説教「幸せな人生」

2020年6月7日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第2主日」 三位一体主日

 

説教、「幸せな人生」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書40章12-17節

   テモテへの手紙<一>6章11-16節
   ヨハネによる福音書14章1-14節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・66「聖なる、聖なる」
   (説教後)讃美歌54年版・494「わが行くみち」

 


 今朝は三位一体主日であります。私達が信じている神様は、「父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊」であります。神様が三人いるというのではなく、三様に言い表すことのできる神様であるということです。もともと神様が人々を導いておられました。しかし、人々はなかなか神様の御心を理解できないでいたのです。それで新約聖書の時代になって主イエス・キリストが世に現れました。御子として御生まれになりますが、人間として人々を導かれたのでした。しかし、そのイエス様に妬みを持った指導者たちにより十字架につけられます。そのイエス様は復活されて人々にそのお姿を示されますが、天に昇られたのでした。イエス様が目に見える姿でいなくなりましたが、今度は聖霊となって人々を導くようになったのです。昔から神様がいろいろなお姿で人々を導かれたのですが、今までの神様のお姿は三位一体であるということを本日は示されるのであります。三位一体の神様が私達を「幸せな人生」へと導いてくださるのです。
 前週は聖霊降臨祭であり、聖霊の力と導きを与えられました。聖霊降臨祭の10日前はイエス様の昇天日でありました。イエス様はご復活され、40日間、ご復活のお姿を多くの人々に示されました。そして、40日後に天に昇られたのです。それでそのまま天におられるというのではなく、イエス様は天国に私達を迎えるために天に昇られたのであり、場所の用意ができたら、私達を天国に迎えるために戻られると言われているのです。そのことを本日の聖書、ヨハネによる福音書で示されています。イエス様が天に昇られたのは、「場所を用意しに行く」ことであり、場所の用意ができたら戻ってくると言われているのであります。戻って来られたことが聖霊降臨なのであります。前週のペンテコステ礼拝は、聖霊降臨なのですが、イエス様が戻って来られたと受け止めることなのです。イエス様は、私達が「幸せな人生」を歩むために、戻って来られているのです。
 「幸せな人生」は誰もが願うことです。しかし、「幸せな」状態は人それぞれによって異なります。お金があれば、楽しい人生を送れると思っている人がいますが、やはりそれなりに苦労があるのです。いつも楽しく過ごしているようですが、いろいろな苦労も担いつつ過ごしている方もあるのです。財産のゆえに醜い親子、家族の争いがあります。苦労がないから幸せというのではなく、苦労があっても「幸せな人生」と受け止めておられる方もおられるのです。「幸せ」とは、日々喜びつつ歩むことですが、それが死んでもなお祝福の存在であること、そういう希望が「幸せ」であると示されています。そうなると宗教の世界になりますが、現在、将来の歩みが祝福の歩みであると信じることができるならば、「幸せな人生」なのです。宗教の導きですが、仏教でもその様な「幸せな人生」を歩まれておられる方があるのです。私達はキリスト教ですから、イエス様による現実のお導きをいただいており、そしてイエス様は私達を天国へと導いてくださるために、天国からお戻りになられたのですから、現在と永遠の命が祝福へと導かれているのです。

エス様のお導きの人生を歩むことです。聖書は、私たちの姿勢として、神様に向くことであり、神様に希望を持ち、天国への希望を持つことこそ大切な歩みであることを示しているのであります。今朝の旧約聖書イザヤ書は偉大な存在の神様を証しています。40章12節以下で示しています。「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」と示しています。神様に希望を持つということは、神様の創造の世界をしっかりと受け止めることでありました。今や地球上の人類は宇宙のはてにまできわめていますが、それで神様の創造の世界を理解したとは言えないのです。決して創造の世界を克服できないのであります。それほど創造の世界は完全であり、大きな存在なのであります。
 旧約聖書の始めは創世記であり、そこには神様が天地、宇宙万物をお造りになったことが記されています。「神は言われた。『光あれ。』神は光を見て、良しとされた。」と記されています。いとも簡単に造られているのです。しかし、簡単に思えますが、神様の創造の業を見極めることはできないのです、そのことを示しているのがイザヤ書なのです。このような自然の神秘、到底人間の知恵では知ることできない神様の御業に対して、今置かれている状況を、簡単に解釈してはならないということです。神様の偉大な導きが示されていること、それを知らなければならないのです。
 イザヤの預言を聞く人々は、今はバビロンの国に捕われの身でありました。その人々に神様の存在を示し、創造の御業を仰ぎ見、そして神様に望みを置くことを示すのがイザヤの預言でありました。神様は隠れた方ではないこと、創造の世界を証しながらあなたがたを導いていると示しているのであります。その導きの神様に希望を持つことが、今は捕われの身であっても、あなたがたの歩むべき道であると示しているのであります。神様は、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」のであります。そして「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と示しているのであります。神様に向かうことによって常に真理の霊が与えられるからであります。旧約聖書が示す「幸せな人生」なのであります。現実は苦しい状態ですが、神様が共におられて、現実を導いてくださっていると信じて歩むのです。「幸せな人生」となるとイザヤは示しているのであります。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と主イエス・キリストはお弟子さん達に示しています。ヨハネによる福音書はこの14章から16章まで、イエス様がお弟子さん達に与えた別れの説教であります。まもなく十字架に架けられることを御存知であるイエス様は、最後にお弟子さんを励まし、イエス様がおられなくなっても、力強く歩めるようお話しされるのであります。そしてお弟子さん達と分かれることになりますが、そのため、どんなことがあっても神様を仰ぎ見つつ生きることを示しているのが、別れの説教、決別説教でありました。「心を騒がせるな」と示しています。前の13章21節以下で、イエス様はお弟子さんの中から裏切り者が出ることを示しています。また、13章36節以下では、お弟子さんのペトロがイエス様との関係を否定することも言われました。こうしてお弟子さんたちはイエス様から弱さを指摘され、不安を覚えていました。お弟子さん達の弱さを次々に予告されるイエス様に不安を持ち、心が騒いでいたのです。その、心を騒がしているお弟子さん達に、決別説教の冒頭で、「心を騒がせるな」と示します。「神様を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と教えているのです。不安をなくすことは信仰に生きることなのです。まず神様を信じることなのです。
 お弟子さんたちの不安を取り除くために、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」と示されています。イエス様への招きの言葉でもあります。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知るようになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とイエス様は言われました。するとお弟子さんのフィリポが質問します。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのです。それに対してイエス様は、「わたしを見たものは、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」と示しています。主イエス・キリストを見ることにより神様を見ることになるのです。神様は霊なる存在であり、私たちの目には見えません。主イエス・キリストを見ることにより、神様が見えるのです。
 神様を知るということはイエス様を見ることだと示されています。プロテスタント教会は中心が十字架でありまして、イエス様の姿を見ることはありません。しかし、カトリック教会は、教会内にイエス様の像や絵が掲げられています。イエス様と共にマリアさんの像も飾られています。イエス様の十字架に架けられている像も重々しく掲げられています。スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会の内部に入りますと、聖壇付近に十字架に架けられているイエス様の像が吊るされています。人々はいつもそのイエス様を示されているのです。そのイエス様を見て、神様を示されているのです。教会内にはいたるところに形としてのイエス様がおかれているのです。イエス様やマリアさんの像や絵ばかりではなく、歴史において信仰を持って力強く生きた人々の像や絵も掲げられています。それにより、人々はイエス様のお導き、天国への希望を深めていくのであります。プロテスタント教会は形としてのイエス様の姿はありません。信仰におけるイエスさまの導きであり、教えなのであります。それにより神様を示されているのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、イエス様の救いをいただき、天国への希望を与えられているのであります。

 十字架により天国へと導かれている私達ですが、この世に生きているのですから、やはりいろいろな苦労、人間関係を持ちながら歩んでいるのです。本日は「幸せな人生」と題しての聖書の示しをいただいています。私は81歳を迎え、これまでの人生を振り返ったとき、「幸せな人生」であったと思います。しかし、思い起こせば、苦しい挫折があり、今でも心に残されていますが、その挫折が祝福の発端であると示されているのです。
 私は小学校3年生の途中から教会学校に出席するようになりました。昔は日曜学校と称していました。その頃、母が入院していまして、その母を日曜学校の子供たちがお見舞いしてくれたのです。6月の「花の日」でありました。母は感動しまして、その後、退院しますと、私を連れてその日曜学校に出席したのでした。花を贈られたお礼と共に、これからは子供が出席しますからお願いします、と言っているのです。私の意思ではなく、母は自分の子供も人様に喜んでもらう、そういう人になってもらいたいと願ったのでした。それからは日曜日になると日曜学校に通わせられました。3年生の途中からでしたが、4年生、5年生、6年生では殆ど休むこともなく出席したのでした。
 6年生の時、クリスマスも近くなっていました。11月頃であったと思いますが、小学校のクラスの友達が、自分も日曜学校に行くというので、彼を日曜学校に連れて行きました。彼は頭も良く、ハンサムで、クラスでは人気者でした。彼を日曜学校に連れて行くことには不吉な予感を持っていました。日曜学校ではクリスマスが近づいているので、クリスマスにはみんなでイエス様のお生まれになった劇をすることになりました。それで先生がその配役を発表したのです。クリスマス物語ですから、ヨセフさんやマリアさん、羊飼いや博士等が決められたのでしたが、ヨセフさんには日曜学校に来たばかりの小学校の友達が選ばれたのでした。私の役といえば、ヨセフさんの大工仲間でした。セリフもなく、ヨセフさんの周りをうろうろしている役柄なのです。日曜学校をほとんど休まないで出席しているのに、日曜学校に出席し始めたばかりの小学校の友達が、主役みたいな役柄なのです。この時は、ショックというか、日曜学校の先生を恨みました。もう日曜学校なんか行きたくないと思いました。しかし、日曜学校は母の励ましであり、日曜日になれば送りだされるので、失望しながらも出席していたのです。クリスマスは、まさに惨めな思いで劇をしたのでした。辛い思いで日曜学校に出席していましたが、クリスマスが終わり新しい年を迎えたのですが、小学校の友達はクリスマスが終わると、もう日曜学校には出席しなくなりました。彼が出席しなくなったことで、なんか、ほっとしたような思いでした。今でも、その当時のことを思い出すのですが、挫折を乗り越えて日曜学校に出席していたこと、母によって出席させられたというべきですが、教会に繋がっていたことが「幸せな人生」の基となっていると示されているのです。
 挫折はもう一つあります。通っていた日曜学校は関東学院教会でした。出席していた日曜学校の生徒は、ほとんどが関東学院小学部の生徒たちだったのです。それらの子ども達は、そのまま関東学院中学部に進みます。これらの生徒の皆さんと交わっているうちに、私も関東学院中学部に入りたくなったのです。両親に願って試験を受けたのでした。しかし、不合格になりました。不合格になったことで、今まで通り日曜学校に通うのは、恥ずかしくてできませんでした。それで、やむなく二人の姉が清水ヶ丘教会に出席していましたので、私もそちらに出席するようになったのです。子供ながらの挫折でしたが、今から思えば、それは神様の大きなお導きであったと示されているのです。関東学院に進んでいたら、牧師ではなく別の進路になっていたのかもしれません。小学校時代の挫折感は、後に大きなお導きになったと示されています。
 今はイエス様の十字架を見つめ、イエス様が聖霊になって天国への道を歩ませてくださっているのです。まさに「幸せな人生」を歩んでいると示されているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエス様が示されているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架のお導きを感謝致します。現実をイエス様と共に歩み、天国の喜びを増し加えて歩ませてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメ

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