説教「共に祝福をいただくために」

2014年8月10日、横須賀上町教会
聖霊降臨節第10主日

説教・「共に祝福をいただくために」、鈴木伸治牧師
聖書・民数記11章24-30節
    マルコによる福音書9章33-41節
賛美・(説教前)讃美歌21・411「うたがい迷いの」
    (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」


 今朝は8月の第二日曜日であります。前週は第一日曜日であり、日本基督教団は8月の第一日曜日を平和聖日として定め、平和を祈りつつ礼拝をささげたのでありました。前任の大塚平安教会在任の頃、教会の創立記念日が8月8日であるため、8月の第一日曜日には創立記念日礼拝をささげていました。しかし、第一日曜日は平和聖日であり、創立記念礼拝と重なっていました。重なっても良いと思っていたのです。教会はこの世にあって平和を造るために建てられているのですから、平和を祈りつつ創立記念日礼拝をささげることには意義があったのです。ところが二つのことが重なることで、それぞれの意義が分散してしまうと言われる方があり、役員会で協議しました。それにより8月の第一日曜日は「平和聖日」とし、第二日曜日は「教会創立記念日礼拝」としたのでした。今朝は第二日曜日ですので、大塚平安教会は創立記念日礼拝をささげていることでありましょう。
 その大塚平安教会は新しい会堂建設をしているところであります。私の在任中も新会堂建設の準備が進められていました。今までの建物は1968年6月に建設されました。まだ50年を経ない、46年くらいです。しかし、今では狭くなっていますので、どうしても使いやすい礼拝堂が必要になっているのです。歴史も1949年の創立でありますので、まだ65年しか経ていません。開拓時代が20年ありますが、それでも100年は経ていないのです。歴史の浅い教会ですが、地域に建てられている教会として、人々の希望になっていることは、神様に委ねられている思いが強く与えられていました。大塚平安教会は今までも35周年記念、50周年記念、60周年記念の礼拝をささげながら歩んでいます。50周年の時であったと思いますが、町の市会議員の方もお招きし、祝辞をいただきました。昔はたいした喜びがなく、日曜学校で小さなカードがもらえるのが喜びであったと言われます。その方も小さい頃は日曜学校に通っていたのです。その後は教会には出席しませんでしたが、何時も教会の前を通るたびに、ここに教会があるという喜び、安心感をもって過ごされていると申されました。地域の皆さんは教会には来られなくても、ここに教会があるということで、喜んでおり、希望を持っておられるのです。
 先日の6月15日ですが、清水ヶ丘教会の新しい牧師の就任式がありました。私も清水ヶ丘教会出身ですので、お祝いに出席しました。祝会では皆さんが新牧師の就任を歓迎し、お祝いしていました。その中で町内会の会長さんも出席され、お祝いを述べていました。地域の皆さんは礼拝というものには出席していませんが、しかし、ここに教会があるということで希望を持ち、安心していると言われていました。特に清水ヶ丘教会は地域より高台にありますので、津波が発生すれば避難所でもあり、そういう意味でも希望になっているとも言われました。そういう物理的な希望と共に、ここに教会があるということで希望を持っているのです。
 こちらの横須賀上町教会にありましても、ここに教会があるということで、町の人々は希望を持っており、喜びとなっているのです。こちらは1906年の創立ですから、100年以上も人々の希望となっているということです。教会は神様から祝福をいただく所です。地域の人々と共に神様の祝福をいただくことを祈りつつ歩んでいるのです。この教会の存続を願って、建物応援団という形で、教会の存在を喜んで下さっているのですから、共に神様の祝福をいただきたいのであります。共に祝福を与えてくださるために、神様がいろいろな導きをくださっているのです。

 今朝は旧約聖書民数記から示されています。この民数記は聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年でありましたが、神様はモーセを通してエジプトから救い出したのでした。そして、救い出された人々は神様が約束してくださった土地、乳と蜜の流れる土地へと荒野の旅をしているのであります。日本語の題は「民数記」ですが、原文の題は「荒れ野にて」であります。この民数記の1章と26章に民族を数えていることから「民数記」としております。しかし、単に民族を数えているのではなく、荒れ野の旅で、いろいろな出来事があり、それらを神様の導きとして記しているのです。
 今朝の聖書は、旅の途上、不思議な現象が起こり、人間的に考えてもよろしくないと思われるので、やめさせようとするのです。11章24節以下が本日の聖書です。本日は24節から30節ですが、次の段落の31節からを「うずら」としています。その「うずら」を食べることになる経過が今朝の聖書なのです。エジプトを出た聖書の人々は、当初は食べ物を持っていました。しかし、それらはすぐになくなってしまいます。そうすると人々は一斉に不満をモーセにぶっつけます。この荒野で我々を死なせるために連れ出したのだと言うのです。その不平不満を言う人々に対し、神様は「マナ」と言う食べ物を与えて養ったのです。飲む水がないと言っては、やはりモーセに詰め寄ったのです。こうして飲む水、身体を養うマナを与えられて旅を続けていたのですが、今度は肉を食べたいと言って騒ぐのです。そのあたりは11章4節に記されています。「誰か肉を食べさせてくれないか。エジプトでは魚を食べていたし、きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやニンニクが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」と言って騒いでいるのです。不満があれば、すぐにモーセに詰め寄る人々に対して、神様はその務めを緩和するために、モーセと共に神様の御用をする人々を選ばれるのでした。
 そこで選ばれたのが70人の長老でありました。神様の霊がモーセにとどまると同じように、一時的ではありますが、この70人の長老たちには神様の霊がとどまったのです。神様の霊をいただいた長老たちは、モーセと共に人々の不平不満を聞き、神様の御心を示したのでした。更にこの70人の長老とは別に二人の人も神様の霊をいただいて、預言状態になっていたのです。それで、モーセの側近でもあるヌンの子ヨシュアが、「やめさせてください」とモーセに言います。モーセと同じように、指導的な立場になっているかのように見えたのです。その時モーセは、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言うのでした。
 こうしてモーセの務めを軽くしながら、神様は人々が肉を食いたいということで、「うずら」を与えたのであります。「うずら」は小さな渡り鳥で、アフリカからヨーロッパに移動し、シナイ半島パレスチナ方面はうずらの通路であったと言われます。人々の不満はこれで解消されるのですが、日々の生活において不平不満は際限なく出てきます。72人の神様の霊をいただく長老たちがモーセと共にその不満を聞きつつ、旅を続けるのでした。人間的に見れば、出過ぎた行為というものがあるものです。しかし、モーセはすべて神様のお導きであると受け止めているのです。

 旧約聖書において、ヌンの子ヨシュアが、長老たちが余計なことをしているように思えて、モーセに「やめさせてください」と言っております。新約聖書も「やめさせてください」と言っている部分が今朝の聖書になっています。二つのことが示されているようでありますが、二つの段落で示されていることは「働き人」ということでありましょう。
 人間は複数集まると、常に比較を考えるのです。どちらが上か、重い存在なのかということです。お弟子さん達も12人いましたから、やはり、この中で誰が一番えらいかと言いあっていたのでした。それを知ったイエス様は、改めて、「あなたがたは何を議論していたのか」と聞きました。そして、人が偉いということについて教えられたのであります。一人の人が「偉い人」であると言われるとき、その人はいとも小さい存在を受け入れているからである。一人の、どんな存在をも受け入れて共に歩む姿がある、その人が偉いのであるとイエス様は言われているのです。そのために、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えておられるのです。人か複数いたら、どちらが上なのかと詮索するのではなく、この人にどのようにして仕えることが出来るのか、その様な取り組みこそ祝福されるのであり、その祝福は自分だけではなく、人々と共に祝福をいただけると教えておられるのです。
 今朝の聖書の38節以下は、「逆らわない者は味方」との題になっています。弟子のヨハネがイエス様に、「イエス様の名前を使って悪霊を追い出している者がいるので、やめさせようとしました」と報告しています。するとイエス様は「やめさせてはならない」と言うのです。イエス様の名を使う以上、イエス様を信じているのであり、反対のことはできないからであります。むしろ、その者は味方であるとも言っているのです。いわゆるイエス様の所作を真似ているのであり、だから反対者ではないのです。イエス様はいろいろとお弟子さんたちを教えておられますが、最終的にはイエス様を真似るということであります。何よりもイエス様のお弟子さんたちの足洗があります。このお話はヨハネによる福音書しか記されていませんが、13章に「弟子の足を洗う」イエス様について記されています。イエス様はお弟子さんたちと夕食をするとき、手拭いを腰に巻き、盥に水を汲んでお弟子さんたちの足を洗ったのです。畏れ多くも先生のイエス様から足を洗われ、ペトロは「洗わないでください」とお願いします。するとイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われるのでした。そしたらペトロは、「足だけではなく、手も頭も」と言うのでした。このイエス様の足洗いは人に仕える姿勢を教えておられるのです。人の足を洗うということは、相手の足を自分の目の高さまで持ち上げるとしたら、相手はひっくり返ってしまうのです。だから相手の足を洗うには、相手の足元にうずくまって洗わなければならないのです。それが仕える姿勢なのです。
 新約聖書の今朝の聖書は、一番偉い人は仕える人だと教えられ、さらにイエス様の真似をする、すなわち仕える人になることを示しているのです。まったく異なる教えのようですが、私たちがイエス様を見つめ、その教えをいただき、真似て生きること、それがイエス様に従う道であると教えておられるのです。そうであれば、私たちは人と同じ姿であることを喜ばなければならないのです。ともすれと、他の存在と比較しては排除しようとしています。たまたま同じ店で同じ柄の洋服を求め、お互いにぱったり道であったりすると、なんか相手がにくくなります。自分と同じ姿を排除するのではなく、同じ姿を喜んであげることは、自分を喜ぶことにもなるのです。排除ではなく受け入れることなのです。

 2009年は日本にプロテスタントキリスト教が伝えられて150年でした。それで日本のプロテスタントの教会は、合同で記念式典を開催することになったのであります。日本のプロテスタント教会発祥の地は横浜でありますので、パシフィコ横浜で記念の式典を開催しました。日本のプロテスタント教会と言っても様々な教派があり、信仰の持ち方、表し方が異なります。その異なる教派の人々が一つ所に集まり、礼拝を共にするのですから、いろいろと大変な取り組みでもありました。この大会の実行委員長は、日本基督教団の山北宣久牧師でありますが、むしろNCCに加盟する団体の代表でもあります。そして峯野龍弘牧師です。ウェスレアン・ホーリネス教団の代表でありますが、福音系の教会の代表でありました。もう一人は大川従道牧師です。大和カルバリーチャペルの牧師ですが、聖霊系の教会の代表でもありました。43教団・教派が参加したのでした。本当にさまざまな信仰の皆さんが一緒に礼拝をしたのですから、画期的なことでありました。讃美歌をうたうときには手拍子を打ちながら歌う人々があります。司会者や説教者がお祈りすれば、お祈り中にもハレルヤ、アーメンと言いつつ共にお祈りしているのです。それに対して日本基督教団の皆さんは、いるのかいないのか、静かに礼拝をささげているのです。
 この時ばかりは共に礼拝をささげましたが、また一緒に礼拝しましょうとも思わない人が多かったと思います。日本基督教団の人たちは、手拍子を打ったり、ハレルヤとかアーメンと唱和しないので、常に声を発している人たちにとっては、あれでも信仰を持っているのか、と言われているかもしれません。信仰はあらわさなければならないからです。もう二度と一緒に礼拝をささげることはなくても、お互いに信仰の持ち方を尊重しているのです。そういう信仰がイエス様を真似ての信仰であり、イエス様の教えてくださった仕える者の生き方であるとして尊重しているのです。
 大塚平安教会に在任している頃、教会に比較的近い場所に韓国系の教会が出来ました。今まで大和市に存在していましたが、大塚平安教会の近くにとても良い物件があり、自分たちの教会にしたのです。開設式にはぜひご出席いただきたいとのことで出席しました。熱心を形に表す信仰の内容であり、讃美歌は激しい手拍子で歌います。圧倒されるような開設礼拝でした。その後はお交わりしませんが、イエス様の学び、イエス様を真似ての教会であると示されているのです。
 共に祝福をいただくために、すべての人を受け入れ、共に生きること、共に祝福をいただきつつ、私たちの人生を歩むことを示されているのです。 
<祈祷>
聖なる神様。イエス様に導かれ、信仰の姿は異なりますが、共に祝福をいただきつつ歩ませてください。イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。