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、戦争責任告白を公にしたのであります。しかし、日本基督教団が公にしたというよりは、当時の総会議長の名で公にすることが決められたのであり、日本基督教団の名において公にしたというのではありません。これは、今ここではお示しできませんが、ネットをご覧になる方は「日本基督教団」で検索していただければ読むことができます。日本基督教団はホームページを開いています。教憲教規、「信徒の友」による「日毎の糧」、教団新報、教団内のいろいろな取り組みが紹介されており、読むことができます。時にはネットを開いて教団の歩みをご覧いただくと参考になるかと思います。
 8月15日を覚えつつ平和を祈るのでありますが、今は何が平和であるのか、分からなくなっているのではないでしょうか。平和を祈るということは、戦争の無い地上であります。世界に目を向ければ、戦争は現実の問題として、苦しみつつ生きている人々がおります。しかし、日本の国は戦争を忘れ、戦争を知らない人々が多くなっているのです。子供ばかりではありませんが、ゲームの世界は相手をやっつけることであり、いとも簡単に相手をなくしていくのであります。相手をやっつけながら、そしてそれを喜びながら成長する子ども達であります。戦争というより、人間関係において、他者を排除する姿勢こそ戦争の根源なのであり、人が共に生きることを繰り返し教えておられる聖書に立ち帰って、平和を来らせたまえと祈りたいのであります。

 旧約聖書申命記が示されています。10章22節からでありますが、「神様が求められること」として内容を示しています。この10章では再び十戒が与えられたことが記されています。十戒が与えられたのは、エジプトを出て、最初の宿営地、シナイ山の麓にいるときであります。モーセシナイ山に登り、40日間山上にいました。そのモーセ十戒が与えられました。この十戒により、人々を導きなさいということであります。人々はモーセシナイ山に登ったまま、なかなか降りてこないので、人々は自分たちの中心となるものとして「金の子牛」、偶像を造り、その周りで踊り狂ったのであります。そこへモーセが下山しました。偶像の前で踊る人々を見て、モーセは石の板に刻まれた十戒を石に投げ付けて砕いたのであります。これによって、神様からいただいた十戒はなくなってしまったのであります。その後、神様の招きのもとに、モーセに再び十戒が与えられました。その十戒をもとにして、人々にお話をしているのが今朝の聖書であります。
 申命記モーセの説教であります。申命記の「申」は「重ねて申す」という意味でありまして、神様の恵みと導きを、繰り返し人々に示すのであります。「神様が求めておられること」として、平和の民として生きることを教え導いているのであります。
 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」とモーセは示しています。神様が聖書の人々に求めておられることは、「あなたが幸いを得ることだ」というのです。そのために、神様は人が生きる基本的な生き方を示しておられるのです。「主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕える」こと、そして「主の戒めと掟」を守ること、それが幸いを得る道であるというのです。主の戒めと掟は十戒に示される通りであります。「あなたの父母を敬いなさい」「あなたは殺してはなりません」「あなたは姦淫してはなりません」「あなたは盗んではなりません」「あなたは偽証してはなりません」「あなたは隣人の家を欲してはなりません」ということが戒めなのであります。戒め、戒律というので、さぞ難しいことであろうかと思いますが、人間が生きるに基本的な指針であります。戒められなくても、当たり前のことなのです。しかし、神様は戒めとして示しているのであります。当たり前のことでありますが、人間はこの当たり前のことが守られないということであります。
 モーセは、さらに神様の導きを語ります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と示しています。人として共に生きること、なかでも困難な状況に生きる人を顧み、共に生きなさいと示しているのであります。これが神様に従う道であります。神様に従う道は、自分だけの祈りではなく、「我らに」と祈ることなのであります。
 「神さまが求めておられること」を常に示されながら生きるということです。それは戒めを実践しつつ生きるということであります。私の生き方の中には、「神さまが求めておられること」と共に「母が私に求めたこと」が常に根底をなしています。私の母の名は「ハナ」であります。母の証しは既にお話しています。母が入院しているとき、6月の第二日曜日に近くの教会学校の子供たちが花を持ってお見舞いしてくれました。6月の「花の日」に花を持ってハナさんを見舞ってくれたということです。花を贈られたハナさんは深い感銘を与えられ,退院しますと私をその教会学校に連れて行きました。その頃の私は小学生の3年生でした。花を贈られた礼を述べ、「これからこの子が毎週来ますから、よろしくお願いいたします」と挨拶しているのであります。それから日曜日になると母は私を教会学校に送りだしたのであります。母は自分が教会に行くというのではなく、子どもを教会に通わせることでありました。大人になって振り返ったとき、母が私に求めたこととして、その頃を思い出しているのであります。母の願いは、自分の子供も人様に喜んでもらう、そういう人になることであります。自分を喜ばしてくれた子ども達、自分の子供もそのようになってもらいたい、そのためには教会学校に通わせることでありました。その教会学校は神様が求めておられることを子どもたちに教えていたのであります。私は母の願いである「人様に喜んでもらう人になる」には、まだまだ途上でありますが、神様が求めておられることを常に示される、その働きの場に遣わされていることを感謝しています。

 「神さまが求めておられること」を真実受け止め、主に従うことを示されているのは主イエス・キリストであります。イエス様は私たちに「神さまが求めておられること」を教えてくださいました。神様の御心であるイエス様に従うことが、祝福の歩みであると示されるのであります。イエス様は一般の人には優しく、分かりやすく神様の御心を示されていますが、「神さまが求めておられること」の歩みをするとき、すなわち「主に従う道」を歩もうとするなら、イエス様は厳しく求めておられるのであります。ルカによる福音書にしるされている「弟子の覚悟」を示されます。ある時、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われると、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言った人がいます。するとイエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカによる福音書9章57節以下)と言われたのであります。イエス様に従うと言いながら、置かれている状況が気になるということ、そんなことでは真に主の道を歩むことにはならないと示しているのであります。
 今朝の聖書、マルコによる福音書9章42節以下は、もっと厳しく「神さまが求めておられること」に従うことを示しています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と示しています。「小さな者」とは信仰的にあるいは社会的に弱い立場にある人と言うことができます。弱い立場の人を「神さまが求めておられること」から遠ざけてしまう人、人をつまずかせることであると言います。その後に書かれていることは、自分の体の一部分が、自分をつまずかせるのです。すなわち片方の手、片方の足、片方の目が私をつまずかせるのです。体の一部を通して誘惑が入りこむということなのです。この聖書の背景にあるものは、信仰の群れ、教会の群れと言うことでありましょう。共に信仰の歩みをしているとき、その群れの中に誘惑を持ちこむということであります。パウロは、教会はキリストの体であり、一人一人は主の体の肢体であると示しています。マルコの場合も、教会は一つの体として、その体の一部が誘惑をもたらすことがあってはならないと示しているのです。教会全体が誘惑に陥ることを避けるために、誘惑をもたらす体の一部を取り除きなさい、と示しているのであります。

 私達の信仰は日本基督教団の信仰です。日本基督教団を選んで、教団の教会に所属する信者になったのではありません。私の場合も、小学校の時はバプテスト教団の日曜学校に出席していました。そして、中学生になって清水ヶ丘教会に出席するようになりました。清水ヶ丘教会は日本基督教団の教会ですが、日本基督教団を選んで出席するようになったのではありません。私の二人の姉たちが日本基督教団清水ヶ丘教会の教会員であったので、私も出席するようになったのです。そして、その教会で信仰が養われ、日本基督教団の信徒となり、そして日本基督教団の牧師になったのです。そういう順序で信仰が導かれていますので、日本基督教団の教憲・教規を大切にしながら信仰の道を歩んでいるのです。この日本基督教団の中でも、信仰を自由にとらえる人がいます。信仰を導くこととして聖餐式があります。主イエス・キリストの十字架の救いを信じて洗礼を受けた者が、さらに信仰が導かれるために聖餐式に与るのです。イエス様の御体としてのパンをいただき、イエス様の御血をいただくこと、葡萄酒をいただくことですが、これらの儀式は信者が与ることなのです。しかし、この聖餐式をまだ洗礼を受けない人にも開放する牧師がいるのです。自分達だけ聖餐に与るのは差別であるとし、洗礼を受けていない人にも与えているのです。聖餐式は信者が受けるべきことについては教憲教規に記されています。
 日本基督教団は未受洗者に聖餐式を開放している牧師が、それを公にしているので、教団としての信仰が乱れますので、未受洗者への聖餐式授与をやめさせようとしましたが、決してやめようとしませんでした。日本基督教団は戒規の規則がありますので、戒規により、その牧師を停職させました。しかし、その牧師が悔い改めて未受洗者への聖餐式を取りやめるならば、いつでも復帰できるのです。だから排除ではありません。悔い改めて、日本基督教団の信仰を共にしてもらいたいのであります。その牧師はこの世の裁判に持ち込みましたが、この世の裁判は、これは信仰の世界の問題なので、取り上げようとはしませんでした。イエス様が厳しく悪に対する戦いを奨励しているのはこのことなのです。
 この牧師が未受洗者への聖餐式執行を公にしているので、日本基督教団はこの人を停職にしたのです。願うことは悔い改めて未受洗者の聖餐式をやめることです。日本基督教団の教会の牧師の中には、同じように未受洗者への聖餐式をしています。特に地方の教会で、礼拝出席も少なく、洗礼を受けたくても家庭の事情で受けられない人を思うと、どうしても教会員と一緒に未受洗者にも聖餐式を与えているのです。それでは洗礼とは何でしょうか。主イエス・キリストの十字架の救いを信じて洗礼を受け、イエス様の信者になり、聖餐式に与っているのです。洗礼を受けてなくても、聖餐式に与れますとの方針は、洗礼をないがしろにしているのです。イエス様の十字架の救いを無にしているのです。正しい信仰に導かれたいのです。そして、幸いをいただきつつ歩みたいのであります。人間的に、同情的に人を見るのではなく、神様の御心で人と共に歩まなければならないのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様が求めておられること、祝福の歩みへと導いてくださり感謝いたします。イエス様に従う道を力強く歩ませてください。主の御名によりささげます。アーメン。